川中美幸「八代亜紀さんがお年玉を渡す姿が忘れられない」1980年には「雨の慕情」でレコード大賞を受賞

2024年3月27日(水)8時30分 婦人公論.jp


テイチクと同年生まれの昭和の大スター・石原裕次郎。1980(昭和55)年には、八代亜紀とのデュエット『わかれ川』とカップリング『なみだの宿』をテイチクからリリースした

2024年3月26日、八代亜紀さんのお別れ会『八代亜紀 お別れの会 〜ありがとう・・・これからも〜』が、東京・蒲田の片柳アリーナで開催された。会場にはAIを使って生成された八代さんの優しいメッセージも流れた。ディズニー映画『ファインディング・ドリー』で本人役として登場した八代さんの声を彷彿とさせた。八代さんが長く所属したテイチク90周年と、歌手仲間のコメントの記事を再配信します。
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2024年2月11日、国内における老舗レコード会社「テイチク」(株式会社テイチクエンタテインメント)が、創立90周年を迎えた。創業以来、流行歌から歌謡曲、演歌の時代へと老舗メーカーとして音楽ファンに愛された「テイチク」。2020年の朝ドラ『エール』では、老舗レコード会社「テイコクレコード」として登場した。当時、年始に開催されていた「テイチクヒットパーティ」は、さまざまなアーティストが参加し、彼らを讃えてヒット賞が贈呈された。テイチク90年の歴史のなかで、今回はその中でも1981(昭和56)年を、オトナの歌謡曲プロデューサー・佐藤利明が写真とともに振り返る

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戦後のテイチク黄金時代


奈良県奈良市に本社工場が建てられ、録音スタジオを現在の兵庫県川西市花屋敷において、1934年帝国蓄音器株式会社が設立された。当時は外資系のレコード会社が主流だった時代、純粋な国産メーカーとしてスタートした。

創業時には古賀政男が専属作曲家として数々の名曲を生み出し、藤山一郎が歌った『東京ラプソディ』(1936年)は、P.C.L.(東宝の前身)で、藤山主演で映画化されて大ヒット。戦前のシティソングの時代を拓いた。

そして、古賀政男の推薦で契約した立教大学出身のジャズ・シンガー、ディック・ミネが『ダイナ』を大ヒットさせた。その後、ディック・ミネは流行歌手として『人生の並木路』(1937年)などを歌ってテイチク黄金時代を築いた。

戦後は田端義夫が『ズンドコ節(街の伊達男)』『かえり船』をヒットさせた。1937(昭和12)年から85年間テイチクに所属している大ベテラン菅原都々子が、1955(昭和30)年に『月がとっても青いから』をビッグヒットさせた。

1956(昭和31)年には日活でデビューしたばかりの石原裕次郎が『狂った果実/想い出』でレコードデビューを果たした。続いて1957(昭和32)年、三波春夫が『メノコ船頭さん』でデビュー。戦後のテイチク黄金時代を牽引していった。

創業以来、流行歌から歌謡曲、演歌の時代へと老舗メーカーとして音楽ファンに愛され、川中美幸天童よしみ石川さゆり、BEGINらをはじめ、数々のアーティストたちがそれぞれ「音楽の時代」を作り続け、2000年に入ってからも祖父の孫への想いを歌った大泉逸郎の『孫』や、NHK紅白歌合戦の歌唱後に、国民的大ヒットとなった秋川雅史の『千の風になって』、漫談家のCDとして記録破りのビッグヒットとなった綾小路きみまろなどが100万枚を超えるセールスを記録しヒットの歴史を刻んできている。

歌は世につれ、世は歌につれ


時代は大きく変わってきたが、まさに「歌は世につれ、世は歌につれ」である。テイチク90年の歴史のなかで、さまざまなモーメントがあったが、ここでは1981(昭和56)年にタイムスリップしてみよう。


左から、フォーク・デュオの雅夢(中川敏一、三浦和人)と川中美幸

テイチクでは当時、年始には「テイチクヒットパーティ」を開催しており、パーティが行われた1981年の前年となる1980年に活躍したアーティストを讃えてヒット賞が贈呈された。

パーティには石原裕次郎、八代亜紀、高田みづえ、川中美幸、雅夢の2人といった、ジャンルも世代も異なるアーティストたちがそろい、晴れやかに鏡開きを行った。

そんな彼らの当時(1980年〜1981年)を振り返ってみたい。テイチクを代表するビッグスター、石原裕次郎は1934(昭和9)年生まれ、つまりテイチクと同年に誕生している。

