なぜ恵まれた環境で育った「二世俳優」は覚醒剤で逮捕されたのか…父・橋爪功に息子がずっと言えなかった本音
2025年4月22日(火)17時15分 プレジデント社
筆者撮影
筆者撮影
■実の父親のことを「橋爪さん」と呼ぶワケ
橋爪遼さんの父親は誰もが知る名優・橋爪功さん。取材中、父親について言及するときは、一貫して「橋爪さん」と呼ぶ。
「父を『橋爪さん』と呼ぶのは、俳優という仕事の世界では大先輩だからですね。たとえば同じ会社に勤める親子がいたとして、子どもが親を『お父さん』『お母さん』と会社で呼ぶことはないと思うんですよ。私にとっては、そういう感覚で『橋爪さん』と呼んでいます」
ややもすれば他人行儀にも聞こえる呼び方をする理由には、一定の説得力がある。とはいえ、話を聞いていると、心理的な距離感がまったくないわけでもないようだ。
「父は仕事で家にいないことも多く、学生時代も気軽に『パパこれやってよ』などと話しかけられる存在ではありませんでした。妹はわりと橋爪さんにも遠慮せず言っているなと思うんですが、私にとっては威厳のある父親でしたね。特に自分が中高生のときにすでに橋爪さんは50代でしたから、遠い存在に思えたのかもしれません。
学校でも、橋爪功についてはもちろんみんな知っているものの、別にアイドルではないので日頃から話題になるわけではないんですよ。ただ、小学校のときなどの参観日で訪れると、先生たちが丁寧な対応をするというか。そういう光景を見ていて、手の届かない存在だというのを勝手に内面化していったのかもしれません」
勝手に内面化——その言葉が示す通り、橋爪功さんは自らの威光をいたずらにかざすことはなかった。
■「手のかからない子」が考えていたこと
「同級生の父親に比べて少し年齢がいっていることと、テレビなどに出ていることを除けば、今考えると普通の父親だったと思います。特に偉そうに振る舞うこともないし、有名人だからといって『俺の顔に泥を塗るな』みたいな発言をされたこともないんです。
それでも、勝手に私のなかで『橋爪功の子どもだから、自分のなかの面倒くさい部分を出してはいけない』と思って自制して学生時代を過ごしていたなとは思います。『こんな発言をしたら』『こんなことをやったら』おかしなやつだと思われるんじゃないかという意識は常にあったと思います」
表面上、良い子を演じてきた幼少期。それは橋爪さんの母親の言葉からもよくわかる。
「母からは、『手のかからない子だった』と言われたことがあります。くわえて、『今のほうがよほど手がかかる』と」
橋爪さんは、幼稚園から名門・桐朋学園に入園し、小・中・高と過ごしたが、高校1年生で自主退学を選択している。中学2年生くらいから学校を“サボり”始めるが、そのサボタージュさえ文化的な香りが漂う。
■急に学校への興味を失った
「中2の頃、急速に学校への興味を失ってしまったんですよね。連動するように勉強への興味も失いました。中学受験で入ってきた子たちは高い偏差値を持つ子が揃っていましたが、それまではそれでも何とか成績を保てていました。でも興味を失ってからは、本当にどうでも良くなりました。
朝、『行ってきます』と出て、駅のトイレで私服に着替えて、1日中ずっと映画を見ていたこともありました。勉強に興味が持てなくなっても、映画には興味があったんでしょうね。学校へ行かないといっても、もちろん不良というジャンルの人間ではないので、そこで何か悪さをしたりもありませんでした。
それに完全な不登校ではなくて、自分の好きな科目のある曜日には、授業に顔を出したりしていました。通うという意識じゃなくて、顔を出したいときに出す感じです」
写真=iStock.com/LeMusique
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/LeMusique
それまで所属していた吹奏楽部も、そのころにはもう幽霊部員になっていた。だが学校に居場所がないわけではない。
「もともと吹奏楽部ではなくて、弓道部に入りたかったんですが、なかったんですよ。武道はやりたいんだけど、勝負事が嫌いな性格なので、己との戦いである弓道ならやってみたいなと思って。ピアノは上達しないながらずっと続けていたので、音楽系の部活で選びました。あまり干渉しない橋爪さんも、『ピアノだけはやめるな』と言っていたくらいです。
