もはや、あの佐野眞一ではなかった…2人のデータマンが見た「ノンフィクションの巨人」最後の日々

2025年5月15日(木)16時15分 プレジデント社

ノンフィクション作家・佐野眞一氏。1947年1月29日―2022年9月26日 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

2022年9月、75歳で病死した「ノンフィクションの巨人」佐野眞一氏。『巨怪伝』(正力松太郎)、『カリスマ』(中内功)など戦後日本を形成した巨人たちの評伝や、ベストセラー『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』など、ノンフィクションの名作、大作の数々を残した佐野眞一氏の足跡を、かつて佐野氏のデータマンでもあったノンフィクションライターの安田浩一氏がたどる——。
写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局
ノンフィクション作家・佐野眞一氏。1947年1月29日—2022年9月26日 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

■紙の海と紙の山に囲まれて


久しぶりに彼の家を訪ねた。昨年末のことだ。


玄関のドアを開けると紙の匂いがした。雑然としていた。華やかなものが一切ない部屋の中は、古い写真の印画を見ているような気持ちにもなった。


整理を諦めたらしい新聞は、紙面を開いたまま床の上に広がっていた。本や雑誌が各所で小さな山をつくっている。大量の受注がありながら、作業が全く進まない印刷工場のようでもある。


彼——佐藤齋(ひとし)さん(71歳)は、紙の海と紙の山に囲まれて暮らしている。一応、座卓の上にノートパソコンは置いてあったが、長く触れてもいないことは、薄い埃の膜に包まれた天板を見ても明らかだった。


「最近は(パソコンに)火を入れていない」と言う。そうした物言いも含め、相変わらず“紙の国”に君臨する佐藤さんを、私はただただ愛おしく感じた。


「最近、ますます食欲がなくなってきたんですよ。酒も控えるようになりました」


もう20年以上の付き合いになるのに、佐藤さんは年下の私にいつも敬語で話しかける。いや、たとえ10代の学生であろうとも、相手を「さん付け」で呼び、敬語で通すのが佐藤さんという人間だ。ここまで腰が低い人を私は他に知らない。


どこか緩慢な動きは年齢にふさわしいものだろうが、会うたびに痩せていく佐藤さんの姿は、少し痛々しくも感じられた。もともと、食に対するこだわりのない人だった。好きな日本酒さえあれば、小皿に盛った塩だけで何時間も飲み続けることができる。肉や魚に興味を示さず、「野菜だけは取らないとね」と言いながら、ときおり、薬でも飲むようにトマトや漬物を義務的に胃袋へ流し込むのが、酒場における佐藤さんの作法だ。そんな生活を続けていれば、年々痩せていくのは当然かもしれない。


佐藤さんは、私が尊敬するライターだ。いや、尊敬できるライターなんて何人もいるが、頭が下がるライターは、そう多くもない。佐藤さんはその一人だ。いまは生活のために書き仕事から離れ、警備員の仕事に追われているとはいえ、私にとってはかけがえのない先輩ライターであることに変わりはない。


世間的には無名に等しく、単著があるわけでもないが、私はこの人から多くを教わってきた。特に近現代史における知識と、関連書籍の読書量は図抜けており、半端ない調査能力にはいつも舌を巻くしかなかった。佐藤さんが書いた手書きの原稿に目を通すたび、私は背筋を伸ばした。原稿用紙を埋める端正な字面は、佐藤さんの性格そのものだった。それがどんな内容であったとしても、歴史に残る貴重な古文書にも見えた。


実は、そんな佐藤さんがいなければ、私はいま、こうしてノンフィクションライターの仕事を続けていたかどうかもわからない。逆に言えば、引き返すことのできないぬかるんだ道に、私を引き込んだ張本人でもある。


■人生の退路を塞いだ二人の“佐の字”


