そこで間違えなければ、徳川家康を討てたかもしれない…関ヶ原の戦いで惨敗した石田三成の「歴史的な判断ミス」
2025年3月2日(日)9時15分 プレジデント社
イラストレーターの長野剛さんが描いた岐阜関ケ原古戦場記念館の壁に掛かる関ヶ原14武将のタペストリー=2020年10月21日、岐阜県関ケ原町 - 写真=時事通信フォト
※本稿は、呉座勇一『日本史 敗者の条件』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
写真=時事通信フォト
イラストレーターの長野剛さんが描いた岐阜関ケ原古戦場記念館の壁に掛かる関ヶ原14武将のタペストリー=2020年10月21日、岐阜県関ケ原町 - 写真=時事通信フォト
■石田三成の「最初の誤算」
石田三成の徳川家康打倒の企ては挙兵、大坂城占拠、「内府ちがいの条々」の発送までは思惑どおりに進んだ。ところが、その直後から計算は狂い出す。三成最初の誤算は、「内府ちがいの条々」が思ったほどの効果をもたらさなかったことである。
三成らの「内府ちがいの条々」は、西日本の諸大名の積極的な西軍参加を促すとともに、家康率いる会津征伐軍に参加した諸将の離反を煽ることを目的としていた。けれども、西日本の諸大名は表面上、西軍に従ったにすぎず、遠隔地にいる大名の多くは傍観するか、家康に通じた。積極的な協力姿勢を示したのは立花宗茂、長宗我部盛親などごく少数にとどまった。会津征伐軍からの離反者も真田昌幸などわずかだった。
佐和山で謹慎していた三成の想像よりも、家康の独裁権力は強靭であった。「内府ちがいの条々」によって正当性を剝奪したにもかかわらず、最大の実力者である家康に諸大名がなびく趨勢を逆転させることはできなかったのだ。
とくに、家康の老臣・鳥居元忠が立て籠もる伏見城の攻略に半月を要したことは、西軍の先行きに暗い影を落とした。守備隊が2000人に満たない伏見城を攻めあぐねたことは、西軍の威信を低下させたのである。
■徳川家康の西上阻止が西軍の基本戦略
会津征伐に向かっていた家康が、西軍の決起を知って反転してくるであろうことは、三成らも当然予期していた。よって、家康の西上阻止が西軍の基本戦略であった。西軍の防衛戦略を知るうえで参考になるのが『十六・七世紀イエズス会日本報告集』である。下に該当箇所を掲げる。
「日本国全土は(東西)二軍に分かれた内戦によって燃え上がったが、その一方(西軍)は9名からなる国家の奉行たちが指揮し、他に大勢の諸侯がいた。もう一方の軍勢(東軍)の大将は内府様(家康)であったが、彼は己が領国である関東に留まって、奉行の一人であった(上杉)景勝と戦さをしていた。奉行側に味方していた者たちは、都へ通じるすべての街道を封鎖することを考え、こうすることによって軍勢を率いて都へ帰ろうとする敵の望みを奪おうとした。彼らはこの計画を実行するために、伊勢と美濃の国に己が最大の軍勢を集結させた」(「1600年度年報補遺」)
「諸奉行の軍勢は、尾張の国を奪取することを企て、それに隣接する内府様側の伊勢、美濃両国に進攻しつつあった」(「1599〜1601年、日本諸国紀」)
■「福島正則を寝返らせることができる」と考えていた
すなわち、西軍は伊勢・美濃を防衛ラインと考えていたが、できれば尾張にまで進出し、そこで家康ら東軍を迎撃するつもりであった。このことは、伏見城を攻め落としてから数日後の8月5日に、三成が信濃の真田昌幸に送った書状からも裏付けられる(真田昌幸・信幸・信繁宛て石田三成書状、「真田家文書」)。三成は昌幸に対し、美濃岐阜城主の織田秀信(信長の孫)と協議して尾張に出兵したことを報告している。また、東軍の福島正則を説得中であり、もし正則を取り込めたら三河に出陣し、説得に失敗したら正則の居城である尾張清須城を攻めるという方針を伝えている。
この書状で興味深いのは、三成が福島正則を寝返らせることができると考えていた点である。小説やドラマの影響もあって、正則は反三成の急先鋒と見られがちだが、実際にはそこまで両者の関係は悪くなかったのだろう。秀頼への忠義をもち出せば、豊臣恩顧の正則を翻意させられる、と三成はにらんでいたのである。
福島正則(画像=東京国立博物館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
だが、三成の見通しは甘かった。周知のように、正則は家康に忠誠を誓い、清須城は東軍の最前線基地として機能した。尾張が東軍の勢力圏に入ったことで、三成の戦略は大きな修正を迫られた。
■難攻不落を謳われた「名城」がわずか1日で陥落
石田三成の戦略の全貌は、三成が真田昌幸に与えた前掲の書簡に添えた「備之人数書」によって知ることができる。それによれば、西軍は尾張に進撃するため、全軍を伊勢口・美濃口・北国口の三方面に分け、主力約8万を伊勢口に割く計画だった。西軍が伊勢攻略を最優先したのは、当時、伊勢路が東海道の本道であり、東軍の西上作戦の主要ルートとなる確率が高かったからである。だが実際には、後述のように東軍は美濃路を選択した。この点も読み違えである。
