日本はなぜ「敗者復活」を許さないのか…「世界のソース王」がピストル自殺未遂から億万長者になれた理由

2025年4月21日(月)7時16分 プレジデント社

母の味を再現したソースを売り、アメリカで大成功した吉田潤喜氏 - 写真提供=ヨシダグループ

アメリカで「ヨシダのグルメソース」旋風を巻き起こし、「世界のソース王」の異名を持つヨシダグループ会長・吉田潤喜氏。4度の倒産の危機に見舞われながらも年商250億円のグループに成長できたのは、業界の異端児だった会員制大型スーパー「コストコ」のおかげだったという——。(後編/全2回)
写真提供=ヨシダグループ
母の味を再現したソースを売り、アメリカで大成功した吉田潤喜氏 - 写真提供=ヨシダグループ

前編から続く)


■コストコ創業者との出会いは約40年前


「金儲けより、人儲け」とは、吉田がよく口にする言葉だ。人とのご縁を大切にして、相手に恩返しをする心が、仕事においても人生においても大事、という意味でこう言う。


ソース造りにかけた41年間に、「人儲け」で出会った人々は数多くいる。なかでも、吉田にとって、自分の人生を大きく導いてくれた「メンター」と呼ぶ人が、1人は母親、もう1人は最愛の妻リンダ。そして、コストコの創業者ジム・シネガルだ。


コストコの共同創設者兼元CEO、James Sinegal(写真=US Department of Labor/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ジム・シネガルがいなければ、世界のヨシダグルメソースは誕生しなかったという。


彼との出会いは1983年、コストコ2号店で吉田がへんな東洋人の売り子のスタイルで実演販売をしている時だった。


この頃のコストコは創業したばかりで、業界は会員制販売方式のコストコを異端児扱いしていた。その分、ヨシダフーズのようなローカル企業でも取引ができたのだ。


■ソースを売り込む「パッション」をべた褒め


カウボーイハットを被った吉田は「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」と声を掛け、集まった客に試食してもらう、という定番の実演販売をしていた。そこに、いつも試食だけして買わない客が来ていた。


この日も試食だけして立ち去ったため、客を駐車場まで追いかけ、「何個も食べていたのに買わない理由は味のせいなのか、何が悪いのか教えてほしい」と頼み込んだ。


味はおいしいと答えた客に、「1本サービスであげるから、1本買ってほしい」と食い下がると、根負けした客は店に戻って2本買ってくれた。この様子を一部始終見ていたのがジム・シネガルだった。


■「初志貫徹しろ」という一言が響いた


ジムは「すばらしい、パッションだ」と吉田をべた褒めし、「クレイジー・ヨシ」の愛称で呼ぶようになった。2人の長い付き合いが始まった。


数年後、急成長したコストコは、ヨシダのグルメソースを世界戦略に組み入れ、売れ行きに関係なく世界のコストコの棚に置いた。


写真=iStock.com/BING-JHEN HONG
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/BING-JHEN HONG

コストコが1999年に日本に進出する際も、ジムから「一緒に日本のマーケットに行くぞ」と誘われたが、吉田は日本進出で失敗に終わった過去があったため、最初はこの誘いを断ったという。


ヨシダのグルメソース(写真提供=ヨシダグループ)

「ジムに、日本へ進出するなら、ソースの味を日本人の味覚に合うように改良しないと無理だ、それが条件だと言ったんだ。そうしたら、ジムは『ノー! Stick with your principle.つまり、初志貫徹しろ。味は変えるな。世界のどこへ行っても今の味で勝負しないとダメだ』と僕を説得した。その言葉で、自分の後ろ向きの考えに気づいて、勝負せなアカンと思ったんや」


ジムの一言で、製造拠点をオレゴン州の1カ所だけに置き、世界共通のソースの味にする方針に転換したという。


そして、コストコと共にヨシダのグルメソースは海外市場へ進出していくが、経営危機という思わぬ落とし穴が吉田を待ち構えていた。


■ベンツを乗り回し「自分から堕ちた」


「ジェットコースターのような人生」が突如、吉田を襲う。


好調だった事業が赤字に急転し、倒産の危機に4度陥った。なかでも最もしんどかった時期が2度あったという。


1度目は1986年、会社設立から4年目のことだった。


起業2年目に売り上げが急伸したことで、倒産したソーダ工場の建物を借りて、新たな機械を導入し、スタッフを8人採用した。ラジオに1日3、4本の広告を流し、事業を一気に広げていった。私生活も、ベンツや当時最新の携帯電話も購入して派手になっていく。


ところがどんなにソースを売っても、売上が経費に追いつかず赤字が続いた。


支払いのため、ベンツも妻の車も売り、娘も転校させたが、資金繰りがうまくいかず、酒に逃げた。


「調子に乗っていた。一介の素人が、事業が危ないのに、見栄をはりたくてベンツに乗っていた。自分から堕ちたんや」


■どん底から救ってくれた義父の16万ドル


危機を乗り越えられたのは、義父のおかげだった。娘の結婚に大反対していた義父が、「お金に余裕ができたから、ぜひ息子のお前に使ってもらいたいんだ」と16万ドル(2400万円)の小切手を手渡してくれた。


息子と呼ばれるのも初めてだった。実は、このお金は30年間勤めて貯めた退職金を途中解約して作ったものだったと後で知る。「この人の恩に報いるために、絶対に立ち直る。そしてお金を全額必ず返すぞ」と奮起した。


この失敗をバネに、航空貨物輸送、水産ビジネスなど事業の多角化に着手、安定した財務体制を敷く。しかし、事業の多角化はここでも裏目に出る。1990年のバブル時代に「ゴルフ場+住宅街」の開発事業に手を出したのだ。


