『光る君へ』三条天皇の第一皇子・敦明親王の生涯、出家騒動の謎、道長の三女・寛子と結婚、暴力沙汰が絶えない?
2024年10月21日(月)8時0分 JBpress
今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、阿佐辰美が演じる敦明親王を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
父・三条天皇の中宮と同じ年
敦明(小一条院)は、正暦5年(994)5月9日に生まれた。
父は、木村達成が演じる東宮(皇太子)の居貞親王(後の三条天皇)、母は朝倉あきが演じる藤原娍子だ。
後に父の中宮となる、倉沢杏菜が演じる藤原姸子(道長と黒木華が演じる源倫子の娘)も、敦明と同年の3月に生まれている。
敦明は第一皇子で、同母の弟と妹に、敦儀、敦平、師明(性信入道親王)、当子、禔子がいる。
母・娍子は、大納言藤原済時の娘である。
済時は、藤原師尹(段田安則が演じた藤原兼家の叔父)の子だ。公卿ではあるが、傍流といっていい存在で、大臣にのぼることのないまま、敦明生まれた翌年となる長徳元年(995)に、数えで55歳の時に亡くなっている。
済時の死により、娍子の政治的な後見はほぼなくなったが、居貞親王(三条)は娍子を寵愛し続けた。
だが、後見の弱い娍子や敦明の立場は、極めて不安定であった。
藤原顕光の娘・藤原延子との結婚
ドラマでも描かれたように、寛弘7年(1010)2月、道長の二女である藤原姸子が、35歳の居貞親王(三条)に入侍した。この時、姸子は敦明と同じく17歳だった。
もし、姸子が皇子を産めば、有力な皇位継承候補者となるに違いなかった。
また、歴史物語『栄花物語』巻八「はつはな」によれば、この年、敦明は宮川一朗太が演じる藤原顕光の娘・藤原延子と結婚している。
結婚後は、延子の父・顕光が所有する「堀河院」と呼ばれる邸宅で暮らしたという(三博士還暦記念会編『律令国家と貴族社会』山中裕「小一条院(敦明親王)考」)。
翌寛弘8年(1011)6月13日、塩野瑛久が演じる一条天皇の譲位により、居貞親王が践祚し、三条天皇(以後、三条天皇と表記)となった。
皇太子には、見上愛が演じる中宮彰子(道長の長女)所生の敦成親王(一条天皇の第二皇子/のちの後一条天皇)が、僅か4歳で立った。
敦明の出家騒動
同年(寛弘8年)10月5日、娍子所生の4人の皇子(敦明、敦儀、敦平、師明)を親王、当子、禔子の2人の皇女を内親王とすることが決まった(『権記』寛弘8年10月5日条)。
これにより、敦明親王をはじめとする娍子所生の4人の皇子は、法制上、次期皇太子となる資格を得た(倉本一宏『三条天皇——心にもあらでう世に長らへば——』)。
だが、敦明親王を皇太子にしたくない勢力があるのか、彼は謀計に巻き込まれたようである。
渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』寛弘8年11月24日条によれば、娍子が三条天皇に、「敦明が出家しようとしている」と奏上した。
これは、道命と源心という僧による謀計だったという。
この出家騒動の真相は明らかではないが、道長や道長に近い者の中には、敦明親王を出家に追い込もうとする策謀があったと推定されている(編者 樋口健太郎・栗山圭子『平安時代 天皇列伝』 樋口健太郎「敦明親王」)。
皇太子になりたくなかった?
