“銀幕スター”石原裕次郎が「がん」で死去した直後、まき子夫人が寄せた独占手記「もう一度裕さんに会いたい」
2025年5月6日(火)18時0分 文春オンライン
1956(昭和31)年、兄の芥川賞受賞作が原作の映画「太陽の季節」でデビューした俳優の石原裕次郎(1934〜1987)。北原三枝の芸名で活躍し、「狂った果実」などで共演した、まき子夫人(1933〜)と昭和35年に結婚。「永遠のタフガイ」として映画やテレビ、歌手としても活躍したが昭和62年にがんで死去。直後に刊行された緊急増刊「さよなら石原裕次郎」へ、まき子夫人が独占手記を寄せた。(全2回の1回目/ 後編に続く )
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息をひきとるまで、死ぬわけがないと…
私は、最後まで、石原が亡くなるとは思っていませんでした。息をひきとるまで、死ぬわけがないと思っていたのです。
石原という人は、負けるものは何もなかったのです。ところが、病気にだけは負けてしまいました。それがくやしくてなりません。本当にくやしいのです。
私が石原と初めて出会ったのは、「太陽の季節」の撮影中でした。
当時、私は、新藤兼人監督の「流離の岸」で、山口県へロケーションに行っておりました。太田洋子さんの原作で、私の好きな作品です。で、撮影所に帰ってきましたら、水の江滝子さんが、芥川賞をとった石原慎太郎の弟で、「太陽の季節」に出ている面白い子がいるから、「マコちゃん、ちょっと会ってみてよ」とおっしゃるのです。
ちょうど、「太陽の季節」のセット撮影中でしたので、お昼少し前ぐらいに、セットスタジオまで水の江さんに連れていかれたんです。スタジオには2階のテラスみたいなところがありまして、そこから、岡田真澄さんと石原が、北原三枝が来たからっていうので、覗いていたんですね。ですから彼の一番最初の印象は、セットスタジオからこっちを眺めている若い男の子という感じでした。二人とも真っ白い背広を着ていました。
水の江さんが、「裕ちゃん、裕ちゃん、この人は北原三枝さん。もしかしたら何かで一緒に仕事をするかもしれないから宜しくね」と紹介してくださったので、「はじめまして、石原裕次郎です」「北原です」っていって、それが初対面でした。
すぐ昼食になりましたので、スタジオからみんなで一緒に出たんですが、テレているのでしょうか、どんどん、どんどん先へサッ、サッ、サッと行ってしまうんですね。その後ろ姿が、私にはとても印象的でした。紹介された時より、どんどん先に歩いて行ってしまう背の高いスマートな後ろ姿、それがとても印象に残ったのです。
「いいよ裕ちゃん、自分のいいようにやってごらん」
それから「狂った果実」で共演しました。その撮影中のことです。最初は確かに台本通りセリフを言っていたんですけど、途中から、「とっても言えない」「こういう言葉じゃない」って言うんです。「ぼくたちの世界のこういう若者は、こんなことは言わない」といって譲らなくなってしまったので、とてもびっくりしました。
そこで、「石原さん、違うんですよ。こういう台本というものがあって、監督さんのおっしゃる通りに演技することが映画というものなんですからね。ちゃんと台本通りものを言わなければダメなんですよ」と言うと、その時は、「そうですか」と納得するんですけれども、芝居を始めるとどうしてもダメなんです。

その時、私、中平康さんという監督は大変立派な方だったと思いますけど、「いいよ裕ちゃん、自分のいいようにやってごらん」っておっしゃったんです。
監督も、ちゃんと台本通りにセリフをしゃべらなければいけないという、いわゆる映画俳優の演技を、石原に押しつけてはダメだということが分ったようなんです。それで自由に飛び回らせたことが、あの映画の面白くなった理由だと思うんですよ。
中平さんもそうですが、石原を一つの型、既成の演技に嵌め込んではダメだっていうことを早くから分って下さったのは田坂具隆(ともたか)さんです。「陽のあたる坂道」は、私の大好きな作品ですけれども、あれこそ石原裕次郎なんですね。あの役、あの演技で、あの映画は成功したんだと思います。それと、もう一つ、「若い川の流れ」という映画があるんです。これは、やはり田坂先生でしたけれども、石原も大変好きでしたし、私も好き、二人共通で好きな作品だったんです。
なかなか結婚できなかった
私たちの結婚は、35年の12月ですけど、実は「狂った果実」の年の暮に、石原からプロポーズがあったんです。ですから、時期としては、かなり早かったんですが、なかなか結婚できませんでした。お友だちも、私の両親も、石原のほうでも、みんな協力して下さったんですけれど、会社が許してくれなかったのです。石原は日の出の勢いの俳優でしたから、当り前だったとは思いますけど。
それでも、ようやく結婚にこぎつけまして、私は映画をやめました。どうしてすぐやめてしまったんですかと、よく訊かれますが、理由はまったく単純なんです。女房は、結婚したら家にいるものだ、ということです。それが私たちの年代なんです。嫁いだら、もう、その家の主婦にならなければならないという、ごく平凡な家庭に育ちましたから、そういうふうに母に教えられたというよりも、そう育てられてしまったんですね。女優になった時から、別に相手が石原でなくても、結婚したらやめるつもりでおりました。
それと同時に、石原は、やはり、家で世話をする人間がいないといけない、あれだけ忙しい人間は、お手伝いさんだけにはまかせられない、ということもありました。ということは、石原を理解し、現場を理解する人間じゃないと、とてもこの家は守れないということです。
私、そういう意味では、決して間違ったことはしていなかったと思うんですね。そして、この結婚を、私は本当に、何というんですか、一言で言いますと、誇りに思っています。
私は、石原にとって妻であり、恋人であり、母であり、兄弟であったと思います。みなさんはタフガイと よく石原のことをいいますが、本当は繊細な、心のやさしい人でした。
結婚してからの愉しい思い出は沢山ありますけれど、その中でも、非常に充実していたのは、毎年、暮に必ず二人で日本を離れるということでした。
行く先は最初からハワイです。なぜかハワイが好きなんですね。あの気候に合ったんじゃないでしょうか。なにしろ、健康な時は、陽をさんさんと浴びて、真っ黒に灼(や)いて、青い海で飛び回る人でしたから。
病気をしても、神様がよくして下さったもので、ハワイの気候が一番体に合っていたようです。ですから、何とかして、もう一度、あちらへ連れていってあげたいと思っているんですけれども……。
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後編 では、石原裕次郎本人、そしてまき子夫人も知らされていなかったという“本当の病状”や、「それでも私は、できることなら、石原と会いたい。本当に、もう一度、会いたいんです」というまき子夫人の思いが明かされる。
〈 石原裕次郎の壮絶な“がん闘病”…「半狂乱になって、まず石原の看病が出来なかったでしょう」まき子夫人が没後に明かした“本当の病状” 〉へ続く
(石原 まき子/ノンフィクション出版)