この頃は、テレビ『西部警察』を自ら制作、石原プロモーションの頼もしきボスとして活躍していた。前年の1980(昭和55)年12月には、八代亜紀とのデュエット『わかれ川』とカップリング『なみだの宿』をリリースしたばかり。

昨年、惜しくも亡くなった日本の歌謡史を作り上げたシンガーの八代亜紀にとって、この年のヒットパーティは特別なものとなった。

1980年4月にリリースした『雨の慕情』が、前年の『舟唄』に続く大ヒットとなり、第11回日本歌謡大賞をはじめ数多くの音楽賞に輝いていた。このパーティの直前1980年12月31日には、前年に惜しくも逃した日本レコード大賞を『雨の慕情』で受賞したばかり。まさに晴れがましい瞬間のショットである。

人に歴史あり、歌に歴史あり


フォーク・デュオの雅夢(三浦和人、中川敏一)は、1980年5月、第19回ヤマハポピュラーソングコンテスト、つま恋本選会で『愛はかげろう』で優秀曲賞を受賞。9月にテイチクからレコードデビューを果たし69万枚のヒットを記録していた。

高田みづえは、サザンオールスターズのカヴァー曲『私はピアノ』を前年7月にリリースして日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞。自身のキャリアで最大のヒット曲となった。まさにアイドルから大人のシンガーへと成長した瞬間でもある。

そして川中美幸は、1980年3月にリリースした『ふたり酒』が、100万枚を超すミリオンセラーとなった。1977年にテイチクヒット賞を受賞した『あなたに命がけ』以来、大ヒットに恵まれなかった川中が「25歳までにトライしよう」と24歳の誕生日にレコーディングした『ふたり酒』は80年代を代表する演歌の1曲となった。

テイチクに残された「ヒットパーティ」の写真には、こうしたさまざまなモーメントが記録されている。まさに「人に歴史あり」「歌に歴史あり」である。

次ページ 三浦和人さんと川中美幸さんからのメッセージ

写真提供:テイチクエンタテインメント

1980年の9月、グループの雅夢として「愛はかげろう」でテイチクレコードからデビューしたのが、僕の音楽家としてのスタートでした。

この写真は、デビューの翌年に当時ヒットを成し得たアーティストの方々と、そのお祝いをしていただいたパーティの一コマで、石原裕次郎さん、八代亜紀さん、高田みづえさん、川中美幸さんと僕たち雅夢が鏡開きをしている写真です。

尊敬する大先輩の方々とご一緒させて頂き、とても光栄に思った事と少し照れ臭かった事を覚えています。この写真を見て一番喜んだのは、今は亡き両親であったろうと思います。
八代さんは、僕がまだ10代の頃、生意気にも独特の声とズバ抜けた歌唱力にとても感銘した事を今も覚えています。自分がプロになってからも唯一無二のアーティストであるという思いは深まっていきました。こんなに早く天国に召されるとは、言葉がありません・・・。

テイチクは今年創立90周年ですが、この長い歴史の中に「雅夢」、そして「三浦和人」として、ほんの少しでも足跡を残せているなら、こんなに光栄で嬉しいことはありません。今後更に、様々な音楽が響き、様々な才能が輝く。そして、それらを支え送り出し続ける大切な場所として、これからもずっとあり続けて欲しいと願っています。

三浦和人


新曲「人生日和」を2月21日に発売する川中(写真提供:テイチクエンタテインメント)

1980年に「ふたり酒」がヒットして、この写真の「テイチクヒットパーティ」に初めて参加させて頂きました。

この日、初めて石原裕次郎さんにお会いしたのですが、会場に現れた時の圧倒的なオーラは今も忘れられません。八代亜紀さんにはデビュー当時から「美幸ちゃん!美幸ちゃん!」ってよく声を掛けて頂いていましたが、お二人から「おめでとう!良かったね!」といってもらえたことを思い出します。

数年前になりますが、大晦日の番組で八代さんと楽屋が一緒になった時、舞台関係者の方にお渡しするためのお年玉をご自身で詰めていらっしゃっていて、私が「すごい!すごーい!」って見ていたら「美幸ちゃんも欲しい?」って言われたので「はい!」って答えたら、私、八代さんからお年玉を頂いちゃったんです。

その後、楽屋の挨拶に来られた方々お一人お一人に「はい、一日早いお年玉」って、丁寧にお渡しされていた光景が今も忘れられないですね。

このパーティから43年が経ち、テイチクは今年創立90周年を迎えましたが、辛い時や苦しい時にこそ歌が必要だと感じます。これからも演歌、歌謡曲を大事に届けて100周年を目指してほしいと思います。

川中美幸

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