これで「愛子天皇」は実現できる…専門家が提言「男系男子での皇位継承も同時に確保できる歴史に学ぶ妙案」

2025年5月24日(土)7時15分 プレジデント社

JR金沢駅で集まった人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=2025年5月18日午後、金沢市(代表撮影) - 写真=共同通信社

愛子内親王が皇位を継承する可能性はあるか。『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)を上梓した島田裕巳さんは「女性天皇が久しぶりに現れた江戸から明治の初期においては、保守派の間でも女性天皇を容認するような考えも示されていた」という——。

■愛子天皇が誕生したらどうなるか


保守派と言われる人たちが、皇位継承について男系男子にこだわるのは、愛子内親王が天皇に即位することを強く怖れるからではないだろうか。


仮に「愛子天皇」が誕生したらどうなるのか。国民はそれを歓迎し、熱狂するに違いない。何しろ天皇の直系であり、戦後、開かれた皇室を実現する上で決定的な貢献をしてきた美智子上皇后の孫であり、雅子皇后の娘だからである。


写真=共同通信社
JR金沢駅で集まった人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=2025年5月18日午後、金沢市(代表撮影) - 写真=共同通信社

男系男子とは言っても、子どもを生み育てる上で、男性の果たす役割はあまりにも小さい。精子を放つということが唯一の役割で、その後は女性の胎内で胎児は成長していく。命を懸けての出産も女性の仕事で、男性がそこにかかわることはない。最近では、男性が出産の場に立ち合うことも多くなったが、そこで何かをするわけではない。昔は産婦人科で出産するのではなく、自宅に「産婆」と呼ばれた女性が来て行われるのが普通で、近所の女性たちがそれを手伝った。


出産後も母乳を与えるのは女性で、粉ミルクが登場することで、ようやく男性は乳児に乳を与えられるようになった。果たして、精子を放つという仕事はそれほど重要なことなのだろうか。大量に精子を冷凍保存しておけば、男性不要の社会だって実現させることができそうだ。


■「日本国は女の治め侍るべき国なり」


それだけ弱い立場にある男性だからこそ、男系男子にこだわるのではないか。もちろん、男系男子での継承を絶対とする女性たちもいるが、要はそれが「男尊女卑社会」の最後の砦(とりで)なのである。


しかも、男系男子に皇位を限定するのは、明治時代になってからの新しい伝統である。


最近刊行した拙著『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)では、室町時代の公卿(くぎょう)で、当代随一の知識人として知られた一条兼良(いちじょうかねよし)(1402〜1481年)が、その著作『小夜寝覚(さよのねざめ)』において、「この日本国は、和国とて、女の治め侍(はべ)るべき国なり」と述べ、天皇家の祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)や、応神天皇と習合した八幡大神の母が神功(じんぐう)皇后である点を強調していることを紹介した。


神功皇后の治世は69年間に及んでおり、のちに第15代の天皇から外されたのは、大正15年と近代になってのことだった。『日本書紀』では、神功皇后の治世に1巻があてられている。


■絶大な権力者として描かれた女神


神話において、天照大神は相当に強力で、権力的な存在として描かれている。弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)に登ってきた際には、武装してそれを迎えた。弟が暴れると、それをかばったりして、姉らしいところを見せるものの、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国造りを終えると、そこは自分の子孫が治めるべき国だと国譲りを強要した。


天照大神が描かれた神話の浮世絵「岩戸神楽ノ起顕」、1857(安政4)年、歌川国貞・画(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

神功皇后の夫である第14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が自らの命令に背くと、天照大神は住吉三神の力を借りて、天皇を殺害してしまう。そして、仲哀天皇の代わりに三韓征伐を命じられたのが神功皇后なのである。


伊勢神宮の創建は、それより前、第10代の崇神(すじん)天皇の時代とされるが、宮中で地主神である倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)とともに祀られていた天照大神は、疫病をもたらす祟(たた)り神としての性格を持っていた。


天照大神は、高木神(たかぎのかみ)(高御産巣日神(たかみむすびのかみ))とともに、高天原から数々の指令を下す絶大な権力者である。そのため、女神ではなく男神ではないかという説もあるが、保守派にとっては、天照大神が男神であるほうが都合がいいことだろう。


■女性天皇における「中継ぎ」説


愛子天皇が誕生すれば、天照大神や神功皇后のことが引き合いに出されるに違いない。さらには、飛鳥時代から奈良時代にかけて登場した多くの女性天皇たちのことも改めて注目されるはずだ。そして、一条兼良も先見の明があったと再評価されるであろう。


ただ、代々の女性天皇については、「中継ぎ」説が唱えられてきた。男性皇族に適当な人材がいないとき、臨時に女性が天皇に即位してきたというわけである。


拙著でも述べたが、古代の女性天皇は数も多く、治世の期間も長い。その功績は男性と遜色(そんしょく)はない。とても中継ぎと言えないことは明らかである。


では、江戸時代に久しぶりに誕生する2代の女性天皇の場合はどうなのだろうか。江戸時代の女性天皇は、第109代の明正(めいしょう)天皇(在位1629〜1643年)と第117代の後桜町(ごさくらまち)天皇(在位1762〜1771年)である。


明正天皇の場合、父親の後水尾(ごみずのお)天皇が徳川幕府に対して不快感を抱き、その腹いせに譲位したことで、わずか7歳で即位している。したがって、政務は後水尾上皇や幕府が行っている。しかも、後水尾が譲位する際に、「若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」との覚書が出されていた。実際、21歳のときに、明正天皇は自らの即位後に生まれた弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位している。


