1回350円で男に身体を売った…NHK大河では絶対に描けない江戸に4000人いた「最下級の性労働者」たちの悲哀

2025年2月22日(土)9時15分 プレジデント社

図版1:恋川春町二世作 ほか『忠臣再講釈 6巻』、山口屋藤兵衛、天保3[1832].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)

かつての江戸には、個人営業の街娼「夜鷹」が約4000人もいた。彼女たちはどんな理由でその仕事についていたのか。作家の永井義男さんの著書『江戸の性愛業』(作品社)より、一部を紹介する——。(第2回)

■「夜鷹」と現代の「立ちんぼ」との決定的な違い


夜鷹(よたか)は、夜道に立って男に声をかける、いわゆる街娼である。現代の「立ちんぼ」に相当するが、大きな違いもあった。


▼図版1に、夜鷹のいでたちが描かれている。画中に「辻君於利江(つじぎみおりえ)」とあるが、辻君は夜鷹の別称。要するに、「夜鷹のお利江」である。


図版1:恋川春町二世作 ほか『忠臣再講釈 6巻』、山口屋藤兵衛、天保3[1832].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)

現代の立ちんぼは、男に声をかける場所こそ街頭でも、性的サービスをするのはラブホテルなど、屋内である。


ところが、江戸の夜鷹は物陰で、地面に敷いた茣蓙(ござ)の上で性行為をした。図版1の夜鷹も、茣蓙を持っているのがわかろう。


そして、茣蓙の上の性行為を描いたのが、▼図版2である。(編集註:本記事では不掲載)


図版2で、女が男に——


「おめえ、明日の晩からはの、早く来て、髪結床(かみゆいどこ)の角に待っていねえ。そして、口明けに、はいってくんねえ。きれいなうちが、いいわな」

——と、言っている。口明けは、その日の最初のこと。


馴染みの客となると、夜鷹もそれなりに情が湧くのであろうか。男に対して、口明けにさせてやるから、髪結床の角で待て、と言っているのだ。


■蕎麦1杯と同じ値段


なお、図版2の夜鷹は健康そうで、福々しい顔をしているが、実際には年齢が高く、不健康な女が多かった。


夜鷹の揚代(あげだい)(料金)は、蕎麦1杯の値段と同じとも、24文とも言われた。


比較はむずかしいが、たとえば文化15年(文政元年、1818)の相場で、24文は現在のおよそ350円に相当するであろう。つまり、夜鷹は350円で「一発」をさせていた。


揚代の安さから、また地面に敷いた茣蓙の上で性行為をすることから、夜鷹は最下級のセックスワーカーといえよう。


『当世武野俗談』(宝暦7年)に、夜鷹について——


鮫ケ橋、本所、浅草堂前、此三ヶ所より出て色を売、此徒凡(このとおよそ)人別四千に及ぶと云(いう)。

——とあり、宝暦(1715〜64)のころ、江戸にはおよそ4000人の夜鷹がいたという。


夜がふけると、街角のあちこちに夜鷹が立っていたと言っても過言でない。


■40〜60歳の女性が多かった


江戸の夜鷹について述べるとき、必ずと言ってよいほど引用されるのが、国学者・狂歌師の石川雅望(まさもち)の著『都の手ぶり』(文化6年)である。わかりやすく現代語訳すると、次の通りである。


若い女はまれで、たいていは40から5、60歳の老婆が多い。老いを隠すため、ひたいに墨を塗って髪の抜けたのをごまかしたり、白髪に黒い油を塗ってごまかしたりしているが、それでも、ところどころ白髪が見えて、見苦しく、きたない。

原文では、「みぐるしうきたなげなり」と表現している。


人生50年と言われた時代にあって、40〜60歳の女は老婆と評されてもおかしくない。


吉原から岡場所や宿場に流れ、さらに岡場所や宿場でも通用しなくなった女が、食べていくため、やむなく路上に立つ例が多かった。


そのため、夜鷹は年齢が高く、また性病などの病気持ちが普通だった。


■どんな男が買っていたのか


▼図版3で、石川雅望の「みぐるしうきたなげなり」がわかろう。


図版3:式亭三馬作 ほか『女房気質異赤縄 5巻』、西宮新六、文化12[1815].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)

