AIはマルクス主義の夢を見るか? 技術ユートピア論ではなく重要な思想書のひとつ

2025年5月18日(日)7時0分 文春オンライン

〈 貨幣がなくなる未来? 一元的な尺度がなくなった複雑な社会を人間は生きられるのか 〉から続く


 人の体も心も商品化される超資本主義の行き着く果てに「測れない経済」。そこに出現する「お金が消えてなくなったデータ資本主義」は人類の福音となるのか? この数十年から百年かけて起きる経済、社会、世界の変容を大胆に素描した成田悠輔さんの最新刊『 22世紀の資本主義 やがてお金は絶滅する 』(文春新書)。


 本書に書かれた未来予測をどう受け止めることができるのか。古代ギリシャからAIが台頭する現代まで、3000年の歴史をたどって壮大な心の歴史を紡いだ『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』の著者で、哲学者の下西風澄さんが読み解いた。(前後篇の後篇/ 前篇から読む )


◆◆◆


人間は「今・ここ」を生きるか


 だからこそむしろ最大の困難は、貨幣のアルゴリズム化という技術的問題よりも、「人は踊る」という存在論的問題にあるのではないか。本書の「稼ぐより踊れ」というメッセージは、単に経済活動からの解放を意味するだけでなく、人間存在が時間的・空間的な束縛から自由になり、一回性の「今・ここ」を肯定的に生きよ、という呼びかけとして響く。貨幣は、価値を貯蔵することで未来への備えを可能にし(時間軸)、他者との比較を可能にすることで社会的な位置づけを明らかにする(空間軸)という機能を持っていた。貨幣が消滅し、すべての交換が一回きりで固有のトークンになるということは、この時間的・空間的な基準が失われることを意味する。


 その意味で「貨幣」と「文字」の発明はどこか似ている。貨幣が「価値」の時空間的な指標・源泉だとすれば、文字は「意識」の時空間的な指標・源泉だ。かつて文字を持たなかった時代の人類は、過去の歴史や未来への計画から自由で、「今・ここ」を生きていた。文字が発明されたことで人は、記憶を外部化する代償として過去と未来という時間意識を明確に立ち上げ、「今」という認知領域から解放された。また文字の発明によって人は、直接的に声で接触する他者を超え、未知の他者との交流・比較を可能にし、「ここ」という想像力の空間を越境することができるようになった。貨幣の消滅は文字の消滅にも似ていて、こうした世界観はどこか古代的な世界への回帰のようにも思える。


 22世紀という未来、貨幣が消滅した未来、私たちは再び「今・ここ」の連続的な世界へと回帰していくのだろうか。そして人間はそのような、比較や蓄積の尺度を持たない、流動的で一回性の生に耐えられるのだろうか。不安から逃れるために安定した基準と規範を求める人間にとって、「踊り続ける」ことは、実は最も難しい生き方なのかもしれない。本書における「測れない経済」は「価値の高低よりスタイルの差異が競われる」「ただそれぞれの人がそこにあるがままにあるための仕組み」だと謳われる。筆者はこの理想に強く共感する。そうした社会が訪れることを求めるという意味で、人間は「踊るべき」という「規範的な主張」には同意する。ただ、「人間は踊ることになる」という「事実的な主張」には説得されきることができない。



©Unsplash


柄谷行人とマルクス的AI


 本書の結びで示される経済思想は、哲学者・柄谷行人の交換様式論に収斂されている。柄谷は、人類の社会構成体の歴史を、交換様式A「贈与と返礼」(氏族社会など)、交換様式B「略取と再分配(服従と保護)」(国家)、交換様式C「商品交換(貨幣と商品)」(資本主義市場)という三つの様式の組み合わせとして分析した。そして、これらを超える普遍的な社会原理として、交換様式D、すなわち「Aの高次元での回復」としての未知な他者たちとの互酬的(贈与的)な関係性の復活を構想した。


 壮大かつ鮮やかに人類史を解読した柄谷の理論はしかし、その結末である「D」の社会像に関しては「向こうから来る」という謎めいた予言として書かれている。この予言にも近い、新たなる経済社会思想とその具体的なモデルを与えようとしてきたのは、技術と政治の融合を模索してきた現代の思想家・事業者たちだ。『NAM生成』に論文を寄稿し「伝播投資貨幣PICSY」を構想した鈴木健、「交換様式X」に触発されて「RadicalxChange」を立ち上げたグレン・ワイルとオードリー・タン、そして貨幣消滅を説く成田悠輔。柄谷の「D」に困惑した人文系の読者たちこそ、肯定するにせよ批判するにせよ、彼らの具体的な理論と構想を真剣に扱うべきではないか。柄谷行人は「来たるべきD」はいわば「統制原理」(規範的な主張)であり、それゆえに実現するというトートロジカルな主張をしているが、少なくとも成田悠輔の主張する貨幣消滅の未来像は、「Aの高次元での回復」という理念的なDの姿を実装可能性を持つ技術的な課題として解釈している。原始的な贈与でもなく、国家による収奪でもなく、市場による競争でもない、新たな経済社会のビジョンを本書ほどリアルに描いたものは世界的にも稀有であるように思える。


