五木寛之「世の中に運不運はあると思っているから『符が悪かったばい』でやり過ごせる。それでも時には社会の理不尽に、怒りの声を上げることも大事」

2025年2月18日(火)12時30分 婦人公論.jp


(撮影:大河内禎)

92歳の現在も、執筆や講演など忙しい日々を過ごす五木寛之さん。壮絶な戦争体験や家族との別れなど「僕の履歴書は不運だらけ」と話しながらも、自身を幸運だと言い切る理由は——(構成:篠藤ゆり 撮影:大河内禎)

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生まれながらの運不運はある


毎年、歳末になると一年を振り返り、今年は運がよかったか悪かったかを考えます。そして年が明けてお正月におみくじを引き、大吉だとなんとなく嬉しいし、凶が出るとやはり少々がっかりもする。

2024年を振り返ると、自分にとっては幸運な年でした。年齢なりの体の不調はあるものの、無事に92歳を迎え、小さいものも含めて8本ある連載を1回も休まなかった。この年齢になっても仕事を中断せずにすんだのですから、運がよかったと言ってもいいでしょう。

「禍福は糾(あざな)える縄の如(ごと)し」という古い言葉があります。「いやあ、すごいラッキーだな」と思っていたら、一転してそれが不運な出来事に変わる。まずいことをしたと後悔していたら、それが逆にいいほうに転ぶこともある。確かに世の中は、そういうことが多々起きるものです。

僕らの世代は、大人のたしなみとしてよく麻雀をやりましたが、ツイている時はどんどんいい手が来ます。ところがツイていない時は、どうやってもうまくいかない。

もちろん腕を磨くこともできますが、どんなに上手な人でもツキに見放されることがあり、そういう時はほかのツイている人が役満を何度もツモったりする。僕なんかはいつも運に任せる打ち方で、皆から笑われていましたけどね(笑)。

「ツイている」「ツイていない」とはどういうことなのか。大袈裟ではなく、人類永遠の謎でありテーマのような気がします。

生まれながらの運不運があるのも事実です。日本は昨今、格差社会が固定化しつつあります。数年前、「親ガチャ」なんていう言葉が流行りましたね。裕福な家庭に生まれるか貧困家庭に生まれるかで、その後の人生が決まるような面もある。

さらに国を超えて考えると、例えば日本に生まれるのかガザに生まれるのかで、運命は大きく変わってしまう。

日本経済は凋落傾向にあり、精神的に不安感や不幸感を抱いている人が多いとはいえ、幸いコンビニで気軽に食べ物を買ったり、自由にエンターテインメントを楽しんだりすることもできます。

一方で世界には爆撃にさらされている国があるし、子どもたちが飢えや感染症で死んでゆき、そこいらに死体がゴロゴロ転がっている現実がある。どの国のどんな家庭に生まれるかは、自分で選択したことではありません。逆らいようのない運命なのです。

加えて、どのような資質を持って生まれてくるかも、努力でどうにかなるものではないと思っています。少々極端な喩えですが、ドジャースの大谷翔平選手は、体格にも健康にも運動神経にも恵まれて生まれてきた。

もちろん人一倍の努力もしているでしょうけれど、「努力できる性格」というのも持って生まれたものだと思います。しかも彼はいい気にならず、謙虚です。

そういう意味では、すべての「幸運」をまとってこの世に生まれ落ちた、強運の持ち主と言ってもいいかもしれません。


(写真:stock.adobe.com)

運命を受け入れるか、声を上げるか


僕は、運不運とは非常に不合理かつ不条理なもので、人間の知恵で左右できるものではないと考えています。だから「こうすれば開運する」といった指南もあまり信じていませんし、「気の持ちようで運が開ける」といった言説にも懐疑的です。要は、根っからの悲観論者なのでしょう。

でも、僕には昔から「悲観論者だからこその楽観主義」みたいなところがあります。最初から世の中は不合理でひどいことが起きるものだと考えているから、何があってもさほど泣き喚いたり落ち込んだりしない。そしてちょっといいことがあると、「なんてラッキーなんだろう」と、幸せを感じることができるのです。

僕のルーツである福岡では、運が悪いことを「符(ふ)が悪い」と言います。何かあっても「符が悪かね」の一言で、ある意味解決してしまう。

世の中に運不運というものがあると思っているからこそ、「なぜ自分がこんな目に遭うんだ」と憤るのではなく、まあしょうがない、と許せるのでしょう。「符が悪かったばい」でなんとなくやり過ごすのも、人生を乗り切る知恵と言っていいかもしれません。

また、運命を享受したうえで生き方を見つけよ、といった意味合いで、「置かれた場所で咲きなさい」などと言われることもあります。

仏教でも「吾唯知足(われただ足ることを知る)」という言葉があり、満足する心を持ちながら日々を過ごすのもひとつの生き方でしょう。僕も「なるほど、一理あるなあ」と思ったりします。

と同時に、「冗談じゃない」とも思ってしまう。「自足して生きていけ」という考え方は、ある意味で格差社会を認めることにもなります。

僕らが若い頃は、デモが盛んでした。しかし日本では今や、メーデーのデモもほとんど見られません。僕は、時には怒りの声を上げることも大事だと思うんです。

運命を受け入れることと社会の理不尽に怒ること、どちらがいいとか悪いとかではありません。各々が物事を一面的ではなく多面的にとらえ、自分で選択していくことが必要なのではないでしょうか。

<後編につづく>

婦人公論.jp

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