日本のビジネス仲間から億単位の資金が集まり、32万5千坪の土地を買収。土を掘り起こして芝生を植える作業も、ポートランドという土地柄雨がよく降るために一からやり直しになり、経費がかさんでいった。


運悪くバブル崩壊で出資者は次々事業から降り、残ったのは多額の負債とゴルフ場建設予定地だった。


■ある深夜、思わずピストルを手に取った


ゴルフ場の敷地内にある自宅の窓から芝生に降り注ぐ雨を見ながら、自死が頭をよぎる。夜中の3時、ピストルを手に取り、こめかみに当てた。20、10、5秒とカウントダウンしていくと、浮かぶのは家族の顔。そのうち、「何で死ななあかんのか。アホなことで悩んでるんちゃうか」と我に返ったという。


編集部撮影
吉田氏は成功者からの転落を何度も経験した - 編集部撮影

資金ショート寸前のところに、大手食品メーカーのオーナー経営者がゴルフ場を買い取ってくれ、危機を脱した。


勝負のここぞという時にいつも足をすくわれた。すくったのは他でもない自分だった。そして、そのたびに人に助けられてきた、と吉田は言う。


「どん底まで落ちて上がれたのは、人が手を差し伸べてくれたからだ。見栄は高い代償がつく。ゴルフ場なんて専門外なのに調子こいてしまった。どれだけ儲かっても、見栄は張らないことに決めたんや。ベンツに乗って銀座で遊ぶ社長の話を聞くと、『ほどほどにせいよ』と思うよ」


以来、クルマはプリウス、高級スーツも高級時計も持たない。


■アメリカでは杭を出さないと潰される


アメリカで資金ゼロから事業を起こし、「世界一の会社にするんや」とデカいことを言った、家族に「ホラ吹き」と呼ばれた日本人の男が、そのデカいことを現実のものにした。


アメリカで起業したからこそ、叶わない夢を実現することができたのか? 日本では無理なことだったのだろうかと聞くと、吉田は明快にこう答えた。


「アメリカでは、何度失敗しても起き上がることができる。自分が4回破産寸前になっても立ち上がることができた。失敗から立ち上がった者は拍手でたたえられる。そして、杭を出す者ばかりだ。杭を出さないと潰される。


ところが、日本はそれとは真逆の社会だ。杭を出したら打たれ、失敗したらそれで終わり。だから、挑戦することに臆病になる。もし私が日本にいたら、間違いなく『出る杭は打たれ』、うまくいかなかったはずだ」


写真提供=ヨシダグループ
アメリカのクッキングショーに出演する吉田氏 - 写真提供=ヨシダグループ

■75歳でマイナスからの再スタート


そして、アメリカでは、何歳になっても挑戦できると話す。吉田は今年75歳になり、ヨシダグルメソースの販売をゼロからやり直すというのだ。


会社の後継者がいなかったために2000年、一代で築いたこの事業を白紙にしようと、ライバルのハインツ社にアメリカ国内での販売権を売却した。ところが2024年、吉田の18歳の孫が事業を継承したいと言い出したことから、慌てて権利を買い戻したという。


ハインツ社は営業努力をしなかったために、グルメソースの販売網と販売本数は大幅に縮小していた。


こういうマイナスの状況をプラスに転じるためにエネルギーを注力するのは、吉田の持ち味だ。「コンチキショー、やってやる」で、初年度7月の売上はハインズのピーク時より倍増し、以前に近い数字に戻した。これからが勝負だ、と熱い思いを語る。


■日本の若者よ、「冒険心」を持て


今年3月、商談のために来日した吉田は、その前に立ち寄った韓国などアジアの国々と日本の若者の熱量の違いを感じたという。


「なんや、日本はとても静かだ。不満を抑えて『仕方がない』とあきらめて物を言わない社会に見える。リスクをすぐに考えて、行動しない。少しでも人と違うことをすると、バッシングされる。そういう社会は、いずれ危機的な状況に直面するはずだ。


若い人は、家で口を開けて、上司や先生、親からエサをもらうのを待つのでなく、『金魚鉢』の金魚のような日常から飛び出す必要がある。いつもと違う外の世界を見て、人生観を一変させろ、と言いたい」


編集部撮影
何度も敗者復活し、企業を大きくしていった吉田氏 - 編集部撮影

吉田のような反骨精神を持つことは、今の時代の日本では至難の業だと言うと、吉田はアメリカで成功した起業家5つの特性について語り始めた。


「5つの特性は、①好奇心、②柔軟性、③楽観性、④持続性、そして、最後は何だと思う? 僕が一番大切だと思うものだ。⑤冒険心だよ。これがなければ、何も始まらない。目指すもの、やりたいことを追い続けろ。冒険心でやりぬけ、それしかないよ」


これが、吉田から日本の若者へ送るエールだ。


(本文敬称略)


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吉田 潤喜(よしだ・じゅんき)
ヨシダグループ会長
1949年、京都市生まれ。19歳だった1969年に単身渡米し、空手道場経営のかたわら手づくりした「ヨシダソース」が大ヒット。現在、ヨシダソースインターナショナルほか、リゾートマンションや土地、アパート経営事業などを手掛けるヨシダグループ会長を務める。著書に『人生も商売も、出る杭うたれてなんぼやで。』(幻冬舎)、『無一文から億万長者となりアメリカンドリームをかなえたヨシダソース創業者ビジネス7つの法則』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など、望月俊孝との共著に『でっかく、生きろ。 世界をつかんだ男の「挑戦」と「恩返し」』(きずな出版)がある。
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(ヨシダグループ会長 吉田 潤喜 聞き手・構成=ライター・中沢弘子)

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