「為せば成る」激動のキャリアで得たものとは - アジレント音川新社長

2025年5月28日(水)6時0分 マイナビニュース


さまざまなラボを支える分析装置の開発・提供などを行う米・Agilent Technologiesの日本法人である、アジレント・テクノロジー。同社およびアジレント・テクノロジー・インターナショナルの代表取締役社長に、音川真多郎氏が2025年4月1日付で就任した。
音川氏は、2024年にアジレントに入社したばかり。しかし、着任したラボラトリーソリューション本部長として、同社の装置を使用しサンプルテストやデモが行える顧客向け施設「芝浦ラボ」のリニューアルオープンに向け指揮を執るなど、重要な役割を担っていた。
そんな音川氏が今般、日本法人のトップに着任。業界・業種を問わずさまざまな領域で経験を積んできた同氏は、「愛社精神が強い会社」だと表現するアジレントをどのように率いていくのだろうか。今回は音川新社長の歩んできたキャリアに迫るとともに、その信条や将来的な目標について伺った。
○“人と働くこと”を学んだキャリアのスタート地点
京都府出身の音川氏が初めて就職したのは、奈良県内で民家や店舗のリフォームなどを担う“町の工務店”だった。そこでの役割は現場監督と営業を兼務するようなもので、自ら契約を獲得しつつその工事も自分で管理し完結させることが求められたとのこと。それまで建築に関する知見・経験はまったくなかったという音川氏だが、入社翌日からいきなり現場監督を任され、手探りのまま日々の業務にあたっていたという。
ただ、工事の現場に集まる各分野の職人たちはいわゆる“職人気質”で、若い新人現場監督に対して向けられる目は冷ややかだったといい、指示を出してもほとんど無視され、勝手に現場の作業が進んでいく状態だったのだとか。「そのころは『自分がこの現場、そして職人さんたちをマネジメントしなくては』という焦りもあって、周囲への態度が偉そうになっていた。その結果、より一層現場で孤立するようになっていきました」と振り返る。
そんな状況を見かねてか、当時の先輩から「あまり肩肘を張らなくていい」とアドバイスされ、「わからないことはわからない、素直に質問した方がいい」との助言を受けた音川氏。それからは、挨拶や掃除など“できること”を実行して働きやすい環境づくりに努め、少しずつ職人たちともコミュニケーションが取れるようになっていったという。そこで現場を共にした職人の中には今でも付き合いが続く人もいるといい、「社会人としての基礎を学べた時代だった」と話す。
「社会人として歩み出したばかりでしたが、“人と一緒に仕事をする”ことにおける基礎、そして、自分自身の性格にあった仕事の進め方が何なのかを日々学び、とても貴重な経験をさせてもらいました。」(音川氏)
そうした毎日を通して周囲と協力しながら仕事を進める方法を学んでいた中、日々の業務の中でも“営業”に面白みを感じていたという音川氏は、転職という道を選択。「顧客と直接接する仕事をもっと経験したい」という想いから、人材系ベンチャーに就職した。「営業を厳しく学ぶために、ベンチャー企業への道を選びました。工務店時代の営業と異なり、無形商材を提案するためのプレゼンテーションを考える作業は新鮮で、営業という仕事の基礎・ノウハウを叩きこまれました」と、約1年という期間ながら重要な経験だったとする。
○“英語”を体に染みつかせる外資系企業での日々
次なる新天地は、外資系のものづくり企業。入社以前の時点で英語は一切話せなかったという音川氏は、最終面接の際に「英語はできますか?」と問われ「できません」と答えたというが、続けて「では勉強する気はありますか?」と問われると、「頑張ります」と回答したという。当時は意気込みに乗せて口にしたというものの、その姿勢が功を奏したのか、業界未経験ながら採用が決定したという。後に明かされた話では、その企業はそれまで業界経験者か理系出身者しか採用していなかったものの、社内の雰囲気を変えるための施策として未経験者を採用することを検討していたといい、「当時の上司からは入社後に、『業界未経験の文系出身が入社するのは初めて』と明かされました」と話す。
