気まぐれか英断か? 本田宗一郎氏が100億円の大型プロジェクトを平均年齢24~25歳の若手社員に一任した理由とは

2025年3月21日(金)4時0分 JBpress

 日本を代表する経営者であり、本田技研工業の創業者でもある本田宗一郎氏。その考え方は時代が変わってもなお、耳を傾ける価値がある。本連載では、今も多くの人に読みつがれる『本田宗一郎 夢を力に』(本田宗一郎著/日本経済新聞出版)から、内容の一部を抜粋・再編集。裸一貫から世界への扉を開いた名経営者の行動力と言葉に、改めて光を当てる。

 今回は、本田技研に浸透する「理論尊重の気風」について紹介する。突飛なことをしているようでも絶対にスジを通す本田宗一郎氏の強い信念とは?

※本記事の中には今日、差別的とされる語句や表現がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載いたしました。


社内にしみわたる理論尊重の気風

 世間では本田はアプレだなどというが、外からはあぶなそうに見えてもそこは非常に慎重にやっている。

 よその会社は工場を先に作ってから品物を作りはじめるが、私は品物を作ってみて、これなら売れるという見通しがついたとき一気に資本を投下する。

 鈴鹿に工場を建てたときも、いま市場に出回っている50ccのスーパー・カブが完成し、これなら絶対に売れる、2年半か3年でモトがとれるという自信が、各種のデータを検討の結果持てたので踏み切ったのである。

 一例をあげると、全国に2、3か所モデル販売地区を選び、新製品をここに集中的に配車し、その結果を検討した。こうすれば全国では何万台売れるかという見通しが立つ。そのような見通しを得てから鈴鹿市と土地交渉にはいった。

 ここは元鈴鹿海軍工廠跡で、工場敷地としては最適地であるが、この工場建設について私や専務はいっさい口出しをせず、決めたのは土地だけ。若い者の創意と生命力に強く期待してちゅうちょなくこの大事業のすべてを彼らにまかせる気になり、“全社員の創意くふうで鈴鹿にモデル工場を作れ”と指令を出した。

 すると平均年齢24、5歳の連中が各職場からチエを出してきた。建築関係者は建物について、技術研究所の連中は技術的なアイデアを、というぐあいにそれぞれの技能、持ち場に応じて適切なアイデアを出し合い、ついに100億円に近い大工場を無事完成させたのである。鈴鹿製作所は若い人たちの集大成であり、世に誇りうることと思う。

 一方、カブの大量生産に備えてどこをどうすればもっと安くできるかと製品についてのアイデアも徹底的に提案させた。

 だから鈴鹿でカブの生産が始まったときには初めからスムーズにすべてが進行、カブの生産費は大幅に引き下げられた。コストは安くなっても売り値はくずさない。だから当然利幅が多くなる。これでもうからなければどうかしている。100億円の大工場がわずか2年半でペイされている。経理も機械類はだいたい4年で全部減価償却までやってしまう方針をとっている。

 私は若い人たちを高く評価している。私に言わせれば「若いやつはアプレで困る」という人がいるが当の本人はどのくらい古くさい思想の持ち主であるか身のほど知らずだと言いたい。としよりは自分たちのやったことをよく反省し、現代に合致しているかどうかを考えたうえでなければ若い人を批判する資格はない。

 私は一見とっぴなことをやっているようでも、どんな場合でも絶対にスジを通す。もし意義さえあれば13日の金曜日だろうが土曜日でもかまわない。ただばくぜんと人さまがやるからおれもやるというやりかたはしないのだ。だから理論尊重の気風が会社にしみわたっている。

 理論尊重の気風は本社の創立(昭和23年=1948年)10周年記念の際にも現われた。ただ10年たったから記念するというのでは、つぶれかかった会社でも乞食でも10年たてば記念式というおかしいことになる。記念する以上何かひとつでも世間のお役に立ったという実例がないかぎり記念らしくないという提案が下部からあった。

 私の会社は昭和27年に100万ドル以上の機械を輸入したが、この外貨は本来国民のものである。それを使う以上義務が生じている。この義務をなしとげたときお祝いをする権利もでてくるということになり、結局輸出が100万ドルをこし輸入外貨を取りもどした11年目になってはじめて新宿コマ劇場を借り切り、全国から社員を呼び寄せて盛大な記念式をあげた。