三成は美濃方面の担当で、8月10日以前に、近江佐和山城から美濃大垣城に移っている(8月10日真田昌幸・信繁宛て石田三成書状、「浅野家文書」)。この時期、三成は真田昌幸ら遠隔の西軍大名に書状を送っているが、それらによれば尾張・三河国境で家康を迎え撃つことを三成は諦めていなかった。だが東軍の軍事行動は予想以上に活発で、三成は美濃・尾張国境の木曽川まで防衛ラインを後退させざるを得なかった(「曼荼羅寺文書」)。
ところが清須城に集結していた東軍の福島正則・池田輝政らが8月23日、西軍の岐阜城を攻略した。難攻不落を謳われた天下の名城がわずか1日で陥落したことは、大垣城の三成らを驚愕させたであろう。岐阜城の救援に遅れをとった三成の失態は明白である。三成の東軍迎撃戦略はまたも挫折した。
■西軍総大将・毛利輝元はなぜ動かなかったのか
さて、岐阜城攻略の報を受けた家康は9月1日、本拠地の江戸を発ち、東海道を西に進んだ。家康は9月14日には美濃国の赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)に到着し東軍諸将と合流、同地の岡山に本陣を置いた。大垣城の西軍諸将は家康の突然の出現に動揺したという。
岐阜城陥落を受けて、三成は大坂の毛利輝元に出陣を要請したと考えられる。しかし、輝元は動かなかった。そもそも大坂入城後の輝元の動向には疑問符がつく。当初の計画では、輝元自身が伊勢方面に出陣する予定だったが大坂城を動かず、吉川広家・安国寺恵瓊らを伊勢に派遣した。だが伊勢方面の諸大名の抵抗は思いのほか激しく、輝元は毛利秀元を援軍に送っている。
輝元自身が大軍を率いて出陣していれば、伊勢平定は早まった可能性がある。その場合は東軍による岐阜城攻略を阻止できていただろう。大坂城を動かず静観の構えを取った輝元には優柔不断の凡将とのレッテルが貼られてきた。
出所=『日本史 敗者の条件』(PHP新書)
■増田長盛ら奉行衆との「主導権争い」
けれども光成準治氏が注目したように、一方で輝元は四国・九州に出兵し、領土拡大を図った。輝元には野心と打算があり、決してお飾りの大将ではなかった。ただ、毛利氏の兵力分散が、西上する家康軍への備えを困難にした点は否めない。
輝元が大坂城を離れなかったのは、大坂城にいた増田長盛ら奉行衆と主導権争いをしていたからだと推定される。出陣すれば、豊臣秀頼を擁する奉行衆が政権中枢を掌握してしまう。
さらに輝元には、家康との決戦を避けて自らの兵力をなるべく温存し、三成らと家康をぶつけて漁夫の利を狙う思惑もあっただろう。前線に出動していた三成は、輝元と奉行衆の関係を調整し、輝元を出馬させる術をもっていなかった。
家康は9月14日の夜、諸将を集めて軍議を開いた。正徳3年(1713)に成立した宮川忍斎の『関原軍記大成』によれば、池田輝政・井伊直政は大垣城攻略を主張したが、福島正則・本多忠勝はこのまま西上し、大坂城に立て籠もる西軍総大将の毛利輝元と一戦交えるべきだと説いた。
■三成が家康との決戦を急がなければ…
家康は大垣城攻めをすれば時間を費やすこと、小早川秀秋や吉川広家が内応を約束していることなどを考慮して、大垣城を素通りしてただちに西進し、三成の居城である佐和山城を落とし、さらに大坂まで進撃することにした。これは西軍の本拠を一気に衝く策だが、家康はあえて作戦を秘匿せず、東軍が上方に向かうという情報を流した、と戦前以来考えられてきた。家康の真の目的は、西軍を大垣城外に誘い出し、得意の野戦にもち込むことにあったというのだ。
呉座勇一『日本史 敗者の条件』(PHP新書)
はたして、西軍は動いた。美濃と近江の国境に全軍を進め、近江への街道を封鎖することで東軍を阻止する作戦に出たのである。大垣城には福原長堯らを残し、西軍の諸隊は石田隊を先頭に、夜陰のなかを行軍し、南宮山の南を迂回して関ヶ原に全軍を展開した。
結果論ではあるが、三成らが大垣城を出たのは失敗であった。関ヶ原合戦の当日、毛利元康・小早川秀包・立花宗茂ら1万5000人の西軍が近江大津城を攻略した。三成が家康との決戦を急がなければ、大津城と大垣城で家康ら東軍を挟撃する態勢を取れたであろう。前方に毛利元康ら、後方に三成ら、という腹背に敵を抱える形になった家康は窮地に陥ったに違いない。
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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター助教、信州大学特任助教
1980年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。著書『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーとなる。『戦争の日本中世史—「下剋上」は本当にあったのか—』で角川財団学芸賞を受賞。主な著書に『一揆の原理日本中世の一揆から現代のSNSまで』『頼朝と義時武家政権の誕生』『動乱の日本戦国史桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』『日本史敗者の条件』などがある。
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(国際日本文化研究センター助教、信州大学特任助教 呉座 勇一)