武市半平太による吉田東洋の暗殺の真相、長州・薩摩藩の中央政局への進出、藩主山内豊範の上京にかかわる武市の活躍

2025年5月7日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


武市半平太による吉田東洋の暗殺

 武市半平太は藩政を牛耳る吉田東洋の失脚・追放を画策し、山内家の分家に働きかけた。しかし、山内容堂が絶大な信頼を寄せる東洋を敵に回すことは、誰しもがはばかる愚行であった。追い詰められた武市は、暗殺による事態打開に期待する方針を取らざるを得なかった。

 なお、直接の暗殺指揮者は武市の妻富子の叔父である島村寿之助であった。ちなみに、島村は慶応元年(1865)に土佐勤王党弾圧で永牢となるが、維新後は新政府に仕えた。なお、武市が暗殺現場にいた説もあるが不分明である。いずれにしろ、総指揮は武市と推断するのが妥当である。

 文久2年(1862)4月8日、吉田東洋暗殺事件が勃発した。襲撃者は、郷士の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助である。東洋は、城中で藩主山内豊範に「日本外史」の御前講を行ったが、当日は参勤交代で出発する前の最終講であった。奉行職以下の高級役人が列席しており、事後は酒宴が催された。

 午後10時頃に解散となったが、東洋を含む一同はほろ酔いのままであったが、場外に退出した。東洋は、追手筋の中途から一同と別れて帯屋町通りへ向い、これ以降は従者の家来2人のみと同道した。雨中、3士の襲撃を受け、東洋は斬殺されたのだ。なお、20人くらいの同志が周辺に待機しており、この暗殺劇を見届けている。大目付の福岡孝弟は、「江戸ニて井伊侯を路頭ニ撃候事跡ニ倣」(「壬戌変事」)と、桜田門外の変で斃れた井伊直弼に東洋をなぞらえている。

 翌朝には、雁切川原(現在の高知市鏡川の紅葉橋付近)に罰文(「下賤之者ヨリハ金銀厳敷取上、(中略)御名ヲタバカリ、結構成銀之銚子ヲ相調、且、自己之作事、平常之衣食住、弥花美ヲ極メ」『武市瑞山関係文書』)とともに、東洋は梟首された。罰文には、東洋への真偽不明の誹謗中傷が列記されていた。

 武市は、容堂の実弟・山内民部に依頼し、現藩主実父として力を持つ元藩主山内豊資(とよすけ)に期待をかけた。11月、吉田東洋派(新おこぜ組)が失脚し、東洋体制は完全に崩壊したのだ。ここに、反容堂の保守派と土佐勤王党の新体制が確立したことになる。


文久元年(1861)から2年の政治動向

 ここで、吉田東洋暗殺前後の政治動向を、中央政局を中心に言及しておこう。まずは、長州藩の動向であるが、藩是となった航海遠略策(文久元年3月、直目付・長井雅楽が起草)を引っ提げて国事周旋に乗り出した。

 航海遠略策の中で、朝廷は幕府に大政委任をしているとの認識を示し、暗に通商条約の勅許を要求した。また、鎖国の叡慮(天皇のお考え)を曲げて海軍を建設し、外国に押し渡る航海交易論の採用を提言した。長井は、朝廷から通商条約の勅許を引き出して公武合体を成し遂げ、挙国一致して外国に対峙することを画策したのだ。まさに、未来攘夷に則った対外政略である。文久元年5月、孝明天皇は航海遠略策を嘉納した。つまり、勅許前提で受け入れたのだ。

 これに対し、久坂玄瑞をリーダーとする松下村塾グループに桂小五郎が加わり、藩政トップ周布政之助を取り込んで、長井排斥派が形成された。久坂による朝廷工作から、文久2年5月に嘉納は取り消された。しかも、7月に入京した藩主毛利敬親は、世子定広を始めとする藩要路と御前会議を開き、孝明天皇の叡慮を最優先し、藩是を航海遠略策から破約攘夷へ転換することを決定したのだ。

