30歳まで親から仕送りをもらっていた…無名役者の夫と料理好きの妻がチーズケーキで年商1.3億円を稼ぐまで
2025年4月3日(木)17時15分 プレジデント社
「古民家カフェ&宿 むすび」を営む田中裕士さん・咲子さん夫妻 - 筆者撮影
筆者撮影
「古民家カフェ&宿 むすび」を営む田中裕士さん・咲子さん夫妻 - 筆者撮影
■「幻のケーキ」を作る夫婦の来歴
海の香りが漂う瀬戸内海沿いに位置する広島県三原市に、ひっそりとたたずむ古民家カフェがある。
1月某日、屋根のある和風の門をくぐると、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。その奥には日本家屋があり、窓ガラス越しにたくさんの人でにぎわっていることがわかる。ここは、「古民家カフェ&宿 むすび」だ。
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古民家カフェ&宿「むすび」の入り口 - 筆者撮影
カメラを持っていることが珍しかったのだろうか。店内に入ると、他県から来ているという60代くらいの男女が私に話しかけ、女性の方がふと、こう言った。
「ここの夫婦は感じがいいのよ。とくにね、奥さんはすごい人よ」
「ここの夫婦」とは、同店を切り盛りする田中裕士さん(39)と咲子さん(38)夫妻だ。
田中夫妻は、2019年5月に古民家カフェを開いた。その後、咲子さんが作るバスクチーズケーキ(1ホール3840円)のオンライン販売を始めると、瞬く間に売れた。毎週金曜日の19時と土曜日の10時に発売するが、すぐに売り切れてしまうことから「幻のケーキ」と口コミが広がった。
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「幻のケーキ」と呼ばれるようになったバスクチーズケーキ - 筆者撮影
百貨店での催事イベントに出店すると、彼女のケーキを求めて店の外まで客が並ぶ。昨年は約3万5000個を販売し、カフェ経営と通信販売で1億3000万円を売り上げた。昨年4月には、スイーツパン専門店の「八天堂」とのコラボ商品「くりーむパン【バスクチーズケーキ風】」を開発。同品は中国・四国地方のローソンで販売されている。
人気のケーキを作る咲子さんは有名店で経験を積んだパティシエかと思いきや、料理とお菓子作りを独学で研究し、「幻のケーキ」を生み出したという。夫の裕士さんは、やや肩を落としてこう語った。
「彼女は料理の学校に通ったり、パティシエの修業をしたりしたわけじゃないので『しょせん、主婦でしょ?』って、周りから軽く見られたことがありました」
写真提供=田中さん
咲子さんがすべて独学で完成させた - 写真提供=田中さん
今でこそ笑って過ごしている2人だが、ここまでの道のりは険しかった。元俳優の裕士さんは、「もう死のう」と追いつめられたこともあった。両親から離婚を勧められた咲子さんだったが、彼女は裕士さんを信じ続け、自分のやりたいことを貫いた——。
これは、都会での生活を経て、田舎町で幸せを見つけた夫婦の物語だ。
■名もなき役をこなす俳優と、料理好きの主婦
2人が出会ったのは2014年、裕士さんが29歳、咲子さんが28歳の時だった。
その頃の裕士さんは21歳から東京で俳優になり、名もなき役が多いものの、映画『クローズZERO II』やテレビドラマ『JIN—仁—』など、さまざまなヒット作の現場で演技力を磨いた。一方、転勤族の両親のもとで育った咲子さんは立教大学の法学部を卒業後、銀行に就職。その後、ウェディングプランナーとして働いていた。
裕士さんの俳優時代(写真提供=田中さん)
咲子さんは、会社の同僚に紹介された裕士さんにすぐに惹かれた。彼の出演作を視聴し、「舞台の稽古がある」と聞くと手作り弁当を渡しに行った。それがきっかけで裕士さんも彼女を意識し始める。
「僕、もともとお弁当が嫌いだったんです。学生の頃、母親に『冷めた弁当なんて食えるかぁ!』って、食堂代をもらっていたくらい(笑)。でも、彼女の弁当を食べたら、すごく美味しくてびっくりしたんです。それが僕にとっての“はじまり”でした」
2人が交際をスタートさせた頃、咲子さんは裕士さんに飲食店を開く夢を語った。
