寛政の改革を推進した老中・松平定信の生涯、自分の体験を生かした「教育論」

2025年3月17日(月)5時45分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

「幼い時に褒め過ぎるのは、悪しきこと」

 松平定信は、江戸時代後期の大名であり、徳川幕府の老中を務めた人物であります。高校の教科書などにも定信の名や事績が紹介されますので、その名を覚えている人も多いのではないでしょうか。いわゆる「寛政の改革」を推進した人物として、諸書に登場する定信。しかし、定信の改革は「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)というて 寝てもいられず」「白河の清き流れに住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌で茶化されたことでも有名です。

 それでは、その定信の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。定信のリーダーとしての精神がよく分かる自叙伝『宇下人言』を中心に見ていきましょう。

 定信は宝暦8年(1758)に生まれます。父は田安宗武。宗武は8代将軍・徳川吉宗の子です。つまり、定信は将軍吉宗の孫に当たるのです。定信の母は、山村氏の娘(香詮院)。宗武の側室でした。宗武の子として生まれた定信ですが、宗武には他にも子女が多くいました。例えば、後に田安家当主となる治察。治察は宗武の5男です。母は、宗武の正室・宝蓮院(公家・近衛家久の娘)。宗武の6男は、定国。母は定信と同じ香詮院。定国は後に伊予国松山藩主となります。そして、本稿の主人公・定信は宗武の7男でした。定国は定信のすぐ上の同母兄、治察は異母兄ということです。

 さて、宝暦8年に生まれた定信(幼名は賢丸)ですが、生まれてすぐは「虚弱」だったようです。無事に生育するか分からないような状態でしたが、医師からの「灸薬」のお陰で成長することができたと定信自身は記しています。定信が言うには、6歳の時にも「大病」を経験。多くの医師の診療により助かったといいます。7歳の頃には「仮名」などを習い始めた定信。8歳や9歳頃になると、周りの人々が「賢丸様は記憶も良く、才能もありますな」と頻りに誉めてきたとのこと。よって、定信自身もその時はそう思い込んでいたようです。が、その後、書物を指導のもと読み進めても、覚えることができなかったことから、定信は次のような思いに達します。

「人々が誉めていたのは、へつらいや阿(おもね)りだったのだな。私は実は不才であり、記憶力も良くない」と。そのような結論に達したのが、8歳か9歳頃だったといいます。そうした経験から、定信は「(子供が)幼い時に褒め過ぎるのは、悪しきこと」と述べています。褒めすぎると、慢心や誤解が生まれ、碌なことはないと感じたからでしょう。それは子供の教育のみならず、会社の新人教育にも言えることかもしれません。


「1日、怒りの感情なく暮らしたい」

「不才・不記憶」を悟った定信ですが、10歳の頃には「名を代々に高くして、日本や唐土(もろこし)にも名声を得たい」との思いに駆られたようです。「不才・不記憶」を思い知ったならば、自己肯定感が低下するようにも思いますが、そうはならなかったところが、定信の偉いところです。しかし、定信は後に先述の野望を「大志のように見えるが、とても愚かなことだ」と述懐しています。

 12歳の時、定信は「自教鑑」という書物を書きます。人間の守るべきモラルとは何か、君主はどのように政治を行うべきかという義務などについて触れた書物でした。

 勉学のみならず、弓・馬・剣術なども少年時代に習います。名家の出であるので、何事も自由に好きなように振る舞えたように思いますが、そうではありません。煙草を好んでも、定信によると「14・5歳にならねば許され」なかったようです。着用する衣・袴の類も「あれが着たい」と思っても、それも禁止。鼻紙を入れる袋が欲しいと思っても「まだその年齢に達していない」と言う理由で、所持を許されませんでした。よって、定信は乳母に密かに代用の袋を作らせたようです。 

 さて、明和8年(1771)、父・宗武が病没します。宗武の後継は、5男の治察となりました。治察は、定信の異母兄でしたが、定信のことをよく想い、可愛がってくれたようです。だが、その頃、定信はちょっとしたことで人を叱ったり、怒ったりする「短気」な性質となっていました。「1日、怒りの感情なく暮らしたい」と思うこともあったようですが、その頃はなぜかそれができない状態だったようです。

 幼少より定信に近侍する水野為長は、定信を日々諌めたとのことですが、すぐに効果はなかったとのこと。しかし、定信18歳の頃になると、怒りの感情が鎮まってきたようです。定信はそれを「左右の直言があったからだ」と述べています。つまり、側近の諫言の賜物と言っているのです。身近に親身になって意見してくれる人がいることの大切さがよく分かります。

筆者:濱田 浩一郎

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