3歳の娘の首を締め「半殺しにした」日常的に殴る蹴るの暴力も…加害者の母親が告白する、虐待行為をしながら“考えていたこと”
2025年4月26日(土)12時0分 文春オンライン
〈 「天井だけ、見てたんです」兄と継母が出ていき、家には実父と2人きり…高校生だった女性の心を殺した“おぞましい性暴力”の一部始終 〉から続く
継母から日常的になじられ、実の父親からレイプされ、地獄のような思春期を過ごしたという滝川沙織さん(53歳・仮名)。24歳の時に知り合った男性と結婚して、女の子と男の子を出産したが、二人には視覚障害があることがわかったという。
ここでは、ノンフィクション『 母と娘。それでも生きることにした 』(集英社インターナショナル)より一部を抜粋して紹介する。当時、3歳の娘に暴力を振るってしまったと告白する沙織さん。その内心では一体何が起きていたのだろうか。(全4回の3回目/ 続き を読む)

◆◆◆
怒りの衝動
生後間もない海くんと、3歳の夢ちゃんとの生活が始まりました。
夢ちゃんは3歳で幼稚園に入ったのですが、幼稚園を嫌がって、連れて行っても大泣きして、家に一緒に帰ることがほとんどでした。滝川に送りを頼んでも、夢ちゃんの大泣きにお手上げで、家に連れて帰ってくるのです。父親でありながら、何の役にも立たないので、しょうがなく私が連れて行こうとすると、夢ちゃんはもはや頑として玄関から動きません。一度決めたら、絶対に変えないという、頑固な面が夢ちゃんにはありました。
例えば、こんなことがありました。私と滝川が風邪をひいて熱があった日に、夢ちゃんは「スーパーに行きたい」と言い出しました。私たちが「具合が悪いから、今日はやめておこうね」といくら言っても、「絶対にスーパーに行く」と夢ちゃんは頑として譲りません。結局、滝川が連れていくことで落ち着きました。こういう融通の利かなさ、頑なさがあり、本当に手を焼かせる子だったのです。癇癪を起こせば、何時間でも喚き散らします。そうやって、最終的には自分の思う通りに、大人を動かしてしまうところが夢ちゃんにはありました。
夢ちゃんと比べて、海くんの場合、夜中は数回起きるだけで、とても育てやすい子でした。
私は心から、海くんを可愛いと思えました。そうであっても、海くんへの夜中の授乳で寝不足ではあるのですから、昼間は海くんと一緒に、私は寝ておきたいわけです。ところが、幼稚園に行かずに家にいる夢ちゃんが、私を寝かせてくれません。
「ねえねえ、遊ぼう」
「夢ちゃん、お願いだから、ママを寝かせて」
とにかく、私の睡眠を邪魔してくるのです。
「ねえ、夢ちゃんも一緒に寝ようよ」
何度、言っても、夢ちゃんは私を起こしにきて寝かせません。だから、殴るのです。
何、この子! あたしを苦しませるために、生まれてきたの?