私と佐野眞一さんを繋いでくれたのも、佐藤さんだった。佐野さんについて書くのであれば、佐藤さんの存在に触れないわけにはいかないのだ。


佐藤さんと佐野さん。この二人の“佐の字”は、私に様々な影響を与え、引っかき回し、私の人生の退路を塞いだ。


写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

「よく3人で一緒に飲みましたよねえ」


佐藤さんは、佐野さんを交えた飲み会の話を楽しそうに話す。思い出話に浸るのは、私たちが年を取った証拠でもある。


そう、確かに一時期、私たちはしょっちゅう酒場で会っていた。佐野さんがまだ元気なころだ。


夕方、佐野さんから携帯電話に連絡が入る。


「いま、佐藤君と一緒なんだ。安田君もどうだい?」


私を誘う時は、必ずと言ってよいほど佐藤さんも一緒だった。佐野さんは佐藤さんのことが大好きだった。まずは佐藤さんを手元に置いてから、私に声をかける。その順番が狂ったことはないように思う。


私は誘われるたびに、喜んで飛んで行った。社交が苦手で、人付き合いが苦痛で、おまけに酒にも弱い私はいまでも酒席を避けてばかりいるが、それでもこの二人と一緒に酒場で過ごす時間が好きだった。佐藤さんと佐野さんが冗談を交わしたり、ときに激しく議論するのを、私は適当に相槌を打ちながら、時に無視しながら、好きなものを注文して好きなだけ食べた。博覧強記の二人が交わす冗談も、議論も、口論も、私にとっては心地よいBGMに過ぎなかった。


豪放磊落に見られることの多かった佐野さんだが、実は気遣いの人でもあった。私の“社交嫌い”を知っていた。だから、大勢の人が同席する場へ無理に私を誘う事はなかった。それが私に対する佐野さんの気配りだった。かといって、佐野さんと二人きりで酒を飲む機会が多かったわけでもない。私相手の“サシ飲み”では窮屈だったのだろう。あるいは退屈だったのかもしれない。私に大事な話があるときも、仮に私の顔が見たくなったとしても、そこに佐藤さんの存在は不可欠だったのだ。


“佐野スクール”の劣等生だった私は、佐藤さんが加わることで、ようやく飲み相手として認められていたのだとも思う。


■いつものどじょう料理店で


あの日も、私は二人と一緒だった。


2021年の冬。佐野さんが亡くなる1年半ほど前のことだ。場所は浅草のどじょう料理店だった。佐野さんはこの店をえらく気に入っていた。それまでも3人で何度か訪れたことがある。


その頃、3人で顔を合わせる機会は減っていた。久しぶりの会食だった。誘いの手順は変わっていなかった。いつものように佐野さんは佐藤さんに声をかけ、その後、私に「佐藤君も交えてメシでも食わないかい?」と電話をくれた。


声に張りがなかった。まだ立ち直ってはいないのだなあと感じた。


後に詳述することになる『週刊朝日』連載記事をめぐる一件(いわゆる差別記事事件)と、そこから派生した様々な“佐野眞一批判”は、当の本人を消耗させると同時に、佐野さんの周囲にいた人たちが離れていくきっかけにもなっていた。


私も佐野さんに対して、どこかうしろめたい気持ちがあった。ずっと慕ってはいたけれど、「事件」に関しては到底、佐野さんを弁護する気にはなれず、批判の記事を書いてもいた。差別問題を追い続けている私としては、人間関係を優先して「事件」を無視するわけにはいかなかったのだ。


それだけに、佐野さんが声をかけてくれたのは嬉しかった。


通いなれたどじょう料理店で、私たちはいつものように名物の柳川鍋を囲み、ビールを注ぎ合い、それぞれの近況を話した。そして共通の知人である記者や編集者の失態、メディアの惨状、さらには日本政府のバカさ加減を嘆いた。自分たちのことはひとまず棚に上げ、世を憂うのは、これまでにも酒が入るたびに繰り返されてきた我々の作法みたいなものだった。