一方、後桜町天皇の場合には、弟である第116代の桃園(ももぞの)天皇が若くして亡くなり、その皇子であった英仁(ひでひと)親王(のちの第118代後桃園(ごももぞの)天皇)がまだ幼かったため、22歳で即位している。その点で、明正天皇も後桜町天皇も、中継ぎであったととらえられる。古代の女性天皇とはその性格が大きく違うのだ。


■博学多才な光格天皇の偉業


ただ、後桃園天皇が22歳と若くして亡くなってしまったため、傍系である閑院宮(かんいんのみや)家に属していた第119代の光格天皇が即位することになった。


閑院宮家は、1710年に、第113代の東山(ひがしやま)天皇の第6皇子であった直仁(なおひと)親王を初代として創設された「世襲親王家」の一つである。この宮家は、皇統の断絶を危惧したかの新井白石の提言によって生まれたもので、ここでその提言が生きたことになる。現在の天皇をはじめ男性の皇族は皆、光格(こうかく)天皇の子孫になる。


ただ、光格天皇は即位したとき、わずか9歳だった。そのため、後桜町上皇は、その後見役を担わなければならなくなった。上皇は、光格天皇が傍流であったこともあり、幼い天皇を厳しく育てた。特に学問や和歌を奨励し、その結果、光格天皇はやがて博学多才の天皇として知られるようになる。


また、1787年の天明の大飢饉の際に、光格天皇は幕政に口を出さないという「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」の定めを逸脱して、幕府に民衆救済を要望した。幕府も事の重大さから、それを受け入れて市民に米を放出し、天皇を咎(とが)めることもなかった。上皇は、それに先立って市民にりんごを配布しており、その教育が生きたことになる。


■保守派も容認した江戸期の女性天皇


プロ野球の世界では、以前は先発投手の後に登板する中継ぎに対する評価は著しく低かった。しかし、今では力のある中継ぎがいないチームは勝利がおぼつかなくなり、その評価は高まっている。


女性天皇を中継ぎとする見方を確立したのは、戦後の歴史学の権威とされた井上光貞であり、その論文は1964年に発表されている。巨人の中継ぎのエース宮田征典投手が「8時半の男」と呼ばれ、中継ぎに対する評価が変わっていくのは、その翌年、65年のことだった。井上の論文がもっと遅く発表されていたら、受け取られ方は変わっていたかもしれない。


江戸時代の女性天皇は、たしかに中継ぎかもしれないが、宮田投手に匹敵するような重要な役割を果たしたのである。


そうしたこともあり、女性天皇が久しぶりに現れた江戸時代から明治時代の特に初期の段階においては、保守派の間でも女性天皇を否定するような議論は行われておらず、むしろ、その可能性を容認するような考えも示されていた。


当時の保守派と言えば「国学者」ということになるが、その江戸時代の代表、本居宣長は、王朝の交代がなかったことに日本の中国に対する優位性が示されていると主張はしたものの、女性天皇を否定するような見解は述べていない。


江戸時代後期の国学者・本居宣長(1730〜1801)(画像=『國文学名家肖像集』より/Hannah/PD-Japan/Wikimedia Commons

■分岐となった明治期の旧皇室典範


明治の国学者の間で問題になったのは、古代の養老律令に含まれる「継嗣令(けいしりょう)」にある、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること。女帝の子もまた同じ」の条文だった。これを明治の国学者である横山由清(よしきよ)や小中村清矩(きよのり)は、女性天皇の子どもも、男性天皇の子どもと同様に親王とする規定として解釈した。


明治の時代には「王政復古」というスローガンが掲げられ、古代の天皇中心の政治体制に回帰することが主張され、国学者はそうした議論を先導したのだが、彼らの中には、女性天皇を真っ向から否定する考えはなかったのだ。


結局、そうした考え方が完全に否定されるようになるのは、大日本帝国憲法が制定されたのにともなって、旧皇室典範が、天皇家の家憲として1889年に定められてからである。


それでも、元老院が作成した憲法の草案である「日本国憲按」の1880年段階のものでは、「やむを得ない場合には、女系(女性の系統)の者が皇位を継承することができる」という条文が含まれていた。ところが、井上毅(こわし)などが、「万世一系」という考え方をもとにした新たな伝統を築こうとして、そうした条文を葬り去ったのだ。


それ以前の流れでいけば、女性天皇や女系天皇を、臨時のもの、あるいは中継ぎとして容認する条件が整えられていた可能性がある。国学者に代表される保守派も、その点について、今よりもはるかに寛容だったことになる。


■「中継ぎとしての愛子天皇」がもたらすもの


ここまで述べてきたことを踏まえると、「中継ぎとしての愛子天皇」という可能性が開かれていく。


皇位の安定的継承に妙案がない現状において、現在の天皇がそれほど遠くない時点で譲位し、皇室典範が改正されて愛子天皇が誕生したとする。皇室への関心は今以上に高まり、今なお残る男尊女卑の風潮も下火になるであろう。夫婦別姓の法改正も実現し、女性首相も容易に誕生することであろう。



島田裕巳『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)

国事行為などは、譲位した上皇と分担すればよい。そして、一定期間が過ぎたら、愛子天皇は中継ぎの役割を終え、悠仁親王に天皇の位を譲るのだ。これで、保守派が望む、男系男子での継承の道も確保される。


あるいは、愛子天皇の時代が続く中で、女系天皇を容認する声も高まり、在位期間は延びるかもしれない。少なくとも、皇位継承について、国民は今以上に関心を持つようになるであろう。


ちなみに、2022年に亡くなった英国のエリザベス女王が即位したのは25歳のことだった。若きクイーンの誕生は、日本社会に活力と希望を与えることになるのではないだろうか。


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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)

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