学生の「人」を見るのが三井式…かつて三井物産の面接では「牡蠣のベスト調理法」「大根の種をまく時期」が話題に
2025年4月14日(月)16時15分 プレジデント社
三井物産もオフィスを構えていた日本橋室町の三井本館(1929年開館)、東京都中央区、2023年 - 撮影=プレジデントオンライン編集部
※本稿は菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。
撮影=プレジデントオンライン編集部
三井物産もオフィスを構えていた日本橋室町の三井本館(1929年開館)、東京都中央区、2023年 - 撮影=プレジデントオンライン編集部
■三井物産社長を経てNHK会長となった池田芳蔵の「就活」
約90年前の三井物産の採用実態について述べていこう。
「1934(昭和9)年に慶応大学を卒業して三井物産に入社した矢野成典(元三井物産ロサンジェルス支店長)氏が以下のように述懐している(中略)
昔の商社は、採用した社員を次の4段階に分けているところが多かった。
①大学卒業生
②高商卒業生
③商業学校卒業生
④現地店採用」
(『三井物産人事政策史1876〜1931年』)。
本来ならば、この4分類に従って採用の実例を紹介したいところだが、③商業学校卒業生は見当たらなかったので、残りの3つについて見ていこう。
まず、①大学卒業生では、1936年に東京大学経済学部を卒業し、戦後に社長となった池田芳蔵(1911〜2001)の証言がある。
■東大生でも「10単位以上が優」という条件だった三井物産
「私が三井物産に入社したのは昭和十一(1936)年の春であった。此の年は丁度2・26事件の勃発で物情騒然であったが、卒業試験中の或る日、経済学部のアーケードに三井物産から十名位採用予定の表示が出た。優が十以上見当という条件のようなものがついていたが、どうやらその資格があったので、時の経済学部長、土方成美先生(女優・小沢真珠の曾祖父)に御相談したところ、M・B・K(三井物産株式会社)はN・Y・K(日本郵船株式会社)やY・S・B(横浜正金銀行。のちの東京銀行)と並んで日本が生んだ世界的な大会社だ。受けてみ給えと御賛成を得たので願書を提出することにした。
入社試験は型通り書類選考から始まって、人事係の人に依る面接があり、之等をパスした者達が経営の責任者である役員との最終的面接試験を受ける仕組みであった。当時井上治兵衛氏が取締役会長、代表取締役に田島繁治(繁二の誤り)氏、常務取締役が向井忠晴氏であったが、どうやらここ迄漕ぎつけた私が最初に面接した仁は田島氏であり、その次に、向井さんだったと記憶している。
田島さんは血色と色艶の良い顔をした紳士であり、話し振りも極めてビジネスライクで、主として私が専攻した学科の一つ外国為替問題について文字通り膝を交えるような貌での活発な質疑応答があった。そこへゆくと最後に会った向井さんは一寸感じが違っていた。役員室のドアを開けて私が這入ってゆくと、窓を背にして大きな机の向こうの椅子に埋まるようにして座っていた小柄な白皙の顔にキラリと光る眼がこちらを見た。窓から入る日光で逆光の所為もあったと思うが、その時私はこの人物の周辺からほのぼのとした光が立ち昇っているような気がした。何しろ五十年近い昔の話であるが、この事が鮮かに印象に残っている」
■面接では「赤門付近の飲み屋で食べた牡蠣にあたった」話を
「私が差し出して置いた身上調書を見ながら『君は腸チフスになったらしいが、原因は何だったのかネ?』と言うのが彼の発した第一の質問であった。私が『本郷赤門附近の飲み屋で酒の肴に喰べた酢牡蠣が原因でした』と答えたところ、『ウンそうか。だが牡蠣は酢牡蠣にして喰べるのが一番だよ』と言った丈で、面接は僅か五分で終わって了ったのであった。
(中略)こんな訳で、東大から入社試験を受けた十数名の内、採用された5〜6名の内に私は含まれる事になったのであるが、最初に配属されたのが何と人事課(今の人事部)であり、清水潔氏がその主任であった」(『向井忠晴追想録』。最後のカッコ書きは原文ママ)。
写真=iStock.com/ranmaru_
東京大学の赤門、2018年撮影 - 写真=iStock.com/ranmaru_
■大学、高等商業卒の公募採用でも、面接はかなりゆるかった
次いで、②高商卒業生の採用事例では、一般的な公募採用と縁故採用の事例がある。
公募採用では1928年に東京高商(現在の一橋大学)を卒業して三井物産に採用され、戦後、社長に就任した水上達三(1903〜89)の証言がある。
「私は、キリンビールへ行くつもりだったのです。陸上競技の関係で、明治屋の磯野長蔵さんの息子の計蔵君と親しかったものですから。ところが、ゼミナールの堀先生から三井物産を受けてみるようすすめられて、試験を受けたら採用になった。入社試験は、人事部長の田中文蔵さんの面接で、2回目は筆頭常務の安川雄之助さんの面接試験でした。
安川さんは、君は農家の出だねといって、『君、大根はいつ播(ま)くかね』と、こういきなりくるんですよ。それから、私も素直でないところがちょっとあるんで、『ときなし大根なんていうのは、だいたい真冬をのぞいたら、いつでも播きます』といったんです。どうも、それを知らなかったらしいね、先生は。それで、あとはなんにも聞かなかった」(『回顧録』)。
