『光る君へ』藤原頼通の生涯、父・道長とともに藤原氏全盛期を築く、同母弟・教通との確執、正妻・隆姫に涙した理由

2024年9月16日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、藤原道長の嫡男・渡邊圭祐が演じる藤原頼通を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 

道長の愛子

 藤原道長の嫡男・藤原頼通は、正暦3年(992)に生まれた。父・道長が数えで27歳、黒木華が演じる母・源倫子が29歳の時の子である。

 一条天皇の中宮となった見上愛が演じる彰子は、四歳年上の同母姉だ。

 他にも、木村達成が演じる三条天皇の中宮となった姸子、関白となる教通、後一条天皇の中宮となった威子、敦良親王(のちの後朱雀天皇)の妃となった嬉子という、同母の妹弟がいる。

 頼通は『紫式部日記』に、「殿の三位の君」として登場する。

 紫式部は寛弘5年(1008)の17歳の頼通を、「こちらが恥ずかしくなるほどご立派」、「物語のなかで、ほめそやしている男君のよう」と称している(宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』)。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長保3年(1001)10月9日条では、頼通を道長の「愛子」としており、頼通は道長の最愛の息子だったといわれる(繁田信一『孫の孫が語る藤原道長 百年後から見た王朝時代』)。


「男は妻がらなり」

 道長の後継者である頼通は、破格の昇進を遂げていく。

 一条天皇の治世下の長保5年(1003)に12歳で元服すると、正五位下の位階が与えられた(通常は、一ランク下の従五位上)。

 寛弘3年(1006)、15歳の時に、従三位に叙されて公卿となり、寛弘6年(1009)18歳で権中納言になっている。

 歴史物語『栄花物語』巻第八「はつはな」によれば、頼通はこの年、隆姫女王と結婚した。

『栄花物語』は隆姫の年齢を15〜16歳としているが、平安末期の公卿・藤原宗忠の日記『中右記』寛治元年(1087)11月22日条に記載の没年齢から逆算して、15歳だったと思われる。

 隆姫の父は具平親王(村上天皇の第七皇子)、母は為平親王(村上天皇の第四皇子)の娘と申し分のない家柄であり、道長はこの縁談を、「男は妻がらなり。いとやむごとなきあたりに参りぬべきなめり」(男子の価値は妻で定まる。高貴な家に婿取られていくべき)と大変に喜んだ。

 なお、この言葉は道長の結婚観をよく伝えているといわれている。

 頼通と隆姫は大変に仲睦まじかったが、実子には恵まれなかった。


降嫁は破談に

 寛弘8年(1011)6月、一条天皇の譲位を受け、皇太子の居貞親王(父は冷泉上皇、母は段田安則が演じた藤原兼家の娘・藤原超子)が践祚し、三条天皇となった。

 皇太子には、一条天皇と中宮彰子の皇子・敦成親王(道長の外孫)が立った。

 三条天皇の中宮は、頼通の同母妹・藤原姸子である。

 やがて、三条天皇と道長の間に確執が生まれ、道長は重い眼病を患った三条天皇に退位を迫るも、三条天皇は抵抗した。

 そんな状況のなか、長和4年(1015)10月、三条天皇は三条の皇女である13歳の禔子内親王(母は三条天皇の皇后・藤原娍子)を、頼通に降嫁させることを提案した。

『栄花物語』巻第十二「たまのむらぎく」によれば、道長は降嫁を受諾したが、正妻の隆姫女王を愛する頼通は、涙を浮かべた。

 それを見た道長は、「男子は妻一人だけを守らねばならぬわけではあるまい。子にも恵まれていないのだから、子を作ることを第一に考えよ」と叱咤したという。

 だが、降嫁は、頼通が同年12月8日から頭痛や発熱に苦しみ、12日には「万死一生」の状態に陥った(『小右記』長和4年12月12日条)ため、破談になった。

 降嫁に乗り気でなかった道長が、頼通の病気を理由に破談に持ち込んだという可能性も指摘されている(山中裕『藤原道長』)。


26歳で摂政に

 長和5年(1016)正月、三条天皇が譲位し、敦成親王が9歳で皇位に即き、後一条天皇となった。

 天皇の外祖父となった道長は、摂政に拝された。これは、道長の最初にして最後の摂関の就任となる。

 だが、道長は摂政を一年で辞め、寛仁元年(1017)3月16日、26歳の頼通に、その地位を譲っている。

 生前に摂政の地位を嫡男に譲るのも、26歳の摂政も例のないことだという(美川圭『日本史リブレット021 後三条天皇 中世の基礎を築いた君主』)。

 これは、道長の「今後は自分の家系が、摂関を世襲していく」という意思表明だと考えられている(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