 次に、薩摩藩の動向について、島津久光の率兵上京(文久2年4月)によって、中央政局での、ひいては幕末維新史での主役として登場した。この率兵上京によって、幕末政治史が中央政局に移行し、弥縫されていた幕府権威が、誰の目から見てもわかるように失墜した。また、朝廷内に朝議参画を目指す中・下級公家からなる改革派廷臣を派生させ、西国雄藩を中心とする諸侯の上京や尊王志士の過激な行動が顕在化する端緒となったのだ。

 久光は、老中制から雄藩連合制へ移行させ、さらには自身の幕政参画への足掛かりとし、リーダー不在の幕府中枢に参画し、国政を牽引する志向を持っていた。一橋慶喜および松平春嶽の登用を企図し、勅使派遣を実現して江戸に乗り込み、慶喜らの登用を実現するも、久光自身の参画は叶わなかった。

 こうした状況下において、武市は3藩(土佐・薩摩・長州)の藩主を擁立して上京を画策したが、東洋亡き後も保守派要路はそれに躊躇した。方針が未決のまま、藩主豊範の参勤交代の出発が延期されたため、業を煮やした武市は同士を上京させ、三条実美を通じて武家伝奏・中山忠能から藩主上京・禁裏守衛という朝廷の意向を獲得することに成功したのだ。一方で、江戸の容堂に意向を打診することが先決であるとの言説を盾に、要路は上京諾否の結論を先送りし、武市をいらだたせ続けたのだ。


藩主一行の入京と武市の活躍

 文久2年6月28日、藩主豊範が参勤交代で出発した。しかし、入京するかどうかは、この段階では未決のままであった。7月12日、一行は大坂に到着したが、当時、全国的に麻疹が大流行しており、大坂でも蔓延していたため、藩主を始め岡田以蔵、武市の義理の甥・小笠原保馬らが罹患している。大坂では、患者が2000人程おり、死者も多数出ていた。

 一行は大坂で長期足止めとなったが、武市はこの状況をむしろ利用し、土佐藩主の入京を促す御内沙汰書の下賜に成功したのだ。8月25日、一行はとうとう入京を果たし、薩長に続き、国政と京都守衛に尽力することを求める、孝明天皇よりの沙汰書を下賜された。武市の面目躍如の瞬間であろう。

 武市は、閏8月、藩主豊範の名で朝廷への建白草案を作成した。摂津・山城・大和・近江(河内・和泉)の4カ国を天皇領とし、その地の大名は幕府から移封(天領より指定)を命令するとし、親王をそこに配置して全国から優れた志士を招いて召し抱えることを提言した。

 さらに、参勤交代の緩和を要望し、肥後・岡山・鳥取・徳島、さらに九州諸藩を上洛させ、綸旨を下賜して攘夷を促し、その上で勅使を将軍に派遣して、朝廷権威を天下に誇示することを強調した。しかし、幕府に対する遠慮と急進的な内容から、この建白は見送りとされたのだ。

 なお、「此度屹度名分御正遊ばされ、政令一切朝廷より御施行ニ相成」(『武市瑞山関係文書』)と、武市は王政復古を支持した。しかし、この考えは武市のオリジナルではなく、この当時の尊王志士の一般的な思想であった。例えば、平野国臣「尊攘英断録」では、薩摩藩のような大藩に頼って幕府を膺懲(征伐して懲らしめること)の上、天皇による兵権も掌握した親政を目指し、徳川家から皇族への征夷大将軍の交代を企図した。実質的に、将軍家を否定しており、結果として幕府否定の志向であった。

 次回は、武市による天誅の全容をできるだけ明らかにし、攘夷別勅使の派遣の決定とその実現に至る武市の動向を、薩摩藩の策略にも目配りしながら詳しく追ってみたい。

筆者:町田 明広

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