だが——いつもと違ったのは、会話の中に以前のような“熱”がなかったことだ。佐野さんにも、佐藤さんにも、そして私にも。


酒は進み、どじょうは跡形もなく胃袋の中に消えたのに、誰かが吐き出した話題はいつのまにか揮発し、会話の接ぎ穂が消え、寄る辺を失くす。


要するに、盛り上がらなかった。


■「機会」は二度と訪れなかった


盛り上がるわけもなかった。佐野さんはまだ、“事件”の後遺症が消えていなかった。佐藤さんはライター稼業から離れており、夜勤が続く中で疲れきっていた。私は私で、目途の付かない取材に追われ、先行きも見えず、不安と焦燥の中にいた(いまもそうだが)。誰もが鬱々としたものを抱え、解決できない問題に苦しんでいた。酒は私たちの苦痛を和らげるものとはならず、不安を増幅させるだけの毒薬でしかなかった。それ以上に、私のうしろめたさと、それぞれが感じ始めていた“距離感”が、微妙に居心地の悪い空気を醸し出していた。


佐野さんは酔うのも早かった。ビールを日本酒に切り替えたあとは、ときおり舟をこぎ出した。


頃合いを見て、私たちは店を出た。支払いだけは、しっかり佐野さんに任せた。以前のように2件目に行こうとは誰も言わなかった。もはや体力的な限界にあることは、佐野さんのよろけた足取りが示していた。私と佐藤さんは、佐野さんを浅草駅の改札まで見送った。佐野さんは左右に軽くよろけながら、それでも片手を上げて「じゃあな」と地下ホームに消えて行った。


よろよろとおぼつかない足取りで、佐野さんは人生の終幕に向かって歩き始めた。


残された私と佐藤さんは、浅草の路上で、しばらく立ち話をした。


「ブルドーザーみたいな人だったのに、すっかり弱ってしまいましたね」


佐藤さんの言葉に、私は頷いた。


酒も弱くなった。言葉に力強さもない。どんなことも断定的に論じ、批判を許さず、強引に壁をぶち壊しながら前に進むような佐野さんは、もはやいなかった。


私たちは路地裏の暗がりの中でこそこそとタバコを吸いながら、何度もため息を繰り返した。


「こうした機会も減るかもしれませんね」と佐藤さんがつぶやいた。


その通りになった。正確には「機会」は二度と訪れなかった。


佐野さんと酒食を共にしたのは、そして、立っている佐野さんを見たのも、その日が最後となってしまったのだ。


■一流のデータマン


「最初はイヤな野郎だなあと思ったんですよ」


紙に埋もれた部屋で、佐藤さんは佐野さんと出会った頃を振り返った。


「以前の佐野さんって、酒場で若い人にネチネチと説教したり、まあ、なんていうか、いびるようなことしていたじゃないですか。それが気に入らなくて。思わず怒鳴り返したこともあったんだけど、なぜか気に入られて、結局は長い付き合いになってしまいましたねえ」


写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局
佐野眞一氏の著作の数々。75年の生涯に60冊余の著作を遺した。 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

90年代の初めだった。佐藤さんはその頃、月刊誌『文藝春秋』、『週刊文春』などでフリーの記者として働いていた。


『週刊文春』で佐野さんがリクルート事件に関する連載を始めることとなり、同誌編集部から「取材を手伝ってほしい」と依頼されたのであった。


もともとは「本を読むことだけが好きな普通の青年」だったという。生まれ故郷の岡山県では、書店や古書店に入り浸るような生活を高校卒業まで続けた。その後、東京都内の大学に進学、卒業後は美術書などを刊行する出版社に編集者として入社した。10人ほどの社員しかいない小さな出版社だった。好きな本に関わることができるというだけで嬉しかったが、わずか数カ月で退職したのはワンマン社長の独断専行に嫌気がさしたからだった。