 道長は摂政を譲った後も、没するまで実権を握り続けた。


兄弟の確執

 寛仁3年(1019)12月、頼通は摂政を辞め、関白に移った。

 父・道長の全盛時代において、頼通は人と争うことなく、摂関・関白の地位を得ることができたといわれている。

 その後も、頼通は後朱雀天皇、後冷泉天皇と三代の天皇の摂政・関白を担うことになる。

 治安元年(1021)正月には従一位に叙せられ、7月には左大臣となった。

 万寿4年(1027)12月4日、父・道長が、62歳で、この世を去った。頼通は、36歳になっていた。

 長元9年(1036)4月には後一条天皇が崩御し、後一条の同母弟・敦良親王が28歳で践祚し、後朱雀天皇となった。

 この年、頼通には、娘・寛子(のちの後冷泉天皇の皇后)が誕生しているが、すぐに後朱雀天皇に入内させられる娘はいなかった。

 そこで頼通は、敦康親王(一条天皇の第一皇子 母は高畑充希が演じた定子)の娘・嫄子女王を養女に迎え、翌長元10年(1037年)に、後朱雀天皇の中宮に立てた。

 嫄子は祐子内親王と禖子内親王を産むが、皇子が誕生することのないまま、長暦3年(1039)、24歳で亡くなってしまう。

 子どもの少ない頼通にとって、これは痛手であった。

 そんななか、頼通の四歳年下の同母弟・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇に入内させた。

 生子が皇子を授かることはなかったが、頼通と教通の兄弟は、天皇の外戚の地位を巡り、確執を深めていく。


摂関政治の黄昏

 寛徳2年(1045)正月、後朱雀天皇は第一皇子の親仁親王(母は、頼通の同母妹・藤原嬉子/嬉子は万寿2年(1025)に親仁を出産して数日後に死去)が21歳で践祚し、後冷泉天皇となった。

 後冷泉天皇の弟・尊仁親王(のちの後三条天皇)が、皇太弟に立てられた。

 尊仁親王の父は後朱雀天皇、母は三条天皇の皇女・禎子内親王だ。禎子内親王の母は、頼通の同母妹の姸子である。

 後冷泉天皇に、教通は永承2年(1047)に三女の歓子を、頼通も永承5年(1050)に15歳の長女・寛子を入内させた。

 だが、歓子も、寛子も、皇子を産むことはなかった。

『栄花物語』第三十八「松のしづえ」によれば、後冷泉天皇は万事を関白の頼通に任せきりであったという。

 治暦3年(1067)、体調不良で宇治に滞在することも多くなった頼通は、同年11月の2回の上表の後に、12月に関白を辞任した。

 それでも、後冷泉天皇はしばらくの間、宇治の頼通を頼っていたようである。

 だが、後冷泉天皇自身も病に冒され、頼通の病も悪化したため、翌治暦4年(1067)4月17日、教通が関白に任じられた(以上、編者 樋口健太郎・栗山圭子『平安時代 天皇列伝』 所収 海上貴彦「後冷泉天皇——次代の先駆けとなった〝中世開幕前夜〟」)。

 二日後の4月19日、後冷泉天皇は44歳で崩御。母親が皇女で、頼通・教通兄弟を外戚としない尊仁親王が即位し、後三条天皇となった。

 頼通が51歳の時に生まれた師実は、後三条天皇の信任厚く、師実の養子の賢子が後三条の皇子・貞仁親王(のちの白河天皇)の皇太子妃となり、外戚としての地位を得た。

 賢子が産んだ善仁親王は、のちに堀河天皇として即位することになる。

 しかし、頼通は師実の関白就任を見ることのないまま、延久4年(1072)に出家、延久6年(1074)に、83歳で没した。

 後一条・後朱雀・後冷泉の三朝にわたり摂政・関白となり、父道長とともに藤原氏全盛時代を築いた頼通。

 官人として順風満帆なようで、外孫皇子も誕生せず、権力抗争に翻弄された人生だったのかもしれない。


【藤原頼通ゆかりの地】

●平等院

 平等院は、時の関白であった藤原頼通が、父・藤原道長の別荘を、永承7年(1052)に、仏寺に改めたもの。

 京都市宇治にあり、世界遺産(文化遺産)に登録されている。

筆者:鷹橋 忍

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