橋本龍太郎の“知られざる素顔”「武道館での葬儀の際、じっと兄の写真を見ていると…」
2025年5月8日(木)7時20分 文春オンライン
戦後、岸信介内閣で厚生大臣、文部大臣を歴任した橋本龍伍(りょうご)。その二人の息子が、元総理大臣・橋本龍太郎(1937〜2006)と、元高知県知事・橋本大二郎氏だ。大二郎氏が明かす、数々の兄の後押しとは。
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「そんなもん、消しちまえ!」
10歳下の弟を怒ることなど滅多になかった兄が珍しく声を荒げたのは、父が亡くなる時だった。
私が高校1年生の時だ。父はすでに喉頭癌を患い、手術で声帯も取り、最期の日々を自宅で過ごしていた。ある日、授業中に教師から「すぐに家に帰りなさい」と言われ、自宅に急いで戻ったものの、私は父の傍らでただ呆然としていたのだ。当時すでに会社員だった兄は、私に少し遅れて帰ってくると、ラジオが大きな音でかかっているのを聞きとがめた。その一言で、はっと我に返ったのを覚えている。
その父の通夜でのことだ。親類とおぼしき人が私に「あなたが春子さんのお子さんですか」と声をかけた。私の母は「正(まさ)」だ。「何かあるな」と感じた私が、父の遺品を整理していると、新聞記事が出てきた。「橋本龍伍は、朝鮮総督府の政務総監を務めた大野緑一郎の女婿」と書いてある。そこでようやくすべてが分った。

大野氏の娘の「春子」が父の最初の妻、つまり兄の実母で、私の母は後妻だったのだ。数日後、風呂に入っている母に、戸の外から「大野さんとウチの関係は分っているから」と告げると、母は「やがてお前にもちゃんと話さないとね、と龍太郎と話していたのよ」と言った。私に16年間何の疑念も抱かせず、兄と、血のつながっていない母・正は、そこまでの信頼関係を築いていたのかと驚き、感心した。
県知事時代、西武ライオンズが高知でキャンプをしていたので、当時のオーナー、堤義明氏と食事をする機会があった。「橋本さんも、兄弟でおふくろが違うから、いじめられたり色々大変だったろう」と言われ、否定もしづらく、言葉を濁すばかりだった。
「俺の落し物を拾ってくれ」
兄は「大ちゃん、大ちゃん」と私を呼び、いざとなると助けてくれた……そんな思い出が多々あるが、そのひとつは私の就職の時だろう。
私がNHKの就職試験を受けようとした1971年は、まさにNHK放送が完全カラー化された年だ。私は赤緑色覚異常で、赤と緑が判断しにくい。そのため大学からの推薦はもらえず、試験を受けることすらできない。兄に「試験はどうだ?」と聞かれ、「受けられないんだ」と話すと、頼みもしないのに、いつの間にか(郵政族の実力者だった)橋本登美三郎氏に話をしてくれていた。結果、試験だけは受けられることになったのだ。ずるといわれればずるには違いないが、事実である。
妻との結婚でも、兄には助けられた。福岡支局で知り合い、やがて同棲するようになった相手には、亡くなった前夫との間に二人の息子がいた。「彼女と結婚したいんだ」と兄に言うと、「一度俺が会おう」と転勤先の大阪までやってきた。心斎橋の「はり重」というすき焼き屋で紹介をした。後日兄は「あの女性が悪いというわけではないが、再婚で連れ子が二人となるとおふくろが悲しむだろう。別れられるんなら、別れたらどうだ」と言う。即座に「そんなつもりはない。一緒になる」とはっきり言うと、「よし。でもおふくろはすぐには納得しないだろう。俺がきちんと話をするから待ってろ」と言ってくれた。ほどなくして母は、福岡に住む彼女と子供たちに会いに行ってくれたのだった。
兄が亡くなってちょうど3年になる。武道館での葬儀の際、じっと兄の写真を見ていると、「俺の落し物を拾ってくれ」と言われたような気がした。その声に背中を押され、62歳での国政出馬を決めた。私の人生の転換点にはいつも兄の後押しがあった。
◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った 『昭和100年の100人 リーダー篇』 に掲載されています。
(橋本 大二郎/ノンフィクション出版)