アルツハイマー病から「逃げおおせなかった老親」を狙い撃ち…通帳をゼロにしたハイエナ保険会社の人間失格
2025年3月1日(土)10時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/diephosi
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この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。
■成人後に両親が離婚
近畿地方在住の高蔵小鳥さん(仮名・40代独身)は、製造業に携わる父親と、飲食系の会社の経理の仕事をしていた母親の間に一人っ子として育った。家には父方の祖父母が同居しており、1年を通じて頻繁に親戚との交流があり、家族で旅行や外食に出かける穏やかな家庭だった。
「両親が何で出会ったか、何歳で結婚したのかもはっきりはわかりませんが、母は34歳くらい、父は26歳くらいで結婚していると思います。出産は母が36歳くらいのときで、2回流産をしていると聞いています。一人っ子で大人の中で育ったので、なんでもしてもらえる、そんな甘やかされた幼少期だったと思います。父は優しい人でしたが、あまり印象に残っていません。母は社交的な人で、私はのんびり屋でした」
両親は高蔵さんがしたいことを尊重し、勉強や交友関係に一切口を出さなかった。
「母とは、よく言う姉妹のような関係ではなかったのですが、仲は良く、私は反抗期などもありませんでした」
何不自由なく成長した高蔵さんは、大学も実家から通った。やがて大学を卒業した高蔵さんは、オリジナル雑貨の製造販売の会社に就職。最初の配属先は近畿地方だったため、実家から通勤した。
ところが、高蔵さんが就職して間もない頃のこと。父親が海外の女性と不倫関係に陥り、母親に離婚を迫った。
「父はいわゆるハニートラップにかかり、相手の女性を支えたいからと言って、母に無理やり離婚を迫ったそうです。私は詳しいことはよくわかりませんが、母は離婚に応じ、父は出て行きました。父の両親(私の祖父母)は叔母(父親の妹)の家へ引っ越して行きました」
その後、高蔵さんは関東へ赴任することになり、2年ほど実家を離れた。
高蔵さんはお盆と年末年始の年に2回ほどは実家に帰省していたが、母親は母親で、友だちと旅行に行ったり、趣味の体操をしたり絵を描いたりして過ごしていたため、寂しがっている様子はなかった。
その2年後、高蔵さんは近畿地方に転勤になり、再び実家に住まうようになったものの、以降は海外、東京とめまぐるしく配属先が変わり、再び近畿地方に戻ってきた。その頃には別の職種に興味を持ったため退職し、教育関係機関の事務員として再就職した。
■母娘二人暮らし
近畿地方の実家に帰ってきてからというもの、家のことはほとんど母親に任せきり。転職する前は家に8万円入れていたが、転職後は給料が減ってしまったため、3万円入れる他は、食事の支度はもちろん、掃除も洗濯もやらない。休みの日は疲れて寝ているか、友だちと遊びに出掛けていた。
それでも母親とは仲が悪いということもなく、年に1回は母娘で国内外に旅行に行った。
そして高蔵さんが41歳のとき、ずっと働いてみたいと思っていたアパレル系の会社に人事として採用が決まる。住み慣れた実家から、やりたかった仕事に挑戦できる。恵まれた環境で、充実した日々を送っていた。
2019年夏。高蔵さん42歳、母親78歳になっていた。母親は、かりんとうやせんべいなど、同じお菓子ばかりいくつも買ってきたり、近所から習いにくる人がいたほど料理が上手だったにもかかわらず、食べられないほど味付けが濃くなったりするなど、「あれ?」と思う日が増えていく。また、今まできれいに掃除や整理整頓がされていた家の中も、いつの間にか乱雑になってきていた。
「今思うと……という感じで、当時私は料理もしませんでしたし、食材なんかも自分で管理していませんでしたから、ストックなどもちょっと同じものが増えてきたなと思うくらいで、『間違えて買ってきたのかな』くらいにしか感じていませんでした」
そして同じ年の秋ごろ。母親がメインに使っていた銀行から「引き落としができませんでした」というハガキが届いたため、確認すると、高額な保険料が引き落とされていたせいであることが発覚。
「母に確認しても『覚えてない』と言うだけで埒が明きません。私が調べたところ、問題は一時期問題になった、保険会社の営業で、1年ほど前に契約してしまっていたものでした。もうひとつは、3カ月ほど前に訪問営業で契約してしまったもので、ひと月6万円も引き落とされていました。後期高齢者になっていた母にはもう、死亡保険や入院保険は必要ないので、これを機会にいらない保険は全て解約しました」
保険問題で奔走していた高蔵さんは、近所に住む母親の友人から声をかけられる。
「最近お母さんの様子が変だと思っていたの。話していても、同じことを何度も言ったり、約束したことを全然覚えてなかったりするのよ。うちの夫も認知症の初期で同じような症状だったから気になって……」