「社長の姓が佐藤で、その息子も社員でした。私が入社したことで佐藤姓が3人となったんです。すると社長から『ウチの会社に佐藤は3人も要らない。姓を加藤に変えてくれ。キミは今日から加藤齋と名乗ってくれ』と頼まれたんです。バカバカしくなってすぐに辞めました」


以降、いくつかの出版社でフリーの記者として働いた。


ちなみに、佐藤さんには「ジャーナリスト志向」はなかった。


「ぼくは自分の器というものを昔から理解していたんです。特ダネを探し当てるようなジャーナリスト的な力量はない。だから無署名ライターとして、記事に必要な素材をかき集める。そうした仕事をずっと引き受けてきたんです」


いわゆる「データマン」である。これは雑誌業界で用いられる呼称だが、字句通り、取材や資料収集を専門に担当し、記事の基となるデータ原稿を作成する記者のことだ。


最近ではほとんど見ることはできなくなったが、かつて大手出版社は多くのデータマンを抱えていた。著名作家やジャーナリストが記事や書籍を執筆する際、これらデータマンが執筆者とともに取材を分担し(つまり手足となり)、“作品”がつくられていた。著名作家の影に隠れ、けっして陽の当たる存在ではないが、作品の質を左右させる重要な役柄ではあった。当時のノンフィクション系の作家にとって、優秀なデータマンを確保できるかどうかは、作品の成否にかかわる大事な問題でもあったのだ。


■「佐野さんの仕事を手伝ってほしい」


佐藤さんが得意としていたのは近現代史の分野、あるいは記事に必要な人物の成育歴に合わせた時代背景の調査である。


国会図書館、専門図書館、各種の資料館や研究所に日参し、記録の山から必要な資料を入手する。けっして簡単な作業ではない。どこにどんな資料が保管されているのか、といった基礎知識が必要であることはもちろん、手にした資料から時代を読み解き、その重要性を判断しなくてはならない。勘と読解力、自身が抱える情報量が問われる。佐藤さんはそうした難作業をこなすには十分な素質を持っていた。


写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局
小社刊『だれが「本」を殺すのか 延長戦』のためのレジュメと思われる。 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

たとえば初めて佐野さんと出会うことになったリクルート事件の連載でも、佐藤さんは事件そのものではなく、創業者・江副浩正の成育歴調査を担当した。単に人生を追いかけるだけでなく、その時々に応じた日本社会の風景、事件や風俗などをきっちり調べ上げた。そうすることで、時代にもまれ、上昇し、下降した、江副という人間の野心も情熱も浮かび上がる。単色でしかなかった人物像に色彩が加えられる。それが佐藤さんの役割だった。


その仕事ぶりは佐野さんに高く評価され、以後、専属のような形で佐野作品には欠かすことのできないデータマンとして業界でも認知されるようになった。


「佐藤君に任せれば安心なんだ。いちいち説明しなくても心得ているからな」


佐野さんが、そう話していたのを私はよく覚えている。


一流のデータマンである佐藤さんが、突然、私に電話してきたのは2003年の春ごろだった。


佐野さんの仕事を手伝ってほしい。一度、佐野さんに会ってもらえないか。


そんなことを言われたように記憶している。


佐藤さんとは面識があった。何度か同じ媒体で仕事もしている。だが、それほど深い付き合いをしていたわけでもなく、正直、戸惑った。「まあ、(佐野さんに)会うくらいならば」と、私は曖昧な言葉を佐藤さんに返したのではなかったか。少なくとも、あまり乗り気にならなかったことは確かだ。というのも、私はその頃、記者としての情熱を失いかけていた。


■撤退の道を模索していた毎日


私は90年代初めからスキャンダルとお色気記事で知られた週刊誌『週刊宝石』(光文社)の契約記者を務めていたが、2001年に同誌の廃刊が決まり、それからは様々な雑誌で取材記者を請け負いながら、細々とライター稼業を続けていた。


