レッズの本拠地が”浦和”になった理由…原博実「選手やりたい」と訴えたが「コーチがいねえ」と一蹴され
2025年5月27日(火)10時0分 読売新聞
Jリーグ開幕当時からホームスタジアムの駒場スタジアム(1999年3月6日撮影)
J2・RB大宮アルディージャの原博実社長が、読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演した。原さんは浦和レッズのJリーグ開幕の前年に現役を引退。浦和レッズのコーチとしてリーグ開幕を迎えた。現役引退、そしてレッズのホームタウンが浦和市に決着した当時の裏話を、番組MCで元日本代表の槙野智章さんに明かした。
「コーチがいない」から現役引退
原さんはJリーグが開幕する1993年の前年5月に現役を引退した。プロ選手としてJリーグで戦ってみたいという気持ちはなかったのだろうか。
「あったんですけど、当時の浦和だと、福田正博がいて、柱谷幸一が(日産自動車サッカー部から)移籍で入ってきた。やりたかったけど、正直に言うとプロのコーチがいなかったんだよ」
「(レッズは)森孝慈さんが監督になりました。森さんから『コーチやれ』って言われて。『選手やりたいんですけど』って言ったら、『コーチがいねえんだよ』って。森さんですら当時はサラリーマンだったのを辞めてプロ指導者になりました。プロリーグがないんだから、プロの指導者もいないんだよ」
「浦和なら通えるな」
その一方で、レッズの本拠地選びは難航した。三菱自動車工業サッカー部は東京を本拠地に活動していた。そのため三菱自工は江戸川区陸上競技場を改修してホームスタジアムにする構想を持っていた。
「どこがホームタウンになるか分からなかった。国立競技場はダメだったので、長崎、広島とか、いろいろ当たっても決まらない。やっと浦和に決まったけど、(三菱自工とは)何の関係もないから、『浦和?』って」
次にこう思ったという。
「浦和なら近いし、通えるなって。それはまず思った」
幻の現役復帰
Jリーグが開幕したが浦和はとにかく負けた。リーグ戦の成績は、93年は前後期ともに最下位。94年は前期が最下位で、後期は12チーム中11位。
「浦和が弱くて、けが人が多かった時に『やっぱ選手に戻るか』みたいな話があった。コーチをやめて選手登録しようって話が出るくらい、けが人が多くて勝てなかった」
最終的に選手復帰の計画は立ち消えになったが、コーチを経験したことで不思議なことが起きたという。
「現役時代はFWしかやってなかったけど、(コーチとして)中盤や最終ラインをやったりして、なんかうまくなっちゃったんだよね(笑)。だから、『あれっ、選手の時よりもできるなぁ』って。戦術的なことも森監督が言うことを理解できるから、うまくなっちゃったかもって感じ、ちょっとあったんだよね」
プロフィル
原博実(はら・ひろみ)
RB大宮アルディージャ社長。元日本代表FW。早稲田大学卒業後、三菱重工に入社。同社サッカー部(現・浦和レッズ)でプレー。国際Aマッチ37ゴールは本田圭佑さんと並んで日本歴代4位。指導者としては浦和レッズ、FC東京で監督。日本サッカー協会技術委員長だった2010年には、日本代表の監督代行として2試合限定で指揮を執った。1958年生まれ、栃木県出身。