ダルビッシュ聖子(44)が明かす、夫との“馴れ初め”と結婚の鍵となった“質問” 「なぜこんなに慣れないんだろう」野球の世界でガチガチになることも…

2025年4月14日(月)18時0分 文春オンライン

 結婚とは、赤の他人であったふたりが、自分たちが唯一無二の関係であると思ったり、それが大いなる勘違いであったと気付いたりしながら、格闘する過程でもある。なぜ、人は人と一緒にいることを選ぶのか? 夫婦、家族にかぎらず、人生にパートナーシップは必要なのか?


 その問いとともに、内田也哉子さんが様々なゲストとパートナーを考える連載「Mirror River」の第2回にダルビッシュ聖子さんが登場。 『週刊文春WOMAN 2025春号』 より一部を編集の上、紹介します。



2019年、パワースポットとして知られる米国セドナで結婚式(本人提供)


スーパースター選手をして「結婚して変わった」と言わしめた


内田 今日はサンディエゴのダルビッシュ聖子さんとオンラインで繫いでお話を伺います。聖子さん、よろしくお願いします。


ダルビッシュ はじめまして、ダルビッシュ聖子です。実は也哉子さんにお礼を申し上げたいと、ずっと思っていました。私は女子レスリングの選手を2006年に最初の結婚のため引退し、出産し、3年後に28歳で現役復帰したのですが、そのときの激励会にお父様がいらっしゃったんです。


内田 え、裕也が? それは初耳です。どうして父なんかが伺ったんでしょうか。


ダルビッシュ アスリートの交友関係にはたまに面白い人が入ってきてパッと消えることがありまして、そのときもパッと消えた人と内田裕也さんがお知り合いだったようです。お知り合いの方は消えてしまったのに、そしてお父様は私への義理も何もないのに、おひとりで来てくださいました。


内田 そうでしたか。父は他界して6年経ちますが、いまだにいろいろなところで生前のエピソードを聞くことがありまして、だいたいが「ああ申し訳ございません」と謝ることになるんですけど。


ダルビッシュ とんでもない。「ロックンロール!」ってシャウトしていただいて。


内田 変わった人が来ちゃいましたね。


ダルビッシュ 一瞬にしてその場を盛り上げ、私もどんなに励まされたことか。本当にありがたかったです。おかげで復帰第一戦のポーランド女子オープンで優勝したんですよ。何のご恩返しもできないままでいたら今回のお話をいただいたので、少しでも也哉子さんのお役に立てばと思ったのですが、でも私でいいのでしょうか……。


 ダルビッシュ(旧姓山本)聖子さんは父はオリンピック選手、母はレフリー、姉・美憂さんは世界チャンピオン、兄は山本KIDの名でお馴染みのレスラー・総合格闘家というレスリング一家に生まれ、自身も1999年、2000年、01年、03年の世界チャンピオン。


 夫はメジャーリーガーのダルビッシュ有投手。2004年のドラフト会議で日本ハムに1位指名されて入団。12年にテキサス・レンジャーズに移籍しMLB(メジャーリーグ)デビュー。ロサンゼルス・ドジャース、シカゴ・カブスを経て20年からサンディエゴ・パドレスでプレーしている。昨シーズン日本人初のMLB2000奪三振を達成した。二人はともに再婚で16年に入籍。現在は夫妻と子ども5人の一家7人でサンディエゴに暮らす。


内田 この連載はパートナーについて考えてみたくて始めたものなんですね。ある日、夫(本木雅弘)がふと、「パートナーシップについて話を聞くならダルビッシュ聖子さん」と言ったんです。私もそうだ! と思いました。


 19年にダルビッシュさんがスポーツ紙のインタビューに答えて、聖子さんと結婚して昔の自分が思い出せないくらい変わったとおっしゃっていましたよね。あのスーパースター選手をして「結婚して変わった」と言わしめるとは、これはお話を聞かずにいられようかと。


ダルビッシュ (笑)。


夫・ダルビッシュ有との馴れ初め


内田 聖子さんは13年からアメリカに拠点を移されましたね。ダルビッシュさんはその前年からMLBでプレーされています。お二人はアメリカで出会ったんですか。


ダルビッシュ 振り出しはカナダです。最初の結婚がうまくいかずに、まだ4歳のひとり息子とこれからどうやって人生を立て直そうかと思っていたとき、トロントの大学でレスリング部のコーチをしていた姉に「ひと部屋空いているけど」と言われ、私は「行く!」と即答しました。息子とカナダに到着し、空港の税関で“Can I apply this?”と拙い英語でビザを申請したんです。そうしたら通ったんですよ。


