『どうする家康』淀殿(茶々)、親の仇・秀吉の側室となった生涯と秀頼との絆

2023年12月13日(水)12時0分 JBpress

文=鷹橋 忍 

 今回は、大河ドラマ『どうする家康』において、豊臣氏(羽柴家)に君臨し、いわば、「ラスボス」といった存在感を見せつけている、北川景子が演じる茶々(淀殿)を取り上げたい。


淀殿? それとも、茶々?

 茶々は、「淀殿」の名でも知られる。

 しかし、彼女の生存中の史料では、「淀之上様」「よとの物」などと称されることはあっても、淀殿と呼ばれたことは確認できない。淀殿の呼称が定着したのは、江戸時代になってからだという(福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』)。

 福田千鶴氏によれば、彼女の本名は「浅井茶々」であり、彼女も生涯、茶々と称したというので、ここでも茶々と表記したい。


5歳で父と実家を失う

 茶々が生まれたのは、永禄12年(1569)とされる(永禄10年説もあり)。

 天文11年(1542)生まれの家康より、27歳年下である。

 父は、大貫勇輔が演じた、近江国小谷城(滋賀県長浜市)の城主・浅井長政。

 母は、北川景子が二役で演じた織田市である。

 市は信長の妹とされ(信長のいとこなど、諸説あり)、茶々は信長の姪にあたる。

 茶々は有名な「浅井三姉妹」の長女で、元亀元年(1571)には鈴木杏演じる次女の初が、天正元年(1573)にはマイコ演じる三女の江が、誕生したとされる。

 茶々らは小谷城で育ったが、父・長政と伯父・信長が敵対関係となり、天正元年(1573)、小谷城は信長の総攻撃を受けて落城。

 長政は自害し、浅井家は滅亡した。茶々が、数えで5歳のときのことである。


柴田勝家の越前国北庄城へ

 お市と茶々ら三人の娘たちは、小谷城落城に際して城を退去した。

 遠山信春『織田軍記』巻第十三(『通俗日本全史』第7巻所収)には、お市と娘たちは、信長の異母弟とされる織田信包に預け置かれ、清須の城で暮らしたと記されている。

 信長の叔父・織田信次に預けられたとする説もあるが、信憑性の高い史料からは確認できないという。暮らした場所は、清須城とも岐阜城ともいわれるが、いずれにせよ、織田家の庇護を受けたと思われる(和田裕弘『柴田勝家』)。

 天正10年(1582)6月2日、「本能寺の変」が勃発し、信長と彼の嫡子・織田信忠が共に討たれると、いわゆる「清須会議」によって、お市は吉原光夫が演じた柴田勝家に再嫁することとなった。

 岐阜城で婚儀を行なうと、お市は茶々ら三人の娘を伴って、勝家の本拠である越前国北庄城(福井市)に移ったという。

 ところが、翌天正11年(1583)4月、勝家は対立する羽柴秀吉との戦いに敗れ、北庄城は落城。

 お市と勝家は自害した。

 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』によれば、秀吉の猛攻の前に死を覚悟した勝家は、茶々ら三姉妹に富永新六郎という侍を付けて、秀吉の陣所に送ったという。

 経緯には諸説あるものの、茶々ら三姉妹は秀吉に引き渡され、秀吉の庇護を受けることとなった。

 茶々、15歳のときのことである。


秀吉のもとへ

 秀吉に引き取られた茶々ら三姉妹は、一説に茶人として知られる叔父の織田有楽(信長の弟)に、預けられたという。また、秀吉の別妻の一人で、茶々のいとこにあたる京極龍子(松の丸殿とも 龍子の母は、茶々の叔母)に預けられたという説もある(小和田哲男『戦国三姉妹物語』)。

 だが、当時の史料には、北庄城を後にした茶々ら三姉妹が、どこに居住し、どう過ごしたのかは記されていないので、確かなことはわからない。

 いずれにせよ、茶々は秀吉の別妻の一人となり、初も江も、秀吉の命により嫁いでいくことになる。


秀頼の母に

 茶々と秀吉の婚姻は、かつては天正16年(1588)ごろとみられていたが、天正12年(1584)という説もあり、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』によれば、正確な時期は定かでないが、遅くても天正14年(1586)10月1日までには婚姻したという。

 秀吉の妻となった茶々は、天正17年(1589)5月に、第一子となる鶴丸(幼名 捨)を出産する。茶々は21歳、秀吉は53歳のときのことである。

 秀吉の嫡男の生母となった茶々は、「御袋様」の尊称と、和久井映見演じる秀吉の正妻・寧々に次ぐ地位を得た(黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』)。

 しかし、病弱だった鶴丸は、天正19年(1591)8月に、僅か3歳で夭逝してしまう。秀吉は愛児の死を、大変に嘆き悲しんだという。

 だが、茶々は鶴丸の死から二年後の文禄2年(1593)8月3日、大坂城の二の丸で、再び男児を産んだ。それが、豊臣秀頼である。

 秀頼は、拾った子は無事に育つという俗信を受け、幼名を拾(ひろい)と名付けられた(ここでは秀頼で統一)。

 茶々は25歳、秀吉は57歳になっていた。


秀頼との深い絆

 武家社会において、子どもを育てるのは、生母ではなく、乳母が一般的だった。

 その理由は、母親が自ら養育すると母子の情が生まれ、母は子を戦場に送り出すことを、子は母を思って戦死することを、躊躇うようになるからだという。

 だが、長男の鶴松が乳母に任せて夭逝した反省を踏まえ、秀吉は慣例に背き、生母である茶々に、自ら秀頼の養育にあたることを認めた。

 茶々は自ら秀頼を育て、二人は母子の深い情愛で結ばれたという(以上、福島千鶴『豊臣秀頼』)。

 茶々は秀吉亡き後も、元和元年(1615)5月8日、「大坂夏の陣」によってともに滅びるまで、秀頼とともに過ごすのであった。


【淀殿ゆかりの地】

●太融寺

 大阪市北区にある真言宗高野派の寺院。

 弘仁12年(821)、弘法大師が、この地に草庵を結んだのがはじまりだと伝えられる。

 大坂夏の陣で兵火に見舞われ、全焼するも復興した。大坂の陣に際して、豊臣方にくみしたため、寺域を減らされたという。

 境内に、茶々の墓と伝わる墓がある。

●三寳寺(さんぼうじ)

 京都市右京区にある、日蓮宗の寺院。寛永5年(1628年)に創建。

 境内には、茶々、豊臣秀頼、秀頼の息子・国松の供養塔がある。

 供養塔を建てたのは、茶々の妹・初(常高院)の養女である古那姫とされる。

 古那姫は公家の今出川宣季に嫁いでおり、三寳寺は創建以来、今出川家の菩提寺であったという(福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』)。

 この供養塔は、撫でさすると良縁が得られると伝わる「縁結びの塔」でもある。

筆者:鷹橋 忍

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