私はけっして「デキる」記者ではなかった。実用、グラビア、海外ルポ、経済、各種事件など様々な分野を担当したが、特に何かに秀でていたわけではなかった。特ダネを取ったこともない。『週刊宝石』廃刊直前、数人の契約記者をかき集めて記者労組を結成し、退職金を勝ち取ったことだけが唯一の“実績”という、版元からすればすこぶる危なっかしい使い勝手の悪いライターでもあった。


私は「退職金」と引き換えに光文社を離れた。同誌はしばらくして誌名や版型を変え、新たなビジネス週刊誌として再出発した。その際、『週刊宝石』の元記者たちの多くが会社に呼び戻されたが、私に声はかからなかった。会社に対していつもケンカ腰だった私が目障りだったか、単に記者としての実力不足から「戦力外」と判断されたのか、あるいはその両方が理由だったのか。


いずれにせよ、私は必要とされなかったことで、盛り場の流しのように、媒体を渡り歩くしかなかった。


需要は自分でつくるしかない。仕事を得るために、言葉を無理やり強奪する取材を繰り返していた。工事現場の見回りを装うため作業服を着て自転車にまたがり、取材対象者の自宅前で張り込み、ドアが開いた瞬間に突進するという質(たち)の悪い刑事のまねごとのようなことばかりしていた。しかも多くの場合、何の収穫もなく「○○は取材に応じることなく無言を通した」みたいな、どうしようもない記事しか書くことができなかった。


正直、そんな生活に疲れていた。飽き飽きしていた。倦怠と絶望に襲われながら、撤退の道を模索していた。いったい、自分は何をしてるんだろう。社会に問題提起するとか、権力や大資本を追い詰めるとか、それなりの青臭い目的があって週刊誌記者となったのに、しかも「自由」を求めてフリーランスとなったのに、主体性を失い「不自由」の度合いは増すばかりだった。


こんな仕事は向いていないんじゃないかと思った。作業服を着たまま、取材経費で落とした新品のママチャリを漕いで、誰も知らない遠くの町へ行ってしまおうかと真剣に考えた。まだそのくらいの若さは持ち合わせていたはずだった。


まさにそんなとき、ライター稼業からの足抜けを考えていた真っ最中に、私は佐藤さんから「佐野さんと会ってほしい」と電話で伝えられたのである。乗り気にならなかったのは当然だった。帰宅途中に突然、急ぎの仕事を任されたようなものだ。面倒で仕方なかった。


その数日後、とりあえず佐野さんの顔だけでも拝んでおくかという気持ちで、私は指定された帝国ホテルのラウンジに向かった。


■「あなたが優秀な記者だってことは佐藤君から聞いている」


私がホテルに到着した時、佐野さんはラウンジで編集者と打ち合わせ中だった。別のテーブルで待っていてくれと言われ、私は打ち合わせが終わるのを持った。しばらくすると、編集者は佐野さんに深々と頭を下げ、横のテーブルでコーヒーを飲んでいた私に「すみません、終わりましたのでどうぞ」と自分の席を譲った。ちなみにこの日、私との話が終わった後も、別の編集者が同じ場所まで来た。佐野さんはその場所を動かず、訪問者だけが次々と入れ替わる。帝国ホテルという舞台装置も相まって、その“大物感”に私は圧倒された。そんなフリーライターなど見たこともなかった。


私は佐野さんとの挨拶を済ませると、記者時代にコメントを求めたことがあると告げた(98年の夏頃、大手スーパー・ダイエーの経営危機について、佐野さんに電話取材をしたことがあった)。佐野さんは「そうか、そうでしたよね」と口にはしていたが、たぶん、私のことなど何の記憶にも残っていなかったように思う。そんな昔話は時間の無駄だと言わんばかりに、佐野さんはすぐに本題に切り替えた。