咲子さんは子どもの頃から料理やお菓子を作ることが好きだった。母に教わりながら台所に立ち、家族の誕生日には毎年ケーキを焼いた。「チョコレートケーキが有名な『トップス』がすごく好きで、よく真似して作ってました」と咲子さんは言う。
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いつも予約で満席になる - 筆者撮影
■「いつか自分の店を開きたい」
だが、子どもの頃には「将来、料理人になろう」とは思わなかったそうだ。
「料理で生計を立てる発想がまったくなかったんです。勉強熱心な家庭で育った影響もあって、いい大学を出て、いいとこに就職して……みたいな。そういう道しか頭になかったんだと思います」
あくまでも料理は趣味と割り切っていた彼女だが、大学生時代に夢中で働いたスターバックスコーヒーでの経験が忘れられなかった。
「いつか自分のお店を持って、料理やお菓子を出せたら最高だな」
咲子さんは次第にそう考えるようになっていた。
裕士さんも、学生時代に中華料理店でアルバイトをした経験から「いつか飲食店を経営したい」と思っていた。2人は、一緒にお店をひらく未来を思い描くようになっていく。
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むすびの前には海が広がる - 筆者撮影
■生活費がままならなかった夫・裕士の“俳優時代”
その後、咲子さんは少しでも夢に近づくため、ダイニングバーに転職。店長として調理と接客のノウハウを学んだ。これが彼女にとって、初めて自分の作ったものを売るスタートラインとなる。
この店でとくに評判だったのが、咲子さんが作るタルトやケーキ。プロ顔負けの味を求めて、足繁く通う常連客が多かったという。
一方、裕士さんの生活は、順調とは言えなかった。芸能界に飛び込んで10年が経ったが、母親から毎月8万円の仕送りを送ってもらい、なんとか生活ができている状態だった。
咲子さんは、当時の裕士さんとの思い出を笑い話として振り返った。
「結婚する前の私は、彼に対して何でも『いいよいいよ』って感じで、それこそ3歩下がって歩くようなタイプでした。だからデートでパチンコに連れていかれても、全然興味ないのについて行きました」
それに対して、裕士さんは「僕が『おい、(座っているパチンコ台から)熱いやつ来てるで!』って言っても、彼女は(無表情で右手で操作する真似をしながら)こんな感じでした」と笑った。
裕士さんは「俳優をやめることは負け犬になること」と思っていたが、2016年12月、周囲の人たちに『彼女と飲食店を始めるので、エンタメを卒業します』と宣言し、俳優業から離れると決めた。
どこで、何のお店をするかも決まらないままだったが、2人は裕士さんの大阪の実家に移り住んだ。引っ越した後、まずはあらゆる料理の専門店を食べ歩いてみることに。そして家に帰った後、咲子さんがその味を再現した。いくつか試した中で、とくに良かったものが餃子だった。そこで、「オーガニックのたれが楽しめる餃子カフェにしよう!」とひらめく。
ただ、2人にはまとまった資金がなく、銀行や公庫からも借りられなかった。そこで裕士さんは今里町でゲストハウスを経営する中学校の後輩の元へ。そこの1階のスペースを間借りさせてもらい、お店を開業することにした。
写真提供=田中さん
餃子店を開いた大阪時代 - 写真提供=田中さん
■資金繰りの苦労、咲子さんの妊娠が重なる
オープンする日まで1カ月と迫った2017年のゴールデンウィーク直前、お店の準備で忙しい日を過ごしているところに、予期せぬことが発覚する。咲子さんの妊娠がわかったのだ。
彼女は、重いつわりに苦しんだ。「立てないくらい気持ちが悪くて。餃子の匂いなんて特に駄目で、お店から帰ってきた彼の服に付いた匂いだけでウッとなりました」と咲子さん。
だが、店のメニュー作りも調理もすべて咲子さんによるもの。「このままじゃオープンできない」と慌てた裕士さんは、自分一人でも営業しようと、東京の餃子店で働く知人に来てもらい、1週間ほど付け焼き刃の修行をした。裕士さんの姿を見かねた母親と姉が助太刀に入り、家族総出で準備を行った。
6月にお店を開いた後、2人は急ぐように入籍。だが、お店の経営と咲子さんの体調不良で、とても結婚を祝う状況ではなかった。「だから結婚指輪もあげられてないし、新婚旅行もしていないんです」と裕士さんは振り返る。