でもその吹奏楽部さえ幽霊部員になってからは、同じような境遇の“放課後同盟”みたいな仲間がいたりして。それはそれで居心地は悪くなかったですけどね」
■なぜ薬物に手を出したのか
高校生になると、橋爪さんは自主退学をし、通信制の高校へ編入をした。当時をこう振り返る。
「自分のなかに『こんなに学校へ行かない人間が大学へ進学すべきではないのではないか』という考えがありました。当時の私は完全に学業への熱が冷めてしまっていた。退学という選択について、両親は特に反対はしませんでした。ただ、『高卒の資格は得てね』と。だから通信制の学校を選んだんです」
同時に、俳優業をやっていこうという決意が固まったのだという。
「役者の世界に魅了されて、この道で生きていきたいなと思うようになりました。20代前半くらいまでは、順調な役者人生だったと思います。その反面、20代中盤以降は、以前なら同じような格だった俳優たちがどんどん売れていくことに焦るようにもなりました」
肩を並べていた同業者の出世、偉大な父親の二世であることの重圧。橋爪さんが薬物に手を出したのは、そうした閉塞感からくるのではないか。だが彼はあくまで冷静に、フラットな目であの頃を見ている。
「そういう側面がまったくないかと言えば、あるのかもしれません。けれども、本当にそれだけが理由なのかは自分でもよくわからないというのが正直なところなんです」
■合法ドラッグ→覚醒剤
「2017年6月2日、埼玉県にある友人宅で一緒に覚醒剤を使用しているところに警察が踏み込んできて、私は現行犯逮捕をされました。しかも、警察は私をマークしていたわけではなかったようです。
覚醒剤の使用はそれ自体が罪ですが、私はいわゆる“ポン中”ではないと当時は思っていました。使用頻度もそこまで多いわけではなく、変な話ですが、『仕事の前だからクスリはやめよう』といった自制ができていたんです。
現実がうまくいっていないからクスリに逃避したといえば、物語として自分も他人も納得させやすいんですが、それだけではないのだと思います」
実際、覚醒剤の使用はどの程度だったのか。5年近くにわたる使用歴について、橋爪さんはこう振り返る。
「最初は合法ドラッグから始めて、覚せい剤に手を出しました。初めて覚せい剤を使用したときから注射を使ったので、炙りはやってないんですよ。頻度はおおよそ、1カ月に一度程度だったと思います。ただ、1年間まったく使用しないこともありましたし、平均化できないんですよね。連日の使用をしたこともありません。
それは、私が自分で覚醒剤を供給していたのではなくて、持っている人にもらう立場だったことと関係するかもしれません」
図表=プレジデントオンライン編集部作成
■今でも忘れられない母親の顔
一般的に覚醒剤を使用すれば、人間関係などにも変化が生じるのではないかと考えられる。だが橋爪さんは「あくまで私の場合は」と前置きして、かぶりを振る。
「急に凶暴化して暴れるなどの行動もありませんでしたし、覚醒剤によって人間関係が壊れることもありませんでした。ただ、クスリは“元気の前借り”ですから、翌日にだるさがあってお誘いを断ることは数回ありました。でも本当にそれくらいだったと思います。だからこそ、薬物は怖いですよね」
そうした意味では、本当の意味で人間関係に変化をもたらしたのは逮捕という事実だともいえる。橋爪さんは、留置所で見た母親の顔を今でも忘れられないと振り返る。
「クリアガラスのポツポツの向こうに見る母親の顔、あれはもう一生見たくないですね。母は泣きながら、『これから弁護士さんや依存症回復支援施設の方が入ってくるから、その人たちの言うことをよく聞いて』と言っていました。本当に大切な人を悲しませるってこういうことなんだなと実感しました」
写真=iStock.com/yamasan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yamasan
■「こいつらより、自分は全然セーフ」
逮捕後の裁判で判示された判決は懲役1年6カ月、執行猶予3年。橋爪さんは、判決を待たずに2017年7月5日に保釈されている。その後、奈良県にあるワンネス財団の依存症回復支援施設に入所する。釈放後の3年間をここで過ごすことになる。
だが、「手のかからない子」といわしめた“優等生”の外面が頭をもたげてくる。