今度、『週刊新潮』(新潮社)で、旧満州(中国東北部)で暗躍した麻薬王(里見甫)に関するノンフィクションを連載することになった。単行本化も計画されており、かなりの大作になりそうだ。ついては、データマンとして取材を手伝ってもらえないか。佐藤さんも一緒だ。連載中の収入は保証する。


そんなことを一気に話し、「ぜひ、頼む。あなたが優秀な記者だってことは佐藤君から聞いている」のだと何度も繰り返した。


佐藤さん、いいかげんなことを言いすぎる。正直、断ることのできる雰囲気ではなかった。佐野さんは強引に話を進めていく。私の意志など、何も関心がなかったのだろう。まるで圧迫面接だと思いながらも、佐野さんが話す新連載のアウトラインは興味深かった。


実は、私も旧満州に興味がないわけではなかった。記者時代に特集記事を書いたこともあり、付け焼き刃程度の知識はあった。


私は佐野さんに満州について問われた際、「傀儡国家であり、許し難い日本の植民地政策のひとつであり、しかし日本にとっては“戦後”の社会モデルにもなった」と話した。具体的には?と聞かれ、私は「たとえば新幹線と団地」と答えた。


佐野さんはこれに上機嫌で反応し、「その通りなんだよ!」と上ずった声をあげた。おそらく、私を同じ理解を持った同志のように感じてくれたのかもしれない。


だが——いまだから打ち明けるが、私が口にしたのは借り物の言葉だった。記者時代に満州特集を手がけた際、キャップ格の先輩記者が何度も口にしていた言葉が、私に刷り込まれていただけだった。


そうとも知らずに佐野さんは私を勝手に評価し、一緒に仕事してくれと懇願したのだ。


結局、私はその場で「引き受けます」と応じるしかなかった。佐野さんは「じゃあ、よろしく頼むよ」と言いながら、私の手を強く握った。


経緯はともかく、大物ノンフィクション作家に仕事を依頼されたことも、正直、嬉しくないわけではなかった。しかも、取材スタッフのなかには、名うてのデータマンとして知られる佐藤さんもいる。そのうえ提示されたギャラも悪くはなかった。


こうして私は佐野さんのデータマンとなったのである。それから10年近く、私は佐藤さんと一緒に、濃淡に差はあれど“佐野作品”に関わることになった。


■「僕らが得た物って何だったんでしょう」


ねえ、佐藤さん。佐野さんと付き合ってきて、僕らが得た物って何だったんでしょう。


私の問いに、佐藤さんは「う〜ん」としばらく考え込んだ。


写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局
「9・11アメリカ同時多発テロ」直後にニューヨークに入り、現地取材。 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

紙に囲まれた佐藤さんの家から、私たちは近くの居酒屋に河岸を変えていた。「酒は控えている」「やめたに等しい」などと言っておきながら、佐藤さんは焼酎のお湯割りを何度もお代わりしていた。佐藤さんに言わせると、「酒」というのはあくまでも日本酒のことであって、焼酎はその範囲に含まれないらしい。


相変わらずツマミの類には興味を示さず、トマトのスライスだけに、かろうじて箸をつけていた。その代わり、コロッケだの唐揚げだの、やたら腹持ちの良いものを次から次へと注文し、「若いんだからしっかり食べなくちゃね」とそれらを全部私に押し付けた。私、全然「若く」ないのに。


少し考えこんだ佐藤さんは、「安田さんはどうかわからないけど」と前置いてから、こう話した。


「佐野さんから得たもの、というか、感じたこと。それは、自分自身に対する諦めみたいなものですかねえ」


意味がよく理解できずにきょとんとする私に向けて、佐藤さんはさらに続ける。


「佐野さんと付き合ってきて、この人には絶対にかなわないなあという思いだけがどんどん強くなったんです。すごい人だったと思いますよ。観察眼、勘の鋭さ、頭の回転から複雑な思考回路、そして筆力。どれもが太刀打ちできない。ほら、あの人、どんなつまらない人間でも、どこか引っかかるものを見つけたら、とたんに魅力的な人間に仕立て上げてしまう強引さがあるじゃないですか。なんか、独特の琴線があったんだと思いますね。ぼくにはマネできないし、マネしたところで、佐野さんの筆力には追い付かない」