■母の言葉で目が覚めた…借金まみれの生活
裕士さんの奮闘も及ばず、この店は1年で廃業することになる。
オープンから2カ月間は賑わったものの、その後は一気に赤字へと転落。1日営業しても、売り上げは1万円にも満たなかった。それでも裕士さんは早朝から仕込みを続けた。
裕士さんはお店の赤字を補おうと、会社を経営する知人を車で送迎する仕事をし、咲子さんもクラウドソーシングサービスを使って口コミや簡単な記事を書く仕事をしながら、なんとか食いつないだ。
裕士さんの母からは「売り上げの補填に」と、毎月20万円をもらっていた。18歳の時に父が亡くなり、看護士をしている母は一人で彼を支えてきた。そのことを知る裕士さんの友人からは「お前は甘い」と言われた。30歳を過ぎて親からお金をもらっていることに不甲斐なさを感じていたものの、心のどこかで「困った時は母さんが助けてくれる」と思っていた。
だが、その甘えが母を苦しめていたことに裕士さんはやっと気が付く。
開店から1年が経とうとした時、母が突然泣き出して「もう無理やで。お金は出せんよ」と言ったのだ。
裕士さんは母の姿を見て、すぐに餃子店を畳むことを決めた。その後、3年かけて裕士さんは母親に工面してくれたお金を返したそうだ。
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インタビューで当時を振り返る田中さん夫妻 - 筆者撮影
■「彼とは離婚しなさい」
2018年1月、咲子さんは女の子を出産。我が子の誕生で幸せに包まれる2人に、試練が待ち受けていた。
咲子さんは両親が移住した広島県福山市に里帰りしていた。ある日、父と母から「彼とは離婚しなさい」と言われてしまう。
大阪でこのことを聞いた裕士さんは、「もう、妻と娘は戻ってこない」と思い、愕然とした。また、店を間借りしていた後輩との関係がこじれており、心に大きなダメージを負っていた。借金が膨らみ、家族も離れていく——。
「もう死んだほうがラクや……」
気が付くと、裕士さんはひとりでスーパーマーケットにいた。すると、母から電話がかかってきた。その電話の最中、涙が止まらない。息ができず、過呼吸になった。人目を憚らず、その場に泣き崩れた。
■三原への移住と新たな挑戦
その後、咲子さんは両親の反対を振り切り、子どもと2人で大阪に戻った。
ある日、咲子さんの母から連絡がきて、「三原市の空き家バンクに、いい物件がたくさんあるよ」と教えてくれた。離婚を促していた母だったが、2人を応援する気持ちがあったのかもしれない。
さっそく調べてみると、広島県三原市には古民家の物件が格安で売り出されていた。さらに、同市は女性の創業支援が手厚く、若い世代の移住に対する家賃補助があった。
道半ばでとん挫した、店を持つ夢。何もできなかった歯がゆさ……。咲子さんはくすぶっていた思いが再燃し、裕士さんに「三原で古民家カフェをやりたい」と相談。すると、裕士さんも彼女の思いに賛同した。
この選択が、田中夫妻の逆転劇を生むことになる——。
■空き家になって7年の古民家は「まるでジャングル」
店を閉めた翌年、田中家は三原市への移住の準備を始めた。咲子さんは同市の商工会議所で行われる創業支援講座を受け、幼子を抱っこ紐で揺らしながら、自宅兼カフェになるような物件を探した。すると、1軒目で理想的な古民家に出会う。
それは、海に面した築100年の日本家屋で、もとは料亭だったようだ。
空き家になって7年の古民家の風貌を、「まるでジャングルでした」と咲子さんは振り返る。近隣の住民から雑木林の一角だと勘違いされていたほど、外からは建物の全貌が見えなかった。
室内に入るとクモの巣だらけ。それでも、竹筒に覆われた天井の迫力、室内から見える庭の広さ、なにより目前に海が広がっている光景に咲子さんの胸は高鳴った。
「ここでお店をやろう」
その足で物件の持ち主の元に行き、カフェの事業計画を話すと、快く貸してくれた。
ここから、トントン拍子で準備が進む。三原市の創業支援の繋がりで地元の銀行と公庫から合わせて500万円の融資を受け、キッチンを改装。少しでも節約するために、内装や庭の手入れは夫婦自ら整えた。
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「古民家カフェ&宿 むすび」の庭 - 筆者撮影