翌寛弘9年(1012)2月、道長は娘・姸子を三条天皇の中宮に立后させた。
三条天皇は姸子を中宮としたものの、寵愛する娍子も皇后として立后させている。
亡父が大納言にすぎず、後見も参議に上ったばかりの弟・藤原通任のみの娍子が立后するなど、宮廷社会の常識では考えられないことであった。
この一帝二后により、三条天皇と道長の間には深刻な亀裂が入り、関係は悪化しという(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望 紫式部の時代』)。
やがて姸子は懐妊し、長和2年(1013)7月6日、禎子内親王を産んだ。
だが、道長は姸子が皇子を産まなかったことに落胆した。
三条天皇が重い眼病を患ったこともあり、道長は三条天皇に見切りを付けた。道長は皇太子の敦成親王(道長の孫)に譲位するよう、三条天皇に強く迫っていく。
三条天皇は激しい抵抗の末に、敦明親王の立太子を条件に、敦成親王への譲位を受け入れた。
こうして、長和5年(1016)正月29日、三条天皇は皇位を退き、敦成親王が9歳で践祚し後一条天皇となった。
同日、敦明親王も立太子した。敦明は23歳になっていた。
だが、本人は皇太子になりたくなかったのかもしれない。
『小右記』長和5年正月24日条には、敦明が、「皇太子に立つのを避けて、堀河院に移りたい」などと言い、母・娍子を深く嘆かせたことが記されている。
皇太子を辞退し、小一条院に
天皇の座を退いた三条は、翌寛仁元年(1017)5月9日、42歳で崩御した。
父・三条という後ろ盾を失った敦明親王は、自ら皇太子の座を下りている。皇太子を自ら辞したのは、敦明がはじめてであった。
代わって、後一条天皇の同母弟で、道長の孫である敦良親王(のちの後朱雀天皇)が、同年8月9日に立太子した。
これにより、道長は天皇と皇太子の外戚の地位を手に入れた。
皇太子辞退の返礼として(山本淳子『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか——』)、同年8月25日、敦明は太上天皇(上皇)に准じた院号が下され、「小一条院」と号することとなった(ただし、樋口健太郎「敦明親王」によれば、太上天皇の尊号は奉られていない)。
さらに、同年11月22日には、道長の三女・藤原寛子(母は、瀧内公美が演じる源明子)と結婚し、道長家の婿となっている。
敦明は道長家の婿として、それまでの妃であった延子、および、延子との間に生まれた子どもたち、そして、岳父(妻の父)である藤原顕光のもとを離れ、寛子の近衛御門(高松殿)に入った。
延子の悲しみは深く、『小右記』寛仁3年(1019)4月11日条に、「心労云々」により、息を引き取ったことが記されている。
延子の父・顕光も、治安元年(1021)5月に78歳で亡くなった。
『栄花物語』巻第二十四「わかばえ」、巻第二十五「みねの月」によれば、顕光と延子の怨霊は、寛子に取り憑き、寛子を苦しめた。寛子は万寿2年(1025)7月8日、27歳で、この世を去っている。
敦明は寛子の没後も生き続け、永承6年(1051)正月8日、58歳で死去した。
暴力沙汰が絶えなかった?
最後に、敦明にまつわる暴行の数々を取り上げたい。
秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和3年(1014)6月16日によれば、父・三条天皇の在位中、当時21歳の敦明親王が、雑人に命じて、裕福な受領として知られる加賀守源政職を拘置し、ある舎屋に監禁して打擲したという。
同年の12月には敦明親王の雑人と藤原定頼(町田啓太が演じる藤原公任の嫡男)の従者が闘乱し(『小右記』長和3年12月1日条)、敦明親王の雑人が死去してしまった(『小右記』長和3年12月5日条)。
非は定頼にあったようだが、同年12月8日、敦明親王は定頼を打擲しようとしたという(『小右記』同日条)。
また、治安3年(1023)4月17日には、敦明親王が率いる従者たちが、賀茂祭使の行列を見物する人々を相手に暴力を振るいまくり(繁田信一『殴り合う貴族たち』)、前長門守の高階業敏に暴行を加えたうえ、烏帽子を奪い、髷をかき乱している(『小右記』治安3年4月18日条)。
だが、家族思いであり、長和4年(1015)11月に起きた内裏の火災の際には、母・娍子を抱きかかえて走ったという(『小右記』長和4年11月18日条)。
今後、どんな姿を見せてくれるのか、楽しみである。
【敦明親王ゆかりの地】
●入逢山 西方寺
京都市右京区にある、浄土宗西山派粟生光明寺に属する寺。
西方寺のホームページによれば、皇太子を辞した敦明親王は、この地に隠棲した後に出家したという。
筆者:鷹橋 忍