旧日本軍のゼロ戦のゼロ(零)って何のこと?海軍と陸軍の事情と、皇紀が用いられるようになった理由

2024年8月15日(木)6時0分 JBpress

(歴史ライター:西股 総生)


明治・大正期には元号を年式として使用

 旧日本海軍の主力戦闘機だった「ゼロ戦」の名は、日本人ならみな知っているだろう。では、この「ゼロ」が何を意味しているのか、ご存じだろうか?

 「ゼロ戦」は正しくは「零式艦上戦闘機」で、略して「零戦」という。この「零」は、わかりやすくいえば兵器としての年式を指している。現代の自衛隊が使っている「一〇(ヒトマル)式戦車」などと、命名の原理としては同じだ。「一〇式戦車」は2010年に制式化された主力戦車なので、西暦の末尾2桁をとって「一〇式」と呼ぶわけだが、「零戦」が制式化されたのは1939年(昭和14)だ。では、この「零」は何か。

 旧日本軍の場合、明治・大正期には元号を年式として用いていた。明治38年に制式化された小銃だから「三八式歩兵銃」といった具合である。ところが昭和に入ると、元号でも西暦でもなく、皇紀(神武紀元)を用いるようになる。建国神話の上で、神武天皇が即位した(とされる)年を紀元とする数え方だ。

 皇紀を使うようになった背景には、もちろん国粋主義思想の抬頭という事情もあるが、もっと現実的な理由が大きい。そのまま元号を用いると、昭和の初めに制式化される兵器が「一式」「三式」となって、大正時代の旧式兵器と区別がつかなくなる。西暦を用いると、昭和13年は西暦1938年になるから「三八式」となってしまい、やはり不都合だ。

 このような事情から皇紀が用いられるようになって、「八九式戦車」や「九六式艦上戦闘機」やらが誕生していった。この方式で九七式・九八式・九九式と来たものの、次の栄えある皇紀2600年(昭和14/1939)をどうするか。

 面白いことに、ここで陸軍と海軍の考え方が分かれた。海軍は「末尾2桁」の原則に則って「零式」としたが、陸軍は「99の次は100である」という理屈から「百式」の呼称を採用した。要は、陸軍と海軍は仲が悪かったということだ。

 こうして、皇紀2600年に海軍が制式採用した艦上戦闘機が「零式艦上戦闘機」となった。略称は、文献を見る限り「零戦」と表記されているので、「れいせん」が基本で「ゼロせん」は俗称である。


名前を知っているのは関係者だけ

 同じ年に海軍が制式化した航空機には「零式水上偵察機」や「零式水上観測機」があるが、これらも「零式水偵」「零式水観」と略しており、「ゼロ式水偵」とは呼ばない。ちなみに、同年に陸軍が制式化した機体には、「百式司令部偵察機(百式司偵)」「百式重爆撃機(百式重爆)」などがある。

「ゼロ戦」という俗称が広まったのは戦後になってからだが、その背景として、戦時中の日本国民は「零式戦闘機(零戦)」の名前を知らなかった、という事情がある。日中戦争が激化する頃から、軍部は一般国民に兵器の名称を秘匿するようになっていたのだ。

 だから、戦時中の報道写真やフィルムに「零戦」が写っていても、キャプションやアナウンスでは「わが海鷲」とか「わが新型機」としか説明していない。「零式戦闘機(零戦)」という名前を知っているのは、軍や航空産業の関係者だけだったのだ。

 大きくて人目につきやすい海軍の艦艇でも、大正時代から国民に親しまれてきた「長門」や「陸奥」と違って、対米英開戦後に就役した「大和」や「武蔵」の名は、一般国民には知らされていなかった。

 さて、「零戦」にはいくつかのサブタイプがある。「二一型」「五二型」などで、これを「にじゅういちがた」「ごじゅうにがた」と読む人があるが間違いで、「に・いちがた」「ご・にがた」が正しい。なぜなら、2ケタ数字の最初の「二」や「五」は機体の変更を、後ろの「一」や「二」はエンジンの変更を示すからだ。

 ちなみに、靖国神社の遊就館に展示されている実機は「五二型」だ。実際に見学する機会があったら、「れいせん ご・にがた」と呼んであげよう。

筆者:西股 総生

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