■古民家カフェで再起
2019年5月1日、「古民家カフェ&宿 むすび」をオープン。お店の名前は、「人と人、人と料理、人と空間をむすんでいきたい」という思いから名付けた。
この時点ではまだバスクチーズケーキは販売していなかったが、県産の魚や豚肉を使った定食と日替わりスイーツが楽しめるお店として新聞やテレビで紹介されると、全国各地から客が訪れるようになる。最大24席の店内は予約で連日満席。ランチ営業のみで毎月100万円以上を売り上げた。餃子店の時と比べると、雲泥の差だった。
人の温かさにも触れた。咲子さんが食材の買い出しに行くと、地元の農家から声をかけられ、「取り過ぎたけぇ」と新鮮な野菜をくれた。知らない土地で生きる不安が吹き飛んだという。
また、三原市は漁港が近いため、新鮮な魚を仕入れることができた。この環境によって咲子さんは料理人魂をかきたてられ、カフェのメニュー制作に一層力を注ぐようになっていく。
その頃の裕士さんは、借金を返済すべく、深夜に三原市内のビジネスホテルで正社員として働き、朝はパチンコ店でアルバイトをした。帰ったら2時間ほど仮眠し、カフェの営業が忙しくなる頃に起きて、配膳の手伝いをした。忙しかったが、裕士さんはまるで憑き物が落ちたような思いがしたそうだ。
「芸能界にいた頃や大阪で起業した頃は、(俳優仲間や知人に追いつこうと)背伸びしていたんです。心のどっかで無理をしてたんだなって思いましたね。今はすごくストレスフリーです。引っ越して、精神的に落ち着いたことが一番よかったです」
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古民家カフェ内から眺める日本庭園 - 筆者撮影
■コロナ禍で生まれたバスクチーズケーキ
カフェの経営が好調だった最中、新型コロナウイルス感染症が世界的に流行した。飲食店は臨時休業を余儀なくされ、大きな打撃を受けたのは記憶に新しい。2人も例外ではなかったが、そこで立ち止まらなかった。
ある日、ニュースで地元の学校が休校し、親たちが子どもたちのお昼ごはんを用意することができずに困っていることを知った。そこで2人はお弁当のデリバリーサービスを始めた。移住したばかりで土地勘はなかったが、自家用車に弁当を乗せて近隣を駆け回った。
それでも時間を持て余し、咲子さんはもう一つの夢だった「ケーキの全国通販をしてみよう」と思い立つ。
きっかけは、常連客の一言だった。
「以前から『バスチー』っていうコンビニスイーツを見かけて、『流行ってるのかな?』って気になっていて。その時に、友達から『咲子さんの作るバスクチーズケーキを食べてみたい』と言われたんです」
友人の思いにこたえようと、咲子さんは手ごろな値段のガスオーブン2台を購入。使っていなかった小部屋にこもって、バスクチーズケーキの研究を始めた。
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チーズケーキ開発のために購入した初期のオーブン - 筆者撮影
■ケーキ作りは「すべて独学」
もっとも美味しい配合は、すでに頭の中にあった。まず、数種類のクリームチーズを取り寄せ、卵は三原市産のものを仕入れた。それらの素材とかけ合わせた時の焼き上がりの香りや風味を研究した。
バスクチーズケーキは、高温で一気に焼きあげることで、中のチーズはなめらかな状態のまま、表面にカラメルのような焦げができるのが特徴だ。そのため温度調整を見誤ると、焼きあがったケーキがしぼんだり、硬くなったりしてしまう。
咲子さんがこだわったのは、「とろける食感」と「理想的な焼き加減」。
「『表面は焦げてて、中はトロッととろける』っていうのを売り出し文句にしたいと思って」と咲子さん。自分の舌を頼りに、理想的な食感を求めて何度もケーキを焼いたという。
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原材料はクリームチーズ、卵、砂糖など。型にソースを流し込む - 筆者撮影
「その時のガスオーブンは1度に3ホールしか焼けなかったので、片方のオーブンに入れて、その間にもう一つのオーブンからケーキを取り出して……を永遠に繰り返しました。ちょっとでも手を止めたら形が崩れるから、誰かが声をかけようものなら『話しかけないで!』って(笑)」
