独自の調理法《そうめんゆでるな!》動画で大バズり。79歳・川原恵美子「そば屋の常連客のすすめがきっかけ。借金苦の人生、料理が心の拠り所に」

2025年4月3日(木)12時30分 婦人公論.jp


「2021年に私独自のそうめんの調理法〈そうめんゆでるな!〉を紹介すると、若い人は《バズる》と言うんですか、再生回数が飛躍的に伸びたのです」川原恵美子さん(写真提供:川原さん)

個性的なそうめんの調理法を伝える動画が話題になった川原恵美子さん。朗らかな笑顔やおっとりした口調が魅力的な川原さんですが、幼い頃から苦労の絶えない人生だったと言います(構成:今津朋子 写真提供:川原さん)

* * * * * * *

初めての投稿動画は再生回数20回


チャンネル名:恵美子さんの料理帖〜川原おばあちゃんの知恵袋〜

香川県仲多度郡まんのう町、田んぼや畑が広がる自然豊かな土地に私の店、「田舎そば川原」があります。還暦を過ぎた頃に開店したので、もう20年近くやっていることになりますね。

今から5年前、74歳のとき、思いがけずユーチューバーになりました。私は子どもの頃から料理が大好き。経済的に恵まれないなかで、お金をかけずおいしく食べる工夫を重ねながら、大家族の家事を切り盛りしてきました。

そうして書きためてきたレシピを次の世代に残したいと考えていたところ、常連客の一人が、ユーチューブで公開することを勧めてくれたのです。

当時はパソコンを持たず携帯もガラケーで、ユーチューブがなんなのかもまったく知りませんでした。でも、「なんだか面白そう!」と思い、その常連さんの力を借りながら、見よう見まねで収録したのです。

最初の動画は「みょうがの甘酢漬け」で、再生回数は20ほど。私は20人もの人が見てくれたことが嬉しくて、漬け物や保存食、煮物、昔ながらのおやつなどの作り方を次々に紹介していったのです。すると再生回数が徐々に増えていきました。

2021年に私独自のそうめんの調理法「そうめんゆでるな!」を紹介すると、若い人は《バズる》と言うんですか、再生回数が飛躍的に伸びたのです。

どのような方法かというと、沸騰した湯にそうめんを入れ、再度沸騰したら、そこで蓋をして火を消して5分待ちます。余熱で火を通して氷水にさらすことで、時間が経ってもくっつかず、粘り気が出ない、おいしいそうめんができるのです。

この動画のおかげであちこちから取材され、レシピ本が出版されたり、テレビに出演したりすることになりました。遠くからおそばを食べにきてくださるお客さまも増え、その方たちと会話するのも楽しい日課になっています。

でも、ここに至るまでにはずいぶん長い道のりがありました。

2歳で両親が離婚。苦難の人生が始まる


私は昭和21(1946)年の生まれ。生家の高尾家は香川県でも5本の指に入る宮大工の棟梁の家です。父と祖父は金刀比羅宮の歴史にも名を刻み、10人ほどの弟子を抱えていました。

父は腕がいいばかりか、頭もよくおまけにハンサム。そうなれば女性が放っておくはずもありません。心の行き違いがあったのでしょうか、両親は私が2歳のとき離婚することになりました。

そこから私の苦労が始まります。母は私を連れ、やはり連れ子のいる農家、川原家へ後妻に入りました。川原家には子どもが3人いて、再婚後、母は5人の子を出産。継父は自分の子ではない私をとても大切にしてくれましたが、血筋の異なるなかで苦労したこともあります。

また、川原の家は表向き広い田畑と多くの屋敷を持っていましたが、継父は酒とギャンブルに溺れていて、内情は借金だらけの火の車。田畑は農協の抵当に入ってしまいました。

母との関係も良好とはいえませんでした。母はあまり家事や育児が得手ではなく、自分の不甲斐なさからか、私にきつくあたりました。今思えば、てきぱきと体が動く娘に、引け目を感じていたのかもしれません。

そのなかで私は小学生の頃から家事をし、弟妹たちの面倒をみながら過ごしました。農業も手伝っていたので、農繁期には学校に通えないことがほとんどでした。家にとって私は貴重な働き手だったので、継父は私が勉強をするのを嫌いました。勉強すれば、大人になったとき家を出ていってしまうと恐れたのでしょう。

小学校高学年のある日、赤子をおぶって、きょうだいの世話をしながら牛小屋で勉強していたときのこと。私は登校したとき困らないよう、家でも欠かさず勉強していたのですが、同級生が給食のパンを届けてくれたのです。

私は、そんな自分の姿を見られるのが恥ずかしく、小屋の隅に隠れてしまいました。いまだに悲しい思い出として心に残り続けています。

中学校卒業後も家の農作業を手伝いながら、アルバイトをしたり、漬け物を作って直売所で売ったりして家計を助けて働きました。

その後、21歳で結婚。相手は川原家の長男です。当時は、継父と先妻の子どもたちは母屋に、私と下の弟妹は別棟に住んでいました。継父が私を長男の嫁にしようとしたのは、働き手としてずっと川原の家に置いておくためです。

私の意見も聞かず、勝手に人生を決められ、すべてが嫌になり、何度も家出をして抵抗しましたが、結局、諦めざるをえませんでした。周囲の人にとって望ましいことが私の生きる道だと、自分に言い聞かせて……。

それは10歳の頃の経験から得た考えです。香川県はため池が多く、幼い頃はみんな大きな池で泳ぎます。ある日、近所の子どもたちと水遊びをしていたとき、一人だけおやつを持ってきていない私は、池に石を投げながら広がる波紋を見て思ったのです。