確かに、それは言えている。佐野さんは、人間の業を引き出すのが上手い人だった。


「だからね、ぼくも本当はノンフィクションライターとしてやっていきたいと思っていた時期もあったけれど、佐野さんを見ていると、そんな気にはなれなかった。とてもじゃないが、かなわないと思った。だからぼくは、ノンフィクションライターになるのは来世でいいや、とも思ったんです。いまの人生は物書きの修行に費やすんだと、そう決意したんです」


そういうことなのかと、いまになって佐藤さんの本音に接しながら、一方でいまでもライターにしがみついている自分自身の姿を思った。


佐野さんに憧れながら、背中を追いかけながら、ときに批判もしながら、私は独立したノンフィクションライターの道を進んだ。佐野さんを越えることなど、とうていできていないのに。


そんな私のことを、私が書いてきたものを、佐藤さんはどう思っているのだろうと気になったが、訊ねるのがこわくて、やめた。


■もう一軒、そこがダメならもう一軒


私たちは佐野さんが残した様々な記憶を繙(ひもと)いては、それをサカナに飲み続けた。


私と佐藤さんの中で生き続ける佐野さんの姿は美しい。そう、あの「事件」と晩年の姿だけは切り離して、思い出話に浸った。


一時期、私たちはいつも一緒だった。


都心の雑踏を、近郊の住宅地を、地名すら聞いたことのなかった見知らぬ町を、いつも3人で歩き回った。


何度、一緒に地方都市を訪ねたことだろう。


夕陽が沈む。黄昏が消えていく。遠くに見える山の稜線は輪郭をなくし、夕闇が周囲の風景を覆い隠す。


「もう帰りましょう」と喉元まで出かかってはいるのだが、いつも佐野さんの巨体は私たちのはるか先を急いでいた。


何もそんなに急がなくてもいいのに。


あの頃──佐野さんは取材を簡単に諦めるような人じゃなかった。そして、せっかちだった。


関係者を探し求めて、ひたすら家のドアを叩き続けた。


「もう一軒、当たってみようか」


はいはい、そうおっしゃるのならば。


もう一軒。そこがダメならもう一軒。不在でも、断られても、結局、聞き込みは終わらない。「もう一軒」は延々と続く。


ノンフィクションライターとは、こうしてしんどい作業を繰り返すものなのだと、私は佐野さんのいかつい背中を追いかけながら学んだ。


■取材相手の気持ちをほぐす役割


佐野さんは一流の「人たらし」でもあった。


私なんぞは記者時代の癖が抜けず、強引に言葉を奪い取るような取材をいまも繰り返しているが、佐野さんは違った。取材相手が大物政治家であろうが、町のチンピラであろうが、図々しいくらいに懐へ飛び込み、気が付けば家に上がり込んで一緒に酒を酌み交わしているような場面を、幾度となく目にしている。


ちなみに佐藤さんも、なぜか取材先で気に入られることの多い“人間力”を持っていた。佐藤さんは取材相手の自宅を訪ねると、必ず「お仏壇はありますか?」と聞いた。用意してくれた茶菓子には目もくれずに仏壇へ直行すると、線香に火をつけ、私には意味のさっぱり分からぬ経を唱える。読経を終えるまで取材は始まらない。その間、私も佐野さんも、とにかくその場にいる取材相手も含め、皆で待っていなければならないのだ。そんな取材前の“儀式”は、ときに固く閉ざされた取材相手の気持ちをほぐす役割をも果たした。


それでも、私と佐藤さんは、あくまでも佐野さんの手足に過ぎなかった。


そして、私たちは親分然とした佐野さんを受け入れていた。敬意も持っていた。憧れてもいた。


肩を左右に揺らし、まるでキャッチセールスのように人を選ばず声をかけ、取材がうまくいってもいかなくても、飲み屋で大酒を食らってから一日を終える佐野さんの姿を、私は忘れることができない。