1ヵ月ほど温度や焼き時間を調整。その後も改良を兼ね、1年かけて納得のいくバスクチーズケーキを完成させた。
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型に入れた後高温のオーブンで焼き、冷ます - 筆者撮影
■一緒に食べた人が喜んでくれる「むすび」のケーキ
実際に、私は「古民家カフェ&宿 むすび」でバスクチーズケーキを食べた。こんがりと焼けた上面にフォークを入れると、抵抗なくスッと入っていく。外側のカラメルのような味と、中身の濃厚なクリームチーズが口に含んだ瞬間にふわっと溶けていった。
何個でも食べられそうな美味しさで、「これは家族に食べさせたい」と思い、テイクアウト用の1ホールを購入した。自宅に帰って家族と食べると、普段は味の感想を言わない夫が「おいしい。また食べたい」と目を輝かせた。
この時、「咲子さんが独学で作り続けた努力は、こうやって広がっていったんだな」と思った。小さな部屋で黙々と試作を繰り返す咲子さんの背中を想像し、胸が熱くなった。お店の名前である「むすび」は、このケーキにピッタリだと感じた。
■1日の注文が50ホールを超え、配送が3カ月待ちに
裕士さんは、彼女のバスクチーズケーキを食べて「たくさんの人に広めたい!」と思い、すぐにオンライン事業を形にすべく動き出した。
まず、菓子製造業の許可をとるため、敷地の奥にあった物置きを改装して製造場をつくった。パッケージのデザインやECサイトでは、贈り物として喜ばれるケーキであることを前面にアピール。このオンライン販売事業に初期費用として投入した金額は約200万円。「やるからには手は抜かない」と言わんばかりの投資だった。
写真提供=田中さん
「とろける食感」と「理想的な焼き加減」にこだわって作った - 写真提供=田中さん
その成果はすぐに結果を生む。2020年6月にオンラインで販売を始めると、すぐに注文が入った。その数はどんどん増え、気が付くと1日に50ホール以上。なるべく早く注文者に届けようと、咲子さんは深夜までケーキを焼き続けたが、配送は3カ月待ちの状態が続いた。
実はヒットの背景には、裕士さんの人脈と行動力があった。まず、芸能界にいた頃の友人たちに「妻が作りました。全国に笑顔を届けられるようにしたいので、よかったら食べてください」とメッセージを添えてケーキを送ったのだ。
すると、「めちゃめちゃ美味しかった!」と喜ばれ、SNSを使って紹介してくれた。「この前、仲良くさせてもらっていた狩野英孝さんが激押ししてくれました」と裕士さんは嬉しそうに語る。
また、お菓子を紹介するインフルエンサーに連絡を取って、ケーキを食べてもらうと「今まで食べたチーズケーキの中で一際おいしかったです」と感想をもらった。
それがきっかけで、イトーヨーカドーで行われたイベントに出店。すでに裕士さんは掛け持ちで続けていた仕事を辞めており、ケーキを販売するために全国を飛び回るようになった。
■古民家カフェの隣に2号店をオープン
2023年12月、2人は事業をさらに広げるべく、会社を法人化した。そして同年春に古民家カフェの北隣に2店舗目となる「むすびカフェbettei」を開店。古民家カフェが予約なしでは入れないことが続くため、気軽に立ち寄れる店をつくったという。
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古民家カフェに隣接する「むすびbettei」 - 筆者撮影
従業員の数は10人に増え、古民家カフェの運営と、ケーキの製造・配送はスムーズに稼働している。今年から働き始めた20代の社員に話を聞くと、「これからどんどん大きくなる地元のお店で働けてうれしいです」と笑顔で話してくれた。
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betteiではテイクアウトが可能 - 筆者撮影
だが、規模を拡大すれば、当然返済する借金の額も増える。「今でも死ぬほど借金があります」と裕士さんは苦笑いだ。けれど、2人には自信がみなぎっていた。咲子さんはこう語る。