こんな夜鷹を買う男もいたわけだが、多くは武家屋敷の中間や、商家の下男などの奉公人、日雇い人足だった。


彼らとて吉原や岡場所で遊びたかったであろうが、その薄給では夜鷹がせいぜいだったし、梅毒・淋病などの性病に対する無知もあった。


当時、避妊・性病予防具のコンドームはなかったから、セックスワーカーは客の男と、いわゆる「ナマ」で性交渉をしていた。客の男から性病をうつされたセックスワーカーは、今度はうつす側になる。


夜鷹はセックスワーカーとしての年月が長いだけに、性病の罹患率は高かった。


江戸の夜鷹の総数を約4000人と述べた『当世武野俗談』から、およそ100年後の、幕末期の状況が、『わすれのこり』(安政元年)に——


今其(その)風俗極めて鄙(いや)し、浪銭六孔を以て、雲雨巫山(うんうふざん)の情けを売る、本所吉田町、また鮫が橋より出て、両国、柳原、呉服橋外、其外所々に出るうちにも、護持院が原とりわけ多し。

——とあり、夜鷹の風俗は相変わらずいやしかった。


浪銭六孔は、四文銭6枚のことなので、24文。


幕末期になっても、夜鷹の揚代は24文だった。100年たっても、値上げはなかったと言えよう。


■仕事場は草が生い茂る空地


さて、護持院原(ごじいんがはら)に、夜鷹がもっともたくさん出没したという。


かつて護持院という寺があったが、享保2年(1717)の火災で、他の場所に移転した。その後、跡地は火除地(ひよけち)として、空き地のままで残された。この空き地を、護持院原と呼んだ。現在の東京都千代田区神田錦町のあたりである。


▼図版4は、画中に「護持院原」とあり、まさに護持院原の夜鷹が描かれている。(編集註:本記事では不掲載)


客の男は、腰に刀を差しているので武家屋敷の足軽であろうか。足軽はいちおう士分だが、最下級の武士である。


護持院原は草が生い茂る空地だけに、夏墓が群れ、冬は寒風が吹き抜ける。そんな中、地面に敷いたござの上で、あわただしい情交をしたわけである。


図版4を見ると、葦簀(よしず)を巡らしている。せめてもの夜風を防ぐ工夫だろうか。また、周囲に竹で垣根を作っている。この夜鷹の、言わば縄張りなのかもしれない。


■頻発する「買い逃げ」と暴力


いっぽう、▼図版5の本文に——


お文も所々を歩き、いまは采女(うねめ)が原へ夜ごと通う身となり、

——とあり、お文という女がついに夜鷹に身を落としたことがわかる。


采女が原には馬場があったが、周囲には筵(むしろ)掛けの見世物小屋や屋台店が集まっていた。そして、夜がふけると夜鷹が出没した。現在の、東京都中央区東銀座のあたりである。


図版5で、夜鷹が男の手を取り、


「もしもし、遊びねえ」


と、引っ張っている。


現在の銀座に、かつて夜鷹がいたことになろうか。


夜鷹は屋外で商売するため、タチの悪い男が揚代を払わずに逃げたり、暴力をふるったりすることが少なくなかった。


図版5:豊里舟作 ほか『かんなんの夢枕 2巻』、[西村屋与八]、[天明3(1783)].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)

▼図版6は、客の男が金を払わずに逃げ出した光景である。(編集註:本記事では不掲載)