■コネ採用の人は、面接で聞かれることを教えてもらえた
縁故採用では、1930年に名古屋高商(名古屋大学経済学部の前身)を卒業し、三井物産に採用された乾豊彦(1907〜93)の証言がある。
「いよいよ就職となったが、別にどこに入るか決めたわけではなかった。長兄の(高橋)彦二郎が『三井物産にでも入るか』と聞くから『はあ』といったら、それで決まってしまった。しかし、三井物産に入ったことが、私の運命を決定づけたといっても過言ではない。(中略)
昭和五年といえば就職難の最中である。しかも学生の就職先で人気度の高いところといえば、日本銀行か三井物産といった時代のことだ。当然、実力では受かるわけがない。
父と長兄彦二郎が、三井物産の初代社長で当時は三井合名の相談役をしていた益田孝氏と茶道を通じて親しくしていたから、長兄が益田さんに私の就職を頼んだのだろう。名古屋支店に試験を受けに行けという。
『面接ではこんなことが聞かれる』とあらかじめ耳打ちされていたぐらいだから、口頭試問も形式的だった。名古屋高商からは私を含め三人が合格ということになった。(中略)その当時、私の初任給は五十八円だった」(『私の履歴書 経済人21』)。
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三井本館(1929年開館)、東京都中央区、2023年 - 撮影=プレジデントオンライン編集部
■帝大コースを捨てて実学を学び、大阪支店に入社した秀才
最後に、④現地店採用というと、海外現地法人・支店・出張所で、外国人を採用するように思われがちだが、国内支店——たとえば、大阪、門司等——による採用であるらしい。
現地店採用では意外に出世した人物が多く、安川雄之助がその代表である。安川は京都府の農家に生まれ、京都中学校から第三高等中学校(のちの第三高等学校、京都大学教養部の前身)に進んだ。しかし、同校の課目が商業実務に縁遠いことに不満を持ち、大阪商業学校に転校してしまう。第三高等中学校は帝大へのエリートコースなので、「友人達は『安川は気が狂ったのではないか』と陰口を利いたものである」(『三井物産筆頭常務 安川雄之助の生涯』。以下、引用は同書)。
しかし、安川は飛び級を重ねて1年半で卒業し、1889年に三井物産大阪支店に入社した。「入社当時最も辛くて、後々まで覚えていたのは、『あれは学校出だ』といって敬遠されたことである」と述懐している。
安川は「三井物産に入るについては別に何も伝手(つて)はなかった。当時は現在のように学校が就職の世話などするではなし、自らが銘々が勝手に職を探すので、自分は直接支店長に頼んで入れてもらったのであった。その頃三井では支店長といわず支配人といった。南一介という人が支配人であった。この人は最初弁護士であったが、三井に関係していたので中途から物産に入り、大阪支店支配人となったもので、自分はこの人に頼んで入れてもらったのである」。
■東レ社長になった田代茂樹は、専門学校から三井物産へ
この他に、1913年に明治専門学校(現・九州工業大学)を卒業して三井物産門司支店に採用され、戦後、東洋レーヨン(現・東レ)の社長に就任した田代茂樹(1890〜1981)の証言がある。
菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)
「卒業式も週日に迫った夕、五、六の同窓生と松本(健次郎。明治専門学校を設立した安川一族)邸を訪れた。松本先生にいつものように快く迎えていただいた。皆があいさつをしていすに腰をおろした。すると先生から一人、一人就職先をきかれた。私の番になって、『実はそれがまだ決まらずにいます』と答え、その事情を申し上げた。
すると先生は一瞬お考えになって、『そうか、いま思い出したが、先日三井物産の支店長が機械の卒業生がほしいと言っていたが、商社の希望者はいないだろうと返事をしておいた。今ならまだ間に合うだろう。紹介してあげるから、明日にでも行って見たまえ』と言われ、その場で紹介状を書いてくださった。
翌朝松本先生からお電話があった。『今日、門司へ行く用ができたので、三井の支店長に僕から話してやるよ』と聞いて、私は電話の前で深く頭をさげた。一両日後、門司に行って支店長の小林正直さんにお目にかかると、本店の手続きに多少の時日がかかるだろう、と言われただけで別に入社試験といったものはなかった。卒業式がすんで一週間もたたぬ日、三井物産から『見習いとして入社が決まった。即刻出社せよ』という通知状を自宅で受け取った」(『私の履歴書 経済人14』)
縁故採用や現地店採用を除くと、三井物産では書類選考、人事部長(もしくは次長)の面接、役員面接の三段階で採用を決めていたようだ。他財閥でよくみられる学校側の推薦は必須ではなかったらしい。また、面接自体は雑談に近いもので、それが三井物産らしさなのかも知れない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005〜06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)