内田 え、そんなの聞いたことない。普通は日本でビザを取ってから行きますよね。


ダルビッシュ 32歳にもなってそんなことさえ知らず、ただ、ひと足先に海外に出ていた姉に聞いて、日本レスリング協会に推薦状を書いてもらうということだけはやっていました。それがよかったのか、ビザを取得した翌日には運転免許証、保険証なども全部取れちゃいました。


内田 すごい! 奇跡だ。


ダルビッシュ 姉と主人が知り合いで、テキサス・レンジャーズにいた彼から「今度、トロント・ブルージェイズとの試合に行きます。観にきてください」と誘いがあったんです。それで姉や姉の子どもたちのお供で私も試合を観戦に行って、主人とはそのときに初めて会って、その1年後ぐらいにアメリカで再会しました。


 私がカナダからアメリカに移ったのは、アメリカレスリング協会の女子レスリング監督から「ナショナルチームのコーチのポストに空きが出るんだけど興味ない?」というメールをいただいたからです。英語もろくにできないのに指導なんてムリだろうと思い“No,sorry”と返信したものの、いや待てよ、私はこれから稼がなくては息子を食べさせていけないんだと考え直し“Sorry,Yes!”(笑)。


内田 常に即断即決ですね。


ダルビッシュ それはですね、目の前のことに対処するのに精一杯で、あまり深く考えないからだと思います。


内田 直感に委ねる。肝が据わっていないとできないですよね。


ダルビッシュ ところが息子がアメリカに行くのはイヤだと言う。それはそうですよね、親の都合でいきなりカナダに連れてこられた。そこにはいとこのお兄ちゃんと1つ下の女の子がいて仲良くしてくれたけど、今度は誰も知り合いがいないアメリカに移るというんですから、子どもながらにも不安だったでしょう。息子は頑固なので言い出したら聞きません。すると姉が「大丈夫だよ、ここにいて」と言ってくれました。


 そこで息子を姉に預けて単身アメリカに飛んでコーチの仕事を決めて、さらに私自身がグラップリングという格闘技のアジア予選に初めて出たら優勝して日本代表になっちゃって。世界大会で銅メダルを獲って、カナダに戻ってもう一度息子に「どうする?」と尋ねたら「アメリカに行く」と言ってくれた。こうしてようやく親子でコロラドスプリングスで暮らし始めたという、怒濤の1年でした。


出会って間もない頃、夫に聞かれたこと


内田 すべて1年目の話でしたか! 波瀾万丈ですね。そうやってご自身で決めた道であっても困難にぶつかることもありますよね。


ダルビッシュ 主人にも出会って間もない頃に聞かれました。「苦労したことある?」って。私は挫折はいっぱい経験しているはずなんです。19歳でスウェーデンで開催された世界選手権で初優勝して、母が闘病中だったので速攻で帰国し、メダルを渡して喜んでもらおうとしたのに病院に着いたときには亡くなっていた。胸の上で手を組まされていたので、メダルを握らせてあげることができなかった。


 この4年後の03年世界選手権は、代表選考会の数日前に急きょ、協会の指示で階級を上げて出場することになったのですが、優勝は果たすことができたんです。翌年にようやく女子レスリングがオリンピック種目に加わり、階級を戻して挑戦したものの代表選考会の決勝で吉田沙保里ちゃんに敗れ、出場は叶わなかった。


 引退して結婚したけれど結婚生活は破綻。逃げるようにアメリカに来た。それなのに私は「苦労?したことないなー」と答えていた(笑)。主人は私とは正反対で、物事を慎重に考える人なんです。だから私のノーテンキな答えが主人的にはキーになったようでした。


内田 苦労を苦労とは捉えない。ダルビッシュさんはそこに惹かれたんですね。


 ダルビッシュ有さんは14年にTwitter(当時)で「2人で相談し、オープンに付き合っていくことにしました」と交際宣言。翌年、事実婚と男児誕生もTwitterで報告した。ふたりは16年8月16日、ダルビッシュさんの30歳の誕生日に入籍し、19年のオフシーズンにパワースポットとして知られるアリゾナ州セドナで奇岩石に囲まれて結婚式を挙げた。