「私の両親からは、『事業の借り入れは、借金じゃない。お金を稼ぐためのお金だから、頑張りなさい』って言ってもらいました。いつか返済が終わった時に、肩の荷が下りればいいかなって思ってます」
私が「なぜ、そこまで走り続けられるんですか?」と聞くと、裕士さんがこう答えた。
「大阪時代の怖さがあるんです。もう、あの頃に戻りたくない。しかも、従業員もいてくれるから、確かに止まれなくなってますね。けど、駆け足になる必要はないんじゃないかなって思ってます。自分でも気づいていない精神的な疲れがあると思うから、今年こそ家族で温泉に行きたいです」
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「大阪時代には戻りたくない」。そんな思いが、2人を掻き立てる - 筆者撮影
■目指すは「CoCo壱番屋の創業者夫婦」
取材の帰り際、「むすびカフェbettei」の庭で、裕士さんが昔を振り返るようにこんな話をしてくれた。
それは古民家カフェを立ち上げ、取材を受ける機会が増えた時のこと。調理を担当する咲子さんが料理の専門学校出身ではないことを、あるメディア関係者に「しょせん、主婦でしょ?」と軽く見られたことがあったという。彼女がひたむきに料理を作る姿を見てきた裕士さんにとって、それは耐えがたい「悔しさ」だったのかもしれない。
裕士さんは、夫婦で事業を全国展開させたCoCo壱番屋の創業者を例に挙げて、こう語った。
「だから僕、思うんですよ。CoCo壱番屋の夫婦みたいに、妻のチーズケーキでたくさんの人を笑顔にしていこうって」
今年1月、咲子さんはフランスの洋菓子専門店「ピエール・エルメ・パリ」のパティシエであるリシャール・ルデュ氏とウェディングケーキをコラボレーションしたそうだ。
「同じ厨房で一緒のケーキを作るなんて、ありがた過ぎました」と語る咲子さん。リシャール氏に触発され、新しいお菓子の商品の開発に力を入れ始めたそうだ。咲子さんは謙遜しながらこう語った。
「(自分たちの店は)ランチの店で『そこで出してるケーキが美味しいね』っていうぐらいでしたから。地元のケーキ屋さんに失礼がないようにと考えていたんです。でも、最近は『バスクチーズケーキの店』って言われるようになってきて、『もう(ケーキ屋って言っても)いいか!』って。だから、お店に並んでいるような商品も作ってみたいんです」
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田中さん夫妻。CoCo壱番屋の創業者のような夫婦を目指している - 筆者撮影
■広島の古民家で見つけた田中家の“幸せ”
今年で7歳になる娘のことねさんは、「将来、料理人かパティシエになって店を継ぐ」と話すと言う。そのことを話す咲子さんは、とても嬉しそうだった。
背水の陣で挑んだ三原市での起業。この町で、料理好きの咲子さんは、誰もが認める料理人とパティシエになった。そして、元俳優の裕士さんは、妻の作るケーキを全国に届ける社長になった。
「2人をここまで奮起させたのは、娘さんのおかげなのかもしれない」と思い、「お子さんが生まれて、変化がありましたか?」と聞いてみると、咲子さんが答えた。
「夫はさほど変わってないです(笑)。でも、私がすごく強くなった!」
すると、裕士さんがすかさず「いやいや、悪い意味でもな」とツッコミを入れた。
潮の香りがするこの町で、2人の笑い声が溶けていった。
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移住した広島の古民家で、田中さん家族は“幸せ”を手に入れた - 筆者撮影
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池田 アユリ(いけだ・あゆり)
インタビューライター
愛知県出身。大手ブライダル企業に4年勤め、学生時代に始めた社交ダンスで2013年にプロデビュー。2020年からライターとして執筆活動を展開。現在は奈良県で社交ダンスの講師をしながら、誰かを勇気づける文章を目指して取材を行う。『大阪の生活史』(筑摩書房)にて聞き手を担当。4人姉妹の長女で1児の母。
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(インタビューライター 池田 アユリ)