いいことをしても、悪いことをしても輪は広がる。だったら、自分がいいと思ったことをしていきたい、周囲の人が幸せであれば、自分も幸せになれる、と。

年齢にしては大人びた考え方だと思われるかもしれません。しかし、そう考えないと生きていけないほど厳しい環境のなかにいたのです。


「私の元気の源は、《楽しく考える》こと。つらい時期、もう苦しむのはやめよう、いいほうに物事を考えようと気持ちを切り替えた経験から生まれた、幸せになるための秘訣です」

借金に苦しむなか、料理が心の拠り所に


結婚後は2人の男の子に恵まれます。20代から30代の半ばまでは家事、育児をしながら農業に力を入れていました。当時はまだ珍しかった生食用のブラウンマッシュルームの研究に力を注ぎ、「松茸マッシュ」という品種を開発。講演のために全国を飛び回った時期もあります。

その傍ら、ベビーシッター、編み物講師、介護ヘルパーなどの資格を独学で取り、編み物教室を開いたり、結婚式場や介護施設に勤めたりして、寝る間もなく働きました。

30代半ばのときに継父が亡くなり、借金ごと相続したわが家は、働いて少し返したと思ったら、またお金が必要になり借金をすることの繰り返し。最終的に全額を返済して70アールの田畑をわが家の名義に戻したとき、私は60歳になっていました。

その後まもなく、夫が72歳で亡くなります。私の意に染まない結婚だとわかっていたのか、私のすることには一切異を唱えず、何でもやりたいようにさせてくれました。そのことは心から感謝しています。

その3年後には、母も見送ることに。亡くなる前に一言、「恵美子、すまなんだのう」と言ったのです。その言葉で、母に関するすべての苦労が報われた気がします。

つらい暮らしのなかで私の心の拠り所は料理でした。限られた食材や環境でいかに節約して、家族の食欲を満たすか。野菜は皮や根元も余すところなく使い、調味料も手作り。

幸い、まんのう町はさまざまな作物に恵まれていて、野菜を育てたり、川でフナやモロコを獲って煮たり焼いたり。今でも実った金柑をジャムにしたり、栗を拾って渋皮煮を作ったりと、自然の恵みに助けられています。

燃料も工夫して節約しました。昔は煮炊きするのはかまどでした。薪をくべて米を炊いて、蒸気を見て、頃あいになったら火のある薪を消して取り除いてしまうんです。残ったのある薪で蒸らしたら、米粒が立っておいしくなります。

火を消した薪は七輪に入れて魚を焼いたり、こたつを温めたりするのに使ったり。この余熱を利用する調理法から、そうめんのおいしいゆで方も誕生しました。苦心したことが実を結んだのです。

60歳を過ぎた頃、手打ちそばの店を始めることになりました。私が介護施設に勤めていたお話はしたと思います。利用者さんのお宅に伺ってヘルパーをする訪問介護を担当していましたが、あるお宅でおそばが食べたいというので、何食分か作って冷凍庫に保存しておきました。

香川県は讃岐うどんが有名ですが、このあたりの地域ではそばを栽培する家が多く、私も家でそばを育てていたことがあります。介護施設を辞めた後、私のそばが評判になっていると聞きました。

食べたいと訪ねてくる人にご馳走していると、「そば屋さんを開いたらどうか」という話が自然に持ち上がったのです。「資金がないし……」と言うと、知人が建築現場で不要になった建材を工面してきて、近所の大工さんが店を建ててくれました。テーブルや椅子がどこからともなく運び込まれ、いつの間にかそば店ができたのです。

不思議な話と思われるかもしれませんが、本当のことです。この店は地域のみなさんが作ってくださったもの。大事にしないといけないと感じています。

困難があっても涙を笑いに変えて


現在、動画は週に1度、ユーチューブチャンネル「恵美子さんの料理帖〜川原おばあちゃんの知恵袋〜」で公開しています。同郷の知人に紹介していただいた動画作成のプロが月1回香川に来てくれて、4〜5本分を撮影。1本に2時間ほど必要なので収録は一日がかりです。それを3、4日かけて編集してもらっています。

視聴者さんがどなたでもおいしく作れるように、試作は少なくとも3回するので、撮影準備に4日ほどかかります。季節によっては、公開日に合わせた旬の食材を手に入れるのが難しいことも。なかなか大変な作業ですが、楽しみでもあります。

今も毎朝午前4時からそばを打ち、スタッフが来ると準備をして店を開け、そばを出してお客さまとおしゃべりする暮らしに変わりはありません。でも、ただそば屋さんの店主として過ごしていたら、小さな町の料理好きのおばあちゃんのままで終わっていたと思いますが、ユーチューブで私の世界は驚くほど広がりました。

「漬け物を作ったら家族が喜んだ」「会話が増え、家族円満になった」というコメントをもらえると嬉しくて、励みになります。最近は、遠くからいらしたお客さまや動画を見た方から教えていただいた各地の郷土料理に興味が湧き、私なりに作っています。いつかユーチューブで公開するなどして、もっと研究を深めていきたいです。

私の元気の源は、《楽しく考える》こと。つらい時期、もう苦しむのはやめよう、いいほうに物事を考えようと気持ちを切り替えた経験から生まれた、幸せになるための秘訣です。だからもう、これまでの数々の苦労について細かいことは忘れてしまいました。

みなさんも、困難があっても、涙を笑いに変えて生きていってほしいです。私にとっては今が青春! 体力が続く限り長く料理を紹介し続けて、みなさんに楽しんでいただけたらと思っています。

婦人公論.jp

「そうめん」をもっと詳しく

「そうめん」のニュース

「そうめん」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