夫に同行して驚いた、日米の反応の違い


ダルビッシュ ハワイで調整する主人に初めて同行したときは驚きました。主人は身長196センチなのでただでさえ目立つし、いくらサングラスと帽子で隠しても骨格でわかってしまう。ハワイに旅行で来ている何人かの日本の方たちが「あ、ダルビッシュだ」とダーッと駆け寄ってくるんです。まるでディズニーランドでミッキーを見つけたときのような騒ぎでした。


 そして撮影大会になりカメラは家族にも向けられます。中にはこっそり写真や動画を撮る人もいて、主人は長年の経験から撮られていることを肌で感じる。けっこう繊細なので、そこで一気に緊張してしまうんです。


 アメリカでは街中で出会っても、「ハーイ、ユウ(有)、頑張ってね」「すごくいいシーズンだったよ」と仲間のように声をかけられます。一緒に家族がいようが、そこは見ない。興味を向ける対象はプレーヤーだけです。


内田 聖子さんも有名選手でしたから、同じような目に遭っていたのではありませんか。


ダルビッシュ そんな経験はぜんぜんありません。4回世界一になったところで、私は新聞の1面は飾れなかったですから(笑)。


 でも、野球が注目されるのには、普通では考えられないような素晴らしい面があるということも知りました。例えば子どもたちが主人から手渡しでボールをもらっただけで、感動で泣きそうになっている。人をこれだけ感動させられる世界、見たことなかった。そう思ったときに、納得しました。主人が全力を出して野球ができるようにすることはとても大事なことなんだと。


「なぜこんなに慣れないんだろう」野球の世界でガチガチに


内田 聖子さんはパートナーの偉大さを知り、その人の隣にいる人生を歩むことになって、ライフスタイルも変わったのですか。


ダルビッシュ 初めのうちはわからない世界すぎてガチガチになっていました。今はガチガチではないけれど、毎年主人のシーズンが始まるたびに、何年もやっているのになぜこんなに慣れないんだろうと我ながら呆れます。


 でもそれは、子どもたちがそれぞれ成長するにつれて状況が変化するからなんですね。眠ってばかりの赤ちゃんが歩き出して、騒ぎ出して、意思を主張するようになる。主人の睡眠を妨げないように、子どもたちを庭で遊ばせたり、庭がないときは公園に連れ出したりしなければなりません。5人いるからそれが5回繰り返され、ベビーカーに乗せる子はいつも1人だけれど、走り回る子どもがどんどん増えていく。


 どの子からも目が離せないので大変ではありますが、私は納得してやっているから苦ではありません。そもそも私はナショナルチームのコーチとして、いかに選手がベストパフォーマンスできるようにするかということをやってきたわけですから。


内田 妻の内助の功というのとはちょっと違いますね。聖子さんは主体的にやっている。


ダルビッシュ なかなか至らないところもあるんですよ。家庭の中にいる主人ばかり見過ぎていると、メジャーリーガーのダルビッシュ有であることを忘れてしまうんですね。私がするべきこと、納得したことを忘れかけたときは、主人が登板する試合を家族みんなで応援に行って、そうだ、主人はこういう仕事をしているんだと再確認します。


※夫・ダルビッシュ有さんとの馴れ初めの詳細や、有さんと長男の関係、米国を転々とする家族の生活について語った全文は発売中の 『週刊文春WOMAN 2025春号』 で読むことができます。



だるびっしゅせいこ/1980年神奈川生まれ、横浜市育ち、米国サンディエゴ在住。元レスリング選手・指導者・グラップリング選手、現在柔術青帯7年、2度の結婚で子ども5人。父、姉、兄がレスリング選手という一家の末っ子。自らも5歳からレスリングを始め3階級で4度の世界王者に(1999、2000、2001、2003)。引退後は米国女子レスリング代表ジュニア監督、シニアアシスタントコーチを2シーズン務める(2013、2014)。夫はMLBサンディエゴ・パドレス所属のダルビッシュ有投手。




うちだややこ/1976年東京生まれ、東京・ニューヨーク・ジュネーブ・パリなど転々として育つ。文章家、戦没画学生慰霊美術館 無言館共同館主、初恋の人との結婚は今年で30年を迎える。子どもは2男1女。音とアート、旅すること、人と出会うことが好き。最新刊は『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』(週刊文春WOMANの連載を収録)。日曜朝のEテレ『no art, no life』で語りを担当。5月6日、渋谷Bunkamuraオーチャードホールにて「Happy Mother's Day!〜母に感謝のコンサート2025 in TOKYO〜」のストーリーテラーを務める。



対談構成・小峰敦子


(内田 也哉子/週刊文春WOMAN 2025春号)

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