そこで学んだことを“英語”だと振り返る音川氏によると、入社以前は日本国内でのビジネスに携わると思っていたというが、実際には社内の配置転換などの兼ね合いから、グローバルで連携する部署も兼務する形となり、オーストリア人の上司とのコミュニケーションが必要になったという。当時はほとんど英語が理解できないため、上司からの電話には英語が堪能なアシスタントに通訳を頼み、何とか対応していたとのこと。しかしある日、上司から「なぜ人に任せるんだ?」と叱られ、理解できない中でも毎日のように電話でのやり取りを行っていたという。「もちろん大変でした。ただとても感謝しているのが、その上司は話した内容を、電話を切ってからメールの文面でも送ってくれた。それを翌朝までに理解するよう指示され、日々辞書を引きながら勉強を続けました」といい、必死に英語を学ぶ時間が続いた。
そうした中で英語にも慣れ、電話の内容をある程度理解できるようになったと自信を持ち始めたころ、上司から前出のアシスタントのもとへ、あるメッセージが伝えられた。それは「恐らく彼(音川氏)は私の話していることを理解できていない」との一言。音川氏は「もう理解できるようになったつもりで会話していましたが、回答がまったく見当違いな時があったようです。それを知った時にハッとして、まだ勉強をしなくては、と改めて気を引き締めました」と話す。
○偶然の出会いを経て学んだ“マネジメント”
そして英語を用いて日々の業務に従事する中、音川氏が次に学びを求めたのが“マネジメント”だった。「大きな仕事を成し遂げるため、マネジメントについてもキャリアや経験を積んでいきたいという想いが自然に沸き上がった」といい、その中で日本ジョン・クレーンへと新天地を求めた。前職でもマネジメント職に就ける見込みは立っていたそうだが、転職という選択をした背景には、数奇な出会いがあったという。
「一次面接は、突然の英語での質問にうまく応対できないなどトラブルはあったものの、幸いにも通過できました。そして二次面接を受けに東京まで行くと、面接担当者が不在だと言われました。ひとまず会議室に案内されしばらく待っていると、代わりを務めると言って別の方が入ってきました。挨拶を交わした時、名刺を見て初めてそれが社長だとわかりました。」
手違いによって生じた社長との面接。しかしその中では、過去のキャリアや仕事内容などについては一切触れられなかったという。「大学時代の話など、いわば雑談をしただけで終わりました。もちろん、いい結果は期待していませんでした」と語る音川氏。しかし、帰路についた新幹線の中で早くも届いたのは、内定の通知だった。
「実は内定が出てから、2回ほどお断りの連絡を入れていました。ただ、断るたびに社長自ら連絡をくださって、採用の理由を丁寧に話していただきました。その後、最後の機会として直接面会した際、その社長は私をより大きなビジネスに触れさせるため、“東京勤務”にすると伝えてきました。当時は大阪に家を購入し、子どもも産まれたばかり。それでも、社長の想いや挑戦の機会に心は動かされており、家族も説得して入社を決意しました。」
日本ジョン・クレーンへの入社後も、音川氏の激動の日々は続く。4月1日付で入社したにもかかわらず、4月30日には社長から「5月から営業部長に就いてもらう」と突然の宣告。最年少のメンバーでも音川氏と同い年、他のメンバーはすべて年上というチームの中で、急遽マネジメントを開始することになった。しかしここで活きたのが、キャリアの礎となった工務店での経験。“わからない、だから力を貸してほしい”とメンバーにも素直に伝えて協力を得ながら、営業部長としての日々を駆け抜けていった。
○重ねた選択はすべて自らの軸に沿ったもの
その後も2つの外資系企業で経験を積み、アジレントへと入社することとなった音川氏。そのキャリアには挑戦の歴史が表れているが、そこに後悔は残されていないという。
「私自身はキャリアの選択をする中で、ひとつ軸を持っています。自分の夢・目標を掲げ、そこに到達するために最善の道のりを進むため、その時点で必要なことを学べるようチャレンジを続けてきました。どの時期でも、日々必死に働きながら毎日を過ごしていたので、余裕はなかった。ただ今振り返ってみると、自分に必要なものが経験できる日々であり、そしてとても楽しかったです。ただいろんな経験を積む中で、やはり出会う人に恵まれたとはひしひしと感じています。私の人生に大きなエッセンスを加えてくれる人に出会う機会が多く続いていて、それはアジレントに入社してからも変わりません。」
そう語る音川氏がアジレントの一員となったのは、2024年。目標を実現するための“何か”を求めて入社した同社では、どのような道のりを経て社長就任に至ったのだろうか。

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