長州藩に次ぐ攘夷実行は鳥取藩だった!?彼らの攘夷がもたらした「無二念打払令」と、幕府に与えた影響

2024年8月7日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


鳥取藩による攘夷実行の実相

 朝廷による無二念打払令が出される直前に、長州藩に次ぐ攘夷が鳥取藩によって実行されていた。しかし、この事実はあまり知られていないのではなかろうか。12代藩主池田慶徳は、水戸藩の徳川斉昭の5男であり、尊王攘夷にまい進し、朝廷からの信任も特に篤かった。

 文久3年(1863)2月28日、慶徳は摂海守備総督の勅命を賜り、摂海(大坂湾)警衛にあたっていた。このあたりは、慶徳が斉昭の実子であることも影響したであろう。ちなみに慶徳は、幕府を終始擁護したものの、こと対外問題に関しては、あくまでも破約攘夷にこだわり続けたのだ。

 6月14日、鳥取藩は天保山沖に来航したイギリス船に対し、実弾5発を発砲し、攘夷を実行した。この事件は、イギリス船が石炭を要求したことに端を発しており、警衛にあたっていた鳥取藩士が拒絶したところ、イギリス船は測量をしながら戻った。襲来とは言えないものの、攘夷実行の沙汰があるため、鳥取藩は発砲に及んだわけだ。

 しかし、結果として着弾はしておらず、イギリス船はそのまま紀州加太浦の方向に逃げ去った。その報告は、間髪入れずに大坂留守居役より京都藩邸にもたらされた。それに対して、藩邸からは対応が生ぬるいとして、攘夷実行を督促するために用人を下坂させた。鳥取藩にとって、攘夷実行は絶対的な藩の方針であったのだ。まさに、藩主慶徳の破約攘夷の方向性が徹底されていた証左であろう。


攘夷実行後の鳥取藩の対応

 文久3年6月14日、鳥取藩の大坂留守居役は、大坂城代大河内信古にも攘夷実行の報告を行った。しかし、大河内からは意に反して、乱暴な振る舞いは控えるようにとの達しがあった。それに対し鳥取藩は、攘夷実行は朝廷からの命令であり、大河内の命令を受ければ違勅になるとして、その達しを受け取らなかった。そして、17日に朝廷はじめ諸方にそのやり取りを報告し、今後も外国船を見かけた場合は打ち払うことを明言したのだ。

 翌18日、鳥取藩は武家伝奏(武臣から朝廷への奏請を取り次いだり、勅命を武臣に伝達したりする役職)の野宮定功から、攘夷褒賞の勅命を賜った。あわせて、後述する無二念打払令の通達もなされ、翌19日に鳥取藩の方から大坂城代に対し、その旨が伝えられた。鳥取藩にとって、このように攘夷実行の褒賞を授かったことは、非常な名誉なことであった。

 一方で、この攘夷実行に関与した鳥取藩士は処分されることになった。『鳥取藩御留守日記』によると、7月8日以降、藩政府は警衛御手当詰藩士10数名に対し「恐入差控」(謹慎処分)を、大坂番頭荒尾隼太および番士当番沢双吉には、「打払方及猶予候段、不束之至ニ付隠居」(打ち払いを猶予したことは、不束の至りであったため隠居)を命じた。

 その罪状は、砲撃が手ぬるかったことに対するものであったが、それにしても、厳しい処分と言わざるを得ない。鳥取藩にとって、攘夷はまさに苛烈なまでの藩是であったことは間違いないのだ。


鳥取藩の攘夷実行がもたらした無二念打払令

 この事件によって、外様大名でありながら将軍家から松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられた藩においても、国是(攘夷)に対する実直なまでの認識と、過激行為も辞さない対応が見て取れる。一方で、藩主自らが幕府に弁明する事態も伴った。幕府も、襲来打払令を無視されたことは座視できなかったのだ。

 ところで、攘夷実行の期限の文久3年5月10日を迎えた段階で、実際の外国船への砲撃を実行したのは、長州藩と鳥取藩のわずか2藩にとどまっていた。すでに欧米列強の実力を十分に認識していた諸藩は、たとえ勅命といえども、そう簡単に攘夷などできるものではなかった。