 貴重なドルを使う以上、経営者はそれに責任を感じ輸出につとめていれば、輸入超過で国際収支が赤字だと騒ぐこともないはずである。今日の不況は経営の理念を失った大会社の経営首脳の責任だと私は言いたい。

 昨今、景気がだいぶ悪化して日本の代表的な大企業までが生産調整をして四苦八苦している。だがいまごろ生産調整なんて言っているのは間抜け過ぎるというものだ。本田技研は1年以上も前の36年(1961年)3月には生産調整を断行している。そのとき世間からは何かと非難されたが、私はちゃんとした見通しをもって行なった。“アプレ本田”がめくらめっぽうにしたものではない。

 つまりドル防衛で米国経済が変調を来たして日本にも影響しそうな気配があり、それに35年から36年正月にかけての大雪で日本中の3分の2が交通マヒを起こした。そんなこんなで売れ行きがかんばしくなかった。そこでこんなときにこそ生産調整すればいいんじゃないかと考えた。われわれの企業は受注生産でなく見込み生産である以上、作り過ぎて売れなければ調整するのはあたりまえ、調整しない方がかえっておかしい。

 だが生産調整となるといつやるかが非常に問題である。2月にやればまだ寒い期間も長く、代理店は先行き不安を感じるがそろそろ暖かい季節に向かい、景気もよくなりそうな時期を選んで調整すれば代理店もそうひどい恐怖心をもたないですむ。そこで2月は強気で押し通し3月にはいってからやろうと考えた。これはあくまで代理店の気持ちを考えたうえでの決定だった。

 そこで5日間の生産調整をすることを決めたが、実施まで約1か月間ある。その間にどういう手を打ったか——私の会社は急激に増産したため、そのとき機械や部品にたくさんのアンバランスが目立つようになっていた。下請けの能力差による精度の違いとか値段の高低などもあった。それらを徹頭徹尾洗い上げて、全社員がこの5日間の生産調整期間中にその不合理を是正するようあらかじめプランを練っておいたのである。

 だから生産調整といってもその日がくるとだれも休業どころではない。日ごとのおかしい点を全員が徹底的に直したのである。こうして機械の配置替えや手入れを終えて生産再開をしたときには、以前より質のすぐれた製品がしかも以前より低いコストでできるようになった。さらにおあつらえむきなのは他の企業は一般に好景気が吹きまくっていて生産増大の傾向が強かったから、私のところが操業停止をしても下請け業者の方でも全然苦にならなかった。

 このときの調整ですっかり体制を整えたため、いま世の中が不況だといって騒いでいるさなかに、私のところは反対に増産に転じていられるのである。昔から言われているように、ヤリの名人は突くより引くときのスピードが大切である。でないと次の敵に対する万全の構えができない。景気調整でもメンツにこだわるから機敏な措置がとりにくいのだ。どんづまりになってやむをえず方向転換するのではおそすぎる。

 いなかの財産家がつぶれるときのやりかたがちょうどこれに似ている。まず蔵の中の物を人目につかないように売る。次に遠くの田畑を売る。最後の段階になっても家屋敷は人目につくので手放す前にこれを担保にして借金をする。だから生産がともなわない借金の利子を払っていよいよお手上げのときには、家財産はおろか残るものは借金だけというバカなことになる。

 こういう愚劣なことをしている経営者が多いようだ。ふだんは経営者と従業員は一心同体だなどとおだてておいて、困ってくると旧軍隊のように転進とかなんとか言ってごまかし通そうとする。私はつねづね従業員は全部経営者である、だから経営に参加する権利と義務があると言っている。生産調整をしなくてはならぬようなときにも、はっきり実情と今後の対策を明示して全社員がいっしょに困難を克服することにしている。こういう姿が真の労使一体というのではないかと思う。

<連載ラインアップ>
■第1回資本金6000万円の会社が4億円を投資…不況下に本田宗一郎氏が大勝負に打って出た狙いとは?
■第2回気まぐれか英断か? 本田宗一郎氏が100億円の大型プロジェクトを平均年齢24〜25歳の若手社員に一任した理由とは(本稿)
■第3回「誤った一生懸命は怠惰より悪い」「『6日のあやめ、10日の菊』の商品価値は0」今も色褪せない本田宗一郎氏の金言(4月3日公開)
■第4回「60代の社長が率いる会社は活気が…」企業の繁栄を願い、本田宗一郎氏は社長交代のあいさつで社員に何を伝えたか?(4月10日公開)

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筆者:本田 宗一郎

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