私は佐野さんを追いかけてきたのだった。息切れしながら。たまに舌打ちしながら。小さな悪罵をもぶつけながら。


だからこそ、晩年の佐野さんに会うのはつらかった。正直、疎遠になった。互いに遠慮もあったのだと思う。佐藤さんとも会う機会が減った。佐藤さんは思うことがあって出版業界を離れ、前述したように警備員の仕事に就いた。夜勤の多い佐藤さんと、会うための時間をつくるのも難しくなった。


それぞれが、それぞれの道を進むしかなかった。


■ノンフィクションの栄枯盛衰と向き合うこと


ちなみに、私が最後に佐野さんと会ったのは、2022年7月のことだ。その少し前に佐野さんを担当していた編集者から、佐野さんが「危ない状況にある」との連絡があった。私は編集者と一緒に、入院先の病院に駆け付けた。


病室を訪ねたとき、すでに佐野さんの魂は、体から離れる準備をしていた。痩せ細った姿は痛々しかった。


「佐野さん」。呼びかけても反応はなかった。かろうじて開いたままの目は光を失う瞬間をただ待っているかのように、諦めの色に満ちていた。


伝えたいことは山ほどあった。不義理への詫びと、感謝と労いと、この際ついでに悪罵も。でも、言葉は喉元で足踏みして出てこない。


私は佐野さんの右手をそっと握った。


「早く元気になって仕事しましょうよ」と、およそ現実的とは思えない言葉をつぶやいた。だが、本心ではあった。時に周囲を辟易させるほどの佐野さんのパワーを、情熱を、もう一度、目にしたかった。私は両手で佐野さんの手を包みながら、無駄を承知で祈った。


その時、開いたままの佐野さんの手がわずかに動き、私の指先を包み込むように握り返してきた。小さな握力は、何を訴えていたのだろう。私は指先を通してこれまでの感謝を伝えた。佐野さんの視線は私ではなく、病室の白い天井に向けられたままだった。握りしめた手を私はしばらく離さなかった。


急がなくてもいいんですよ。私は胸の中でつぶやいた。


その約2カ月後、同年9月26日に佐野さんは亡くなった。75歳だった。


私は佐藤さんに佐野さんの訃報を電話で伝えた。佐藤さんは「そうですか……」と短く反応するだけだった。


佐野さんは、希望と諦めを佐藤さんに与えていたのだ。佐藤さんには、佐藤さんだけの思いがあったはずだ。


写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局
佐野氏の76歳の誕生日になるはずだった2023年1月29日に行われた「お別れの会」。 - 写真提供=「佐野眞一さん お別れの会」事務局

そして私もいま、佐野さんとの時間を振り返りながら、あらためて「ノンフィクションの巨人」と言われた人物の足跡を調べている。


それは同時に、ノンフィクションという分野の栄枯盛衰と向き合うことでもある。


佐野さんが残したもの、目指したものは何であったか。そこにどんな功罪があったのか。


いまだ逃れることのできない佐野さんの記憶に縛られながら、私は彼の来た道を辿ることにした。


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安田 浩一(やすだ・こういち)
ノンフィクションライター
1964年生まれ。静岡県出身。「週刊宝石」「サンデー毎日」記者を経て2001年よりフリーに。事件・社会問題を主なテーマに執筆活動を続ける。ヘイトスピーチの問題について警鐘を鳴らした『ネットと愛国』(講談社)で2012年、第34回講談社ノンフィクション賞を受賞。2015年、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(「G2」vol.17)で大宅壮一ノンフィクション賞雑誌部門受賞。著書に『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)、『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)、『ヘイトスピーチ』(文春新書)などがある。
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(ノンフィクションライター 安田 浩一)

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