一度、怒りが込み上げて手が出ると、怒りの衝動のまま、殴る蹴るが止まりません。
「通報レベルの所業」
蹴られて転がった夢ちゃんは、ぎゃーっと泣いています。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「謝らなくていい! うるさーい!」
手を出すのはまずいと思い、我慢する時もありました。そんな時は、壁を思いっきり蹴ってやります。それでも、やっぱり手が出てしまうのです。いつも、そうでした。我慢するより、思いっきり殴ってしまうのが常なのです。
でも、一旦、怒りの衝動が収まれば、罪悪感しかありません。
夢ちゃんが体操教室に行きたいというので連れて行ったことがあるのですが、全く何もしようとしないので、大勢の人がいる前で私はキレました。
夢ちゃんの頬を、平手でぱちーんと引っ叩き、怒鳴りつけました。家で、いつもやっていることです。
「鬱陶しい! もう、アンタがやりたいって言ったんでしょ! なんで、やらないのよー!」
この時の夢ちゃんは泣き叫ぶこともなく、じっと下を向いていました。
通報レベルの所業でした。
「おまえが嫌いだから、だよ!」
幼稚園に行かないので、私は夢ちゃんを公民館や児童館などに頻繁に連れて行きました。読み聞かせや遊びの時、夢ちゃんは私の膝の上から離れません。みんなが帰ってから、のそのそと膝から降りていくのです。遊びが、他の子と違うなーと感じていました。
そこで、病院の発達外来に連れて行ってみたのです。
「先生、この子、本当に発達障害ですか?」
「テストをしましたが、その要素はあります。ただ、あくまでグレーです。今のその年齢だったら、『楽しい』って、幼稚園に行っていますよね。幼稚園に行っていないし、楽しくないって言っているのでしょう?」
この言葉に、ああ、そうなのかと改めて思いました。ここで初めて、発達障害という気づきを得たわけですが、そのことが私の夢ちゃんへの怒りを鎮めることにはつながりませんでした。
怒りのスイッチが入る時
夢ちゃんを一番殴っていたのは、3歳とか4歳の頃です。
虐待している時は、私、悪魔です。頭が沸騰しているし、殺意すら湧いています。「あー、このまま殺す」って思ってしまいます。だから一度、児童相談所に電話をかけたのです。
「今、半殺しにしかけています」
その後、児相が家庭訪問に来ることはなかったのですが、電話した時の私って、うつで、身体がまいっていたので、あそこで終わっていたんだと思います。半殺しの手前というのは首を絞めた後で、夢ちゃんは床に転がっていました。
口で言ってわからないのだから、叩いてもいいだろうって思っていました。躾の一環だからって。今、思えば、私、自分の父親と同じことをしていたんです。もちろん、この時はそのことには気づいていませんでした。
一旦、暴力が始まってしまうと、止まらなくなってしまうのです。夢ちゃんが何か反抗的なことを言っただけで、ぎゃーっと狂ったようになって首を絞めるんです。
夢ちゃんはこだわりが強く、癇癪を起こすと2時間でも3時間でも、足で床をパタパタ踏み鳴らし、喚き続けることがよくありました。
怒りのスイッチが入るのは、こんな時です。
「おまえ、舐めてんのか!」
こうなったら興奮状態ですから、一切、何も考えていません。蹴っている時は、ただむかついているだけです。
「やめてー! 蹴らないでー! なんで、蹴るのよー」
夢ちゃんがこう聞いてきたら、私は当たり前に答えます。
「おまえが嫌いだから、だよ! 理由を聞くから言ってやる。おまえが嫌いなんだよー!」
冷静になって考えてみたら、夢ちゃんにとって良くないことだとわかるのですが、スイッチは確実に入ります。このままこうしていたら、いつか気が狂うのか。紙一重のところにいると思っていました。
一方で、夢ちゃんを保育園に預けて働きに行くことは到底、考えることはできませんでした。
私自身、性被害に遭っている経験から、そもそも人を信じていませんので、夢ちゃんを人に預けること自体、あり得ないことでした。住んでいるマンションの1階に託児所があったのですが、私はいつも窓からジーッとその様子を見ていました。どこに死角があるかわからない、そこで園児が危険な目に遭うかもしれない。そう思えて仕方がありませんでした。だから、自分が夢ちゃんを叩いていても、人に預けるのではなく、自分で見ている方がマシだと思っていたのです。
「このままだと、子どもを殺してしまいます」
そうやって、親子で外の世界から離れて密室状態になっていたのかもしれません。
夢ちゃんへの明らかな虐待者である一方、私は、自分が何一つ、何の取り柄も自信もない人間なのだという劣等感にも強く捉われていました。子育てに自信は持てないし、「私には何もない」という、堂々巡りの中にいたように思います。もちろん、夢ちゃんを殴る自分のことも、嫌で仕方がありませんでした。