 しかし、目下の鳥取藩の攘夷実行を正当化し、長州藩が孤立して、他藩の攘夷実行が一向に進まない事態を打開するため、即時攘夷派の旗手である議奏三条実美らは朝議を動かした。そして、武家伝奏野宮定功は6月18日に無二念打払令を公布した。いままでの長州藩を応援すべしというレベルから、一気に攘夷を強要するに等しい、無二念打払令にまで至ったのだ。

 これを受け、大坂城代は6月22日になって、6月14日に発した、みだりに外国船を砲撃することを禁じた達しを取り消した。さらに、この無二念打払令は長州藩周辺諸藩に対しても、少なからず影響を与えた。同日に広島藩が、25日には津和野藩が、越えて7月28日には久留米藩も、それぞれ下関で外国船砲撃がある場合は、援兵を差しだすことを約束したのだ。

 政令二途の下、早速、勅命(天皇の命令)と台命(将軍の命令)いずれに従っても、朝廷と幕府との板挟みとなる西国諸藩の厳しい情勢がうかがえる。このような状況下で、九州諸藩を中心とした西国諸藩が、中央政局において政令一途による公武合体を企図していくのは、至極当然の流れであると言えよう。


政令二途がもたらした混乱

 ところで、幕府の対応であるが、文久3年6月20日に老中(井上正直・水野忠精・松平信義)は連署して、大坂城代に対して書簡を発した。これによると、横浜鎖港談判中につき、その交渉がまとまる前に、みだりに発砲して戦端を開いてしまうと、現在の防衛力では国辱を引き起こすことになると、とても外国には敵わないと現状を冷静に分析する。

 そして、横浜鎖港まではいままで通り平穏に扱い、もっとも、外国艦隊が襲来の場合は打ち払うべきであるが、はたして本当に襲来か否かはよくよく考え、いよいよ襲来にまちがいない場合は、打ち払うことも構わない。しかし、襲来でないうちに乱暴な所業がないように、摂海防衛の諸藩に対して、洩らさず沙汰することを命じたのだ。老中の困惑した狼狽ぶりが、目に浮かぶようだ。

 まことにまわりくどい言い回しであるが、老中書簡の要点は従来の台命を再確認したもので、砲撃の禁止である。これを受けて、大坂城代は26日、摂海防禦の13藩にその台命を布告した。幕閣である大坂城代ですら、政令二途による混乱から、攘夷実行に関する布告を二転三転させており、容易ならざる雰囲気がうかがえよう。

 この2つの布告は、簡単に見過ごすことができないものである。国是実行をめぐって、朝廷の「無二念打払令」(躊躇なく攘夷を実行)と、幕府の横浜鎖港談判を名目とした「襲来打払令」(襲来以外は攘夷を猶予)との対立した命令が下されたことになる。ここに至って、勅命と台命は完全に齟齬し、誰の目にも政令二途を強く印象づけることになったのだ。

 そのため、福岡藩は老中水野忠精に対して、また、徳島・島原・尼崎・岡・土佐藩等の西国諸藩は幕府(大坂城代)または朝廷(武家伝奏)に対して、政令二途による不都合を訴え、今後各藩が採るべき方針を請うた。しかし、朝幕ともに、それぞれの主張を繰り返すばかりで、政令二途を解決すべくもなかった。

 これ以降、政令二途は西国諸藩の大きな政治的懸案となり、その対応に苦慮せざるをえなくなった。とりわけ、長州藩と小倉藩はそれぞれ勅命と台命を奉じて厳しく対立し、その確執が中央政局を揺さぶり、ひいては八月十八日政変を導く直接的な主因の1つとなった。西国諸藩は、攘夷実行をめぐるさまざまな問題に翻弄され、自らの手で公武合体(政令一途)への転換を模索せざるをえなかったのだ。

 次回は、攘夷実行を促すために派遣された監察使について、その目的は何であり、かつどのような影響を与えたのか、そして、攘夷実行に追い込まれた徳島藩と明石藩の動向について、詳しく見ていきたい。

筆者:町田 明広

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