『べらぼう』鳥山検校とは?吉原の伝説の花魁、五代目瀬川(花の井)を大金で身請け、その蓄財、瀬川とのその後
2025年2月24日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
大河ドラマ『べらぼう』第8回「逆襲の『金々先生』」では、小芝風花が演じる五代目・瀬川と、市原隼人が演じる鳥山検校の出会いが描かれた。今回は、この二人を取り上げたい。
松葉屋の瀬川たち
「松葉屋」という遊女屋は吉原に3軒あったが(綜芸書院『錦絵(14)』)、五代目(三代目、あるいは六代目とも)・瀬川がいたのは、江戸町1丁目の松葉屋だったとされる。
向井信夫『江戸文藝叢話』所収「松葉屋瀬川の歴代」によれば、松葉屋の名跡である「瀬川」という妓名は、九代まで続いたという。
九代の瀬川のうち、享保時代(1716〜1736)の瀬川は、親の仇討ちをしたと伝わる(北村一夫『吉原ホログラフィー 江戸・男と女の風俗』)。
三代目とされる瀬川は、踊りや歌、笛、鼓、三味線はもちろんのこと、漢詩の書道や易学にも優れていた。宝暦5年(1755)、御用達の町人・江市屋宗助に落籍されるが、これは名義で、実は大名だったと伝えられる(以上、北村長吉『吉原艶史』)。
なお、宝暦中期より松葉屋の主人の名は「半左衛門」となり、以後、当主は代々、この名を襲名した(向井信夫『江戸文藝叢話』所収「松葉屋瀬川の歴代」)。
四代目の瀬川は、宝暦8年(1758)の吉原細見では筆頭であったが、同年3月に行年19歳で自害したという。
自害が影響したためか、瀬川の名はしばらくの間、途絶えたが、安永4年(1775)秋の蔦重作の吉原細見『籬(まがき)の花』に、五代目・瀬川が登場する。
この五代目・瀬川は、鳥山検校に千四百両(およそ一億四千万円/千両とも)という空前絶後の大金(安藤優一郎監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』)で身請けされ、江戸中の話題をさらっている。
鳥山検校の蓄財は?
検校とは、盲人の職能団体「当道座(とうどうざ)」に制定された四官(検校、別当、勾当、座頭)の最高位である。
検校の官位を得るためには、千両もの大金が必要だったとされるが、検校になれば、紫衣が許され、相当額の配当金を受け取ることも、将軍に謁見することも時と場合によっては可能だったという(大隈三好箸 生瀬克己補訂『盲人の生活 生活史叢書34』)。
また、幕府は盲人の保護策として、金貸業を認めていた(八剣浩太郎『銭の歴史増補改訂版』)。
当道座中の者が貸し付けた金銭は、「座頭金」と通称され、生活に困窮する旗本や御家人、財政状況の厳しい大名などが借り手となった。
座頭金は「利息の月踊り」と称されるほど利息が高く、取立も言葉にできないほど厳しく、世間の悪評を買ったが、幕府は事実上、黙認していたという(以上、大隈三好箸 生瀬克己補訂『盲人の生活(生活史叢書34)』)。
こうして、高利貸しで巨万の富を得た上層の盲人たちは、吉原で湯水のごとく金を使った。金融を主業とした鳥山検校も、その一人であった。
鳥山検校の蓄財は一万五千両だったとされ(高柳金芳『江戸時代御家人の生活(生活史叢書12)』)、前述したように、安永4年(1775)、五代目・瀬川を身請けしている。
洒落本『契情買虎之巻(けいせいかいとらのまき)』
安永7年(1778)正月に刊行された、田螺金魚(たにしきんぎょ)著の洒落本『契情買虎之巻』は、松葉屋は「松田屋」、鳥山検校は「桐山大尽」と名前は少し違うが、五代目・瀬川の身請け事件をモデルにしたといわれている。
『契情買虎之巻』の概要は、以下の通りだ。
16歳の千石を領する者の娘・おやゑが、18歳の美少年で二千石の家の末息子・生駒幸次郎と相思相愛の仲となるも、親の反対にあい、駆け落ちする。
ところが、幸次郎は病に罹ってしまう。
おやゑは幸次郎の治療費を得るため、吉原の松田屋で遊女となり、瀬川と称した。
しかし、幸次郎は若くして、この世を去っている。
その後、幸次郎に生き写しの客・五郷と馴染んだが、五郷は養母の奸計により、座敷牢に閉じ込められ、吉原通いを止めさせられた。
そんな時、金融業の桐山大尽が現われ、瀬川を強引に身請けする。
だが、瀬川は身請けされても、桐山大尽の意に従わなかった。
桐山大尽の従者・軍次は、「五郷に会わせてやる」と欺き、瀬川を誘い出す。
軍次も瀬川に手を出そうとするが、瀬川はきっぱりと拒絶した。
すると、軍次は「五郷は死んだ」と偽りを告げる。
だが、瀬川はこれを信じた。
瀬川はショックのあまり、身ごもっていた五郷の子を産み落とし、息絶えてしまう。
そして、亡霊となって五郷のもとに現われ、二人の間に誕生した子を託すのだった。
この『契情買虎之巻』は、後世、人情本の祖と謳われる。
身請けからの瀬川のその後
現実の世界では、瀬川の身請けから3年後の安永7年(1778)7月、借金の返済に行き詰まり、旗本の森忠右衛門夫妻と、その子・虎太郎夫妻の4人が、出奔するという事件が起きている。
その後、森忠右衛門・虎太郎父子は自首し、取り調べにあたり、座頭金の高い金利や厳しい取立の実態を白日の下にさらした。
すると、鳥山検校らが一斉に検挙され、鳥山検校には遠島の処分が下された。
瀬川は鳥山検校と別れて、飯沼某という武家の妻となり、二人の子を産んだ。
夫が亡くなると、大工の結城屋八五郎と通じて妻となるも、最後には尼になったと伝えられる(以上、伊原敏郎著 河竹繁俊・吉田暎二編集『歌舞伎年表第4巻(明和三年-天明四年)』)。
なお、鳥山検校は寛政3年(1791)に、帰官している。
ドラマの瀬川と鳥山検校の関係は、どのように描かれるのだろうか。
瀬川と鳥山検校も、幸せになってほしいと願うばかりである。
筆者:鷹橋 忍