「ああ、私には何もない。仕事どころか、社会に出る自信もないし、子育てにも自信がないし……」
そんな思いにがんじがらめにされ、必死に足掻いていた日々でした。
「このままだと、子どもを殺してしまいます」
ある時、幼稚園に来てくれたカウンセラーさんに夢ちゃんのことを相談しようと話を始めたら、2時間、話が止まりませんでした。カウンセラーさんは「お母さん、お母さん」と私を見つめ、こう言いました。
「お母さん、うつです。病院へ行った方がいいと思います」
ああ、そうかも。不思議と、自然にそう受け止めることができました。
当時は子ども2人を乗せて車を運転している時に、衝動的にどこか、目の前の湖に飛び込もうか、あの電柱に突っ込もうか、そんなことばかりを考えていました。自殺することしか、考えられなくなっていたのです。
3人で死のうと思っていました。目の見えない子をどうやって育てていったらいいのか、夢ちゃんの問題行動、登園拒否をどうしたらいいのか。どこに相談しても、「お母さんが決めればいいですよ」と言われるけど、私にはモデルがありません。育ててもらっていないので、育児のモデルがないのです。お寺の「おばあちゃん」は、お箸の持ち方すらも教えてくれませんでした。いつもお腹が空いていてどうしようもなくて、近くの店でお菓子をくすねたり、友達の家のものを持ってきたり、私はそうやって育ったのです。
車で、どこに行くあてもなく走っていて、そして精神科に着きました。そこで私は、「助けてください」と言ったのです。
「このままだと、子どもを殺してしまいます。2人を乳児院に預けたい。もう、死ぬことしか、考えられません」
夢ちゃんをどうしても殴ってしまうことを、医師に正直に話しました。
病院から児相に、通報が行ったのだと思います。児相の職員が病院にやってきて、滝川も職場から呼び出され、翌日、夫婦揃って子ども2人を児相に渡すことを約束して帰りました。
ちょうど、海くんの1歳の誕生日の日に、2人は一時保護となりました。
児相では、こう言われました。
「子どもの居場所は教えられません。連絡も一切取れませんし、面会もできません。2か月間、子どもたちには会えません」
つらい言葉でした。でも、私はその方が子どもたちにとってはいいだろうと究極の選択をしたのです。
子どもたちを預けてから、食べることも笑うことも私は忘れて、ただ椅子に座っていました。
滝川がいれば一緒にごはんは食べますが、滝川の3日間の出張の時に何も食べないでいて、そのまま倒れました。もう、終わりが来たんだと、はっきり思いました。気づいたら、携帯で滝川に連絡を取っていました。滝川に家に帰ってきてもらい、そのまま、精神科に入院しました。
子どもを預けて1か月後、本格的なうつの治療が始まりました。
究極の選択
駆け込んだ精神科で渡されたカルテの写しを、沙織さんは見せてくれた。
「長男出産後、子供の視覚障害への罪悪感、長女の夜泣きの対応、長女に問題行動があったことなどで不眠、抑うつ気分、焦燥感、希死念慮等著しくなり受診」
まさに満身創痍だった。海くんが全盲で生まれたことへの罪悪感は、うつになるまで沙織さんを追い込んでいた。そして、夢ちゃんへのたぎる怒り。
沙織さんに夢ちゃんへの暴力が止まらない時、蹴られている夢ちゃんはどんな表情をしているのか、聞いてみたことがあった。沙織さんは、たった一言。
「え? 顔なんて見たくもないから、見てないですよ」
顔も見ずに殴り、そして蹴り続けるのか。それは子どもが苦しんだり痛がったり悲しんだりしている顔を見れば、その不憫さに、瞬間、手が止まってしまうからではない。もはや、子どもはただのサンドバッグだ。沸騰し、興奮した脳の下、その沸騰が鎮まるのを待つだけ。夢ちゃんは、どんな思いで痛くてつらい時間を耐えていたのだろう。沙織さんは父親に殴られていた時、「感情を殺した」と言った。
夢ちゃんは、どうしていたんだろう。
子ども2人を児相に託したことは、「究極の選択」だったと沙織さんは繰り返す。それは「殴っていても、自分の方がマシ」だと、一つの選択肢しかなかった沙織さんが、子どもたちの立場に立って下した決断だった。なぜ、そうできたのか。沙織さんは、きっぱり言った。
「心が壊れる手前の紙一重の瞬間を、自分が味わった気がしました。だから、この子たちにとっては、私と会えない方がいいだろうと。私にとっては、究極の選択でした」
〈 「ママの中に何人かの人格がいる」本人は覚えていないが…19歳の娘が心配する、トラウマを抱えた母親(53)の“異常な行動” 〉へ続く
(黒川 祥子/Webオリジナル(外部転載))
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