高蔵さんはすぐに近所の病院に母親を連れていくと、検査の結果、「アルツハイマー型認知症」と診断。
「まさか自分の親が……と思いました。でもこの時点では認知症というものがあまりどういうものかわかっておらず、徐々にその大変さがわかってきた感じです」
要介護認定を受けると、要介護2と認定された。
写真=iStock.com/Vadym Plysiuk
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■運命の悪戯
ショックを受けながらも高蔵さんは、母親を連れてデイサービスの施設を見学した。1軒目の施設は認知症の利用者が多く、静かな雰囲気だったため、居心地の悪さを感じた母親は、しばらくして「帰りたい」と言った。
だが、2軒目の施設は賑やかな雰囲気で、母親は「帰りたい」と言わなかったため、2軒目の施設に決定。最初は週に2回から利用を始めた。
ところが、それから半年も経たない2020年1月。かかりつけ病院で母親が定期検診を受けたところ、「大丈夫だと思うけど、ちょっと気になるから大きな病院で検査を受けてみてほしい」と言われて総合病院で検査を受けた。すると、ステージ2の胃がんだと診断される。
「母には全く前触れの症状はなく、それなのに胃を半分くらい取るほど大きな手術を受けることになって驚きましたが、手遅れにならなくて良かったとも思いました。総合病院の医師には、『あと少し見つかるのが遅かったら、命が危なかったかもしれない』と言われました」
写真=iStock.com/Springsky
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すぐに母親は手術を受けることになり、手術後は約2カ月の入院。その間に母親は認知症の症状が進んだ。
「入院前はまだそれほど物忘れがひどくなかったのに、手術後の回復が悪く、せん妄が出たのと、自分が手術をして病院にいるということが理解できず、混乱したようです。『外にずっと出されていた』とか『変な男の人が入ってきた』とか『食事を食べさせてもらえない』とか言い、自分がどこか変な施設に入れられて帰してもらえないとずっと言っていました。どれだけ言ってもすぐに忘れるので、何度も同じ説明をしないといけなくて大変でした」
手術直後は全く動けないため問題はなかったが、少し動けるようになってくると、トイレに行かなくても良いように導尿のチューブを入れているにもかかわらず、自分でトイレに行こうとしたり、勝手に点滴などを外して家に帰ったりするようになった。
手術から7日ほど経った深夜のこと。仕事から帰宅したばかりの高蔵さんに病院から電話がかかってきた。
「家に帰ろうとするお母様を止められないので、病院に来てもらえませんか?」
当時はコロナ禍。病室に入る面会は断られていたが、夜勤の人数が限られている上、認知症の患者が重なると手が足りなくなるため、家族に助けを求めるより他なかったようだ。
それからというもの、高蔵さんは母親の病室に帰り、病室から通勤する日々を送る。しかし担架のような簡易ベッドで寝る生活に耐えきれなくなり、5日ほど経った後からは、夜、母親が眠りにつくまで病室にいて、朝、母親が朝食を食べる時間に病室に行き、一緒に朝食を摂ってから出勤した。
■苦渋の選択
胃を半分ほど切除した母親は、徐々に通常の食事に戻していくが、その過程でなかなか胃がうまく働かないのか、食べてもすぐに戻してしまい、約2カ月の入院の間に10キロほど痩せてしまった。
それでも退院の日を迎えると、高蔵さんはあらかじめ契約しておいた訪問看護を週3回利用し、それ以外の日はデイサービスを入れて母親のケアに努めた。
しかし母親が認知症と診断されてからというもの、高蔵さんは長い間、頭を悩ませていた。
「ずっとやってみたかった企業の人事の仕事についた矢先に、母の認知症と胃がんが発覚。認知症の母は、自分ががんだということを理解しておらず、健康な人と同じ行動をしようとするのが厄介でした。私の仕事は出張が多く、まだコロナが始まったばかりだったため、リモートワークに対応していません。介護休業や介護休暇などのことはある程度知っていましたが、まだ就職して数カ月でしたし、会社の人事担当者が私しかいなかったので、とても休みたいと言い出せる状況ではありませんでした」
勤務中も出張中も母親のことを思い出すと不安に襲われることがしばしば。通勤途中に満員電車に乗れば、母親に感染症を持ち帰ってしまうのではないかという心配にも苛まれる。
「40代に入っていた私は、今辞めてしまったら、次の職がすぐ見つかる可能性が低いのではないかという不安もありました。そして仕事を辞めることは、自己価値や社会的地位への喪失感を引き起こしました。しかし同時に、母が私の支援とケアを必要としていることを理解していましたし、一人っ子である私は、それに応えることが優先事項であるという確信も持っていました」
2020年6月。最終的に高蔵さんは、離職という決断を下した。(以下、後編へ続く)
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)