金を払わずに逃げる行為を「買い逃げ」と言った。男はあわてていたので、手ぬぐいを忘れていた——


女「むざと買い逃げさそうか」
男「南無三、これは高うつくわえ」

——と、夜鷹はこれ見よがしに忘れた手ぬぐいを振り、いっぽうの男は逃げながら、悔しがっている。


『世のすがた』(著者不明)に、文化(1804〜18)のころ、手ぬぐい1本の値段は68文とある。


男は24文を踏み倒したつもりが、かえって高くついたわけである。


■夫公認で働く


図版6の夜鷹は、買い逃げをした男に見事、しっぺ返しをしたが、一般に夜鷹はリスクの大きいセックスワーカーだった。


そのため、妓夫(ぎゆう)と呼ばれる男が用心棒として付き添う。妓夫は、牛、牛夫とも書いた。


夜鷹の亭主が妓夫を務めることが多かった。女房が茣蓙の上で男と性行為をしているのを、亭主は物陰からそっと見守っていたことになろう。


戯作『卯地臭意(うじしゅうい)』(天明3年)に、夜鷹と妓夫が描かれている。簡略に紹介しよう。


季節は夏。
夕闇が迫るなか、本所吉田町の裏長屋を出た夜鷹ふたりと妓夫が、両国橋を渡って隅田川を越え、商売の場所である両国広小路に向かう。
夜鷹のお千代とお花は、ともに柿渋色の単衣を着て、太織(ふとり)の帯を締めていた。
妓夫の又兵衛はお千代の亭主で、やはり単衣を着て、唐傘をかついでいた。

永井義男『江戸の性愛業』(作品社)

又兵衛は、女房ともうひとりの、つまり夜鷹ふたりの用心棒を務めていることになろう。


ともあれ、当時の夜鷹と妓夫の風俗がわかる。


江戸時代、女の職業は少なかった。亭主が病気や怪我で働きに出られなくなると、たちまち生活が困窮する。


女の代表的な職業は女中と下女だが、原則としてすべて住込みだった。住込みをしていたら、病気や怪我の亭主の面倒を見ることができない。女房が働きに出ようと思っても、職場がなかったのだ。


■笑い話になるほど日常の風景だった


やむなく、夜鷹に出る女は少なくなかった。


『元禄世間咄風聞集』に、次のような話がある。


芝あたりの裏長屋に住む浪人は毎晩、妻を夜鷹に出し、自分は妓夫をしていた。
隣に住む浪人も、同じく妻を夜鷹に出していた。
ある日、ふたりは話し合った。


「いくら生活のためとはいえ、自分の女房が不義をしているのを見るのはつらい。貴殿の女房をそれがし、それがしの女房を貴殿が見張るのはどうじゃ」
「それは名案じゃ」


こうして、お互いに相手の妻の妓夫をつとめることになった。
その夜、いつもの場所で夜鷹商売をした。
浪人が、隣人の妻をうながした。


「もはや四ツ半(午後11時ころ)だから、帰ろうではないか。大家が長屋の路地の木戸を閉じてしまうと、面倒だぞ」
「お気遣いなされますな。今夜ばかりは、夜がふけても木戸はあいております」
「なぜ、そのようなことがわかる」
「今夜は、大家のおかみさんも稼ぎに出ています」


大家の女房まで夜鷹に出ているという落ちがあり、一種の笑い話になっているが、実情は悲惨である。


よほどの貧乏長屋だったに違いない。


■盆も正月も知らずに世を終わる


▼図版7は、夜鷹がふたり連れで、商売に行くところ。ここも「辻君」と記されている。


絵には描かれていないが、妓夫が付き添っていたはずである。


図版7:蓬莱山人 ほか『花容女職人鑑』、刊.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)

図版8では、夜鷹が男を引っ張って——


「これさ、まあ、ちょっと寄らねえけりゃあ、離さねえ。話があるからよ。このとろは、鼻でばかりあしらうの。おおかた鼻についたのだろう」

——と、恨み言を述べている。


図版8:曼亭鬼武作 ほか『慎道迷尽誌 3巻』、享和3[1803].国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2025-02-18)

かつて馴染み客だった男が、このところ自分を避けるようになっていたので、夜鷹は夜道で出会ったのをさいわい、強引に引っ張りこもうとしている。


男からすれば、なんとも迷惑であり、腹立たしかったろう。


しかし、女の方からすれば必死だった。ひと晩のうちに何人かの客を取らないと、それこそ食べていけなかったのである。


戯作『好色一代男』(井原西鶴著、天和2年)に——


夜発(やほつ)の輩(ともがら)、一日ぐらし、月雪のふる事も、盆も正月もしらず。

——とある。夜発は夜鷹の別称。


夜鷹はまったくのその日暮らしで、月見も雪見も、盆も正月も知らずに世を終わる、と。


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永井 義男(ながい・よしお)
小説家
1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。
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(小説家 永井 義男)

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