「先ほどもお話したように、当時の私は自分を依存症患者だと認めていないため、『ここにいる人たちよりは絶対に自分のほうが引き返せるところにいる』と思い込んでいました。『こいつらより、自分は全然セーフ』と内心では悪態をついていた。
施設では、自分の内面について吐露する取り組みがあるんですが、これにも当初は冷笑的で、『絶対に心のうちなんてしゃべるものか』と思ってましたね。そのくせ、何かあれば優等生の顔をして引き受けて、頼られることも多かったんです。本当の自分は面倒くさがりで、幼稚な人間なのに、施設でもまたこれまでと同じような外面でやり過ごそうとしていました」
ところが橋爪さんのメッキは徐々に剥がれていった。
「施設では、新しく入ってきた人の教育係のような当番があります。ビッグブラザーという役割なのですが、通常はこれを3回くらい経験します。ところが、私だけは10回以上任されたんです。人の面倒を見るのは、思いの外しんどくて、心底嫌気が指しました。とうとう爆発して、施設のスタッフと衝突するなど、自分の醜い部分が露呈したんですよね」
■隠してきた本音
「あわせて、同年代の依存症の子たちが必死に頑張る姿を目の前でみたことも、本来の自分を出せるきっかけになりました。当初は自分のことをさらけ出せずにいましたが、彼らと仲良くなるうちに、『自分も変わりたい』という方向へシフトしました」
今と昔で変わったことがあると橋爪さんは言う。
「人格的に成長したとか、そんなことはまったくありません。でも、昔よりも『嫌だ』『だるい』と本当の気持ちを言えるようになりました。やっぱり、『橋爪功の息子だから、自分が変な人間だと思われたら橋爪さんに申し訳ない』という思いがどこかにあって、本音を隠して生きてきたのかもしれません」
施設入所中、短期間だけ東京の実家へ戻ったこともあったと橋爪さんは言う。
「逮捕以来、初めて父に会いました。本当に普通の親子のような言葉を交わしました。『おう、元気か』みたいなことを言っていたと思います。停止していた日常が再び動き出していくのを感じました。お世話になっている施設長さんもついてきてくれて父といろいろお話をしていたのが印象的でした」
俳優業を再開するという選択をした橋爪さん。実際のところ、最も気苦労をかけてきた母親はどのように思っているのだろうか。
■子どもとしてできること
「両親はいい意味で放任主義で、私のやりたいことを制限するようなことはしません。ただ、役者をまたやるといったとき、母は『本当はきちんとした会社員などをやってほしかったけど、私たちにはあなたの欲求を止めることはできないから』というようなことを言っていたと思います。
誘惑の多い世界でもありますので、心配なのだろうと思います。けれども、仕事ぶりを見せることでその心配をこれから払拭していくことが、子どもとしてできることなのかなとも思います」
今後の活動について、橋爪さんはこんな展望を描く。
「ありがたいことに、映画『アディクトを待ちながら』への出演のように、薬物への啓発を担う作品への参加をさせていただいています。非常に意義のあることだと感じて、協力をさせていただきました。
私としては、あくまで純粋な俳優として歩みを進められたらと思っています。『こんな仕事をする俳優』と自分を規定するのではなく、心が赴くままに俳優業をしていけたらと考えているんです。もちろん、自分が陥った薬物依存症について世間に啓発することは大切であり、これからも参加させていただくと思います。ただ、その枠を超えて、いつか多くの人に届く作品に参加できたらと考えています」
自分で自分を定義しないというのは、存外大切なことかもしれない。大御所俳優の息子だから、名門校の生徒だから、二世俳優だから——。外野が自分を決めつける要因が多いほど、人は目立たずに印象を残さない方法を探る。その心のうちでふつふつと燃えたぎる不満。もはやそれが何への苛立ちなのかさえわからず、日常から必死でエスケープする。
ものわかりのいい、立派な人になろうとしなくていい。いい意味での開き直りが、止まっていた俳優・橋爪遼の時間を少しずつ動かしていく。
----------
黒島 暁生(くろしま・あき)
ライター、エッセイスト
可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。
----------
(ライター、エッセイスト 黒島 暁生)