お酒の席での口約束は「なかったこと」にするのが大人のマナーだけれど

2025年5月9日(金)14時0分 大手小町(読売新聞)

誕生日を迎えてまたひとつ年をとった。この1年の目標は?と食事の席で聞かれ、すこし考える。手にしていたビールのグラスをテーブルに置いたところで、あ、これかもしれない、と真っ先に思い当たったことがある。

写真はイメージです

すこし前に初めて入った居酒屋で、カウンターに座っていた常連客たちと旅行の話になったのだった。

そのなかのひとり、40代くらいの男性(Aさんとする)が旅慣れている人のようで、最近は福岡に行ってきたけどこれがおいしかった、フィレンツェで見たこの美術はすばらしかった……といった土産話を楽しそうにしてくれるものだから、ほかの客はそれに(うなず)きながらいいなあ、行きたいなあなどと相槌(あいづち)を打っていた。カウンターには、店の元バイトだという若い女性(Bさんとする)もいた。

そこで、Aさんの話に耳を傾けていたお店の女将(おかみ)さんが、「私ね、いま台湾に行ってみたいのよ」と不意に言い出した。

台湾ね、すごくいいですよ。何度か行ったことあるからいいお店紹介しますよ、とAさんが言うと、女将さんはうれしそうに「あら、じゃあAくんに案内してもらってみんなで行こうか」とつぶやく。めっちゃいいですね、とAさんが調子よく答えると、「てかマジで行きません?」とBさんが全員の顔を(のぞ)き込みながら言った。え、みんなが本気なら僕プラン組みますけど……とAさんが言い、Bさんと女将さんが「行こ行こ!」と声を合わせる。私も場の空気に飲まれ、「行きたい!」と思わず声をあげていた。

言うまでもないのだが、全員酔っていた。Aさんに勧められて女将さんも日本酒をしこたま飲んでいたし、もちろん客である私たちも同じだった。次に会うときは台湾だね!と私たちは肩を(たた)き合いながらLINEを交換し、「レッツゴー台湾旅行」という名前のグループをつくってメッセージを送り合いながら帰った。

その翌朝、大量のLINEの通知音で目を覚まし、スマホをひらくと、「レッツゴー台湾旅行」のグループ内でなぜかAさんが女将さんに怒られていた。メッセージを遡ると、Aさんが早朝から計画的に台湾旅行のホテル探しをしてくれているのに対し、女将さんが「Bちゃんや私はともかく、シホさんとは昨日が初対面だったのよ。そのメンバーで旅行って、冷静に考えてちょっと軽はずみだと思わない?」とたしなめている。

うわ、Aさんごめん、と咄嗟(とっさ)に思った。女将さんの指摘は常識的なようにも聞こえるけれど、昨晩はたしかに全員で台湾に行こうとめちゃくちゃに盛り上がったはずだったし、そもそも「台湾に行ってみたいのよ」の元凶は女将さんじゃないか。「すみません、軽はずみでしたね」と素直に謝るAさんのメッセージに目をやりながら、いや、軽はずみだったのはどちらかといえばAさん以外の3人では……と反省することしかできなかった。その後、Aさんには個人LINEで謝ったものの、結局その居酒屋にはそれ以来足を運べていない。

お酒の入った場でひとしきり盛り上がったものの実現しなかった話、というのはどこにでもあるのだろう。この「台湾行きましょう」事件に限らず、私にもいくつか覚えがある。

最近だと、近所のバーで知り合った女性と音楽の話で意気投合し、「実はX JAPANが一番好きで、コピーバンドをやってみたかったんです」と打ち明けられた日のことも忘れられない。私はX JAPANのことはほとんど知らないくせにその女性の熱量に心を打たれてしまい、コピーバンドのメンバーにバイオリンとしてうっかり加入しかけたのだった。翌朝、酔いが覚め慌ててLINEを確認したものの、特にその女性からバンド活動についての連絡がくることはなかった。

そのときは、まあお酒の場での軽口だもんな、とホッとしつつ、ホッとしている自分に嫌悪感を覚えもした。一度した約束をさらりと受け流し、まるで最初からなかったことのようにするのが“良識ある大人の態度”かと言われると、それはそれで違うような気がしたからだ。

お酒の場での約束と聞いて思い出すのが、すこし前に人から聞いた話だ。その人はこのごろ、ふた回り以上年上の友人たちと週末に集まって、お茶をしながら編み物をしているのだという。素敵だなと思いつつ、どこでそんな友人と知り合ったのかと尋ねると、「よく行く居酒屋さんで会った人たちと話が盛り上がったんです」という。つまり、その人たちは「このメンツで週末に集まって編み物でもしたいねえ」という飲み屋での与太話を、しらふのときにきちんと実現させたということだ。すごい、偉大すぎる、と感動してしまった。

酔いに身を任せて無責任なことを語り合うのも、もちろんお酒の場のひとつの醍醐(だいご)味だとは思う。けれどたとえアルコールが入っていようと、自分がしたいと言ったことや行きたいと言った場所のことくらいはきちんと覚えていたいし、望む人がいればすぐにそれを実現させるフットワークの軽さや心意気は持っていたい(そのためには無茶な約束をしないのもほんとうに大事なのだけれど)。

……というわけで、この1年の目標は「お酒の場での約束を守る」にしようと決めたのだった。その結果、急にビジュアル系バンドに加入したり編み物の会に参加したりするようなことがあれば、またここで報告したいと思っている。(エッセイスト 生湯葉シホ)

大手小町(読売新聞)

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