 またOpenAI周辺やweb3業界など、近年のテクノロジー界隈で見られる思想的潮流が、功利主義をアップデートする方向(効果的利他主義 Effective Altruism や効果的加速主義 Effective Accelerationism など)に向かっているのに対し、本書は功利計算の前提そのものを覆し、価値の一元的な尺度を解体しようとしている点も斬新だ。それはむしろマルクス主義的でもあり、本書の主張はマルクスが『ゴータ綱領批判』で述べた、コミュニズム社会のより高度な段階、「各人はその能力に応じて(働き)、各人はその必要に応じて(受け取る)!」という理想に奇妙な形で接近している。AIによる個々人の必要性に応じた資源の最適配分は、マルクスが見た夢となりうるだろうか?


神、技術、虚構


 柄谷行人自身は来たるべきDを、(原始の遊動的な)仏教やキリスト教などの「普遍宗教」の原理に見出そうとしている。しかし、まさに宗教こそ欲望と不安の回収装置である。柄谷は来たるべきDは「交換」ではないと主張しているが、国家が「服従」を誓う代わりに「保護」を与える「交換」であるとすれば、なぜ宗教が「信仰」を誓う代わりに「救済」を与える「交換」とは言えないのか。不安や欲望や神といった精神上の問題はマルクス主義的、あるいは柄谷行人においてはどのように考えればよいのか。


 マルクスの限界を指摘する後のマルクス主義者たち(グラムシ、ルカーチ、アルチュセールら)は、イデオロギーや文化といった上部構造が持つ相対的な自律性や、下部構造への能動的な働きかけの重要性を強調した。柄谷もこの問題を踏まえて、「生産様式」という唯物論的な基盤に依拠して社会思想を形成したマルクスの限界を乗り越えるために、いわば霊的で神的な「力」を含む「交換様式」へと理論をアップデートした。しかしここにひとつの疑問が残る。すなわち柄谷行人は生産様式的な方法に精神的な問題を組み込もうとしたがゆえに、霊性と信仰という人間精神の究極の形態を扱ってきた宗教を交換様式から除外し、「来たるべきD」というブラックボックスへと送り込むこむことになってしまったのではないか。


 これと同じ問題は成田悠輔の技術思想にも疑問を投げかける。近年、アメリカのテック右派たちもまたAIとブロックチェーンを組み合わせた未来社会を予見しているが、興味深いことにピーター・ティールやJ.D.ヴァンス副大統領らはカトリックに改宗し、一部のカリフォルニアの技術者たちも宗教に回帰している動きがある(現在、P.ティールを中心にテック業界内でキリスト教コミュニティを育成するために設立された非営利団体「ACTS 17 Collective:テクノロジーと社会においてキリストを認める会」が活動している)。あるいはトランプ大統領の支持基盤であるプロテスタント福音派はキリスト教の終末論を信奉しながら勢力を拡大している。


 こうした動向を見ると、唯物的・技術的に規定され調整される人間社会を描くビジョンにおいても、どこかで精神的な問題が浮上し、その問題を先送りする未来予言的なものを求めたり、すべてを一元的な意味に回収する神的な超越性を求めてしまうという傾向は人間に不可避であるように思える。


 AIの圧倒的な進歩によって、これまで人類が想定してきた「人権」「主体」「人格」などの概念は再考を求められることは間違いない。もちろん、それに基礎づけられた政治・経済システムも大胆に変容していくだろう。すべてがデータ化され、アルゴリズムによって実体的に処理される世界では、社会を統合し、人々に意味を与えてきた「虚構」(神、国家、貨幣、イデオロギーなど)の役割はどうなるのか。それらは完全に消え去ってしまうのか。それとも、バックエンドでデータ駆動アルゴリズムが社会を動かす一方で、フロントエンドでは新たな形の虚構や神話が、人間の情動を惹きつけ、社会を動かすエネルギーとして機能し続け、その欲望こそがアルゴリズムを加速させるのだろうか。そして、この新たな技術—生産様式をコントロールし、社会全体の方向性を決定しようとする権力が出現する可能性はないのか。あるいはAIが最適化の名の下に新たな規範的スコアを創出する可能性はないだろうか。AIがどのように進化するにせよ、その「最適化」は誰にとっての最適化なのか、という問いは常に残る。


 凡庸な結論になるが、私たちが社会を構想するときには、イデオロギーと物理的な条件の相互作用から考える必要がある。精神や思想のような実体のない虚構を無に帰す技術論でもなく、主体や人格を自明視して技術を盲目に批判するのでもなく、虚構と実体の調停、超越論的な眼差しと経験的な条件の融合、上部構造と下部構造の交流をこそ、思考しなければならないのではないか。しかしそれゆえにこそ、現在の技術的な条件で構想可能なラディカルな社会像を描いた本書を、単なる技術ユートピア論としてではなく、重要な思想のひとつとして読む必要があるだろう。


(下西 風澄/文春新書)

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