3歳からテレビで観戦、70代の今も大相撲から人生を学ぶ。「昭和の横綱34力士」の特大ポスターから、戦中、戦後の力士を想い平和を願う

2025年4月10日(木)10時30分 婦人公論.jp

2025年は昭和100年。テレビや雑誌でもさまざまな取り組みが行われています。現在発売中の『旅行読売 5月号』のテーマは「いま、会える昭和。」。特別付録に昭和の横綱34力士の特大ポスターが。昭和の相撲を両親とともに見続けてきたしろぼしさんの感想は…。

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前回「大相撲春場所10日目、新横綱・豊昇龍休場。1敗は初優勝が期待される35歳の前頭4枚目・高安、2敗は大関・大の里、平幕の尊富士と美ノ海」はこちら

雑誌の付録が楽しみだった


小・中学生の頃、雑誌の付録が楽しみだった。最近は、大人が読む雑誌もゴムで留めたり、縛ったりして付録がついている。

先日、付録を見て「すごすぎる!」と感じたのが、「いま、会える昭和。」を特集にした『旅行読売 2025年5月号』(発行・旅行読売出版社)の特別付録『日本相撲協会100周年記念 「昭和の横綱」特大ポスター』だ。


『旅行読売 2025年5月号』(出版社:旅行読売出版社)

付録は、縦68cm×横103cmの用紙の表裏に、宮城山(第29代)から大乃国(第62代、現在の芝田山親方)までの34人の力士が、化粧廻しに純白の綱を締めて凛々しく立つ写真が掲載されている。テーブルに広げ、その神々しさに柏手を打った。そして、壁に貼ろうとして「いや待てよ」と思った。

私は幼い頃、国技館で初めて大相撲観戦をして、初代の若乃花(第45代)が勝ち、支度部屋に引きあげて行く姿に、「強さの美」を感じて大相撲ファンになった。中学生の時には、土俵の上に力士の人生があることに気づき、70代に突入しても大相撲から人生を学んでいる。このポスターから横綱たちの人生の重みをひしひしと感じ、我が家の汚れた壁に貼るのが、申し訳ない気がしてきた。

3歳くらいから大相撲をテレビ観戦


大相撲のテレビ放送が始まったのは昭和28年5月。同年4月に、この世に姿を現した私は、3歳くらいから大相撲をテレビ観戦していた記憶がある。

私の父は大正7年に東京都墨田区(旧本所区)、母は昭和2年に東京都江東区(旧深川区)で生まれ育った。母の実家の近くには、相撲部屋や結婚した力士の自宅が多かった。大相撲のラジオ放送はNHKで昭和3年1月から開始したので、それぞれ大相撲のラジオ放送を聴いていた。2人は戦後に初めて出会ったが、お互いの実家が空襲で全焼したので、結婚後は浅草の近くに住むことになった。

母の父親も大相撲ファンで、自宅と仕事場(印刷業)が同じで、仕事が休みの日は、友人の分まで自分でおむすびをにぎって、国技館にでかけて大相撲を観戦。母は、両親の出身地である新潟から親戚が来ると、大相撲観戦に連れて行くという重大な任務を果たしていた。

今年の春場所、大関・大の里と前頭4枚目・高安が優勝決定戦をする前に、支度部屋の様子がテレビに映り、壁に「ステテコシャツで仕度部屋から出ないこと」という張り紙があった。力士としてのキチンとした姿で外に出ろということだ。

母は子どもの頃、医院から幕内力士が着物を抱えて上半身裸で出てきて、道路で着物を着ているのをよく見かけた。浴衣をひっかけて、荒縄を帯にして闊歩する力士もいた。本場所が年2場所の時代に史上初の69連勝をした双葉山(第35代)だけは、いつもキチンと着物を着て、『横綱の品格』のオーラを放って歩いていたそうだ。

母は東京大空襲で火の粉の中を逃げている時に、国技館が燃えているのを見て、「日本はもうだめだ」と思い、力が抜けた。しかし、弟がラジオ(いまのような小型のではない)を抱えていたので、「コンセントさえあれば相撲放送が聴ける日が来る」と気を取り直し、再び火の粉の中を必死で逃げた。

横綱の話をいろいろしていた


私が大相撲のテレビを見ていると、両親は私が聞いたことがない四股名の横綱の話をいろいろしていた。相撲史に残らない街の噂のような話もあった。

今年の春場所、新序一番出世を受けた山野邊(15歳、出羽海部屋)の高祖父は常ノ花(第31代)だ。父からは常ノ花の櫓投げ、母からは常ノ花は引退後、出羽海親方となり、戦中・戦後の混乱期に理事長として大相撲の再建に尽くしたことを聞いた。

今年の春場所に、解説の舞の海さんが、照國(第38代)という力士がいて、色白で相撲を取っていると体が上気して赤くなるので「桜色の音楽」と言われていたと話していた。照國の横綱土俵入りを知っている母は、土俵入りで体がだんだん赤くなり「桜色の音楽」そのものと言っていた。


表裏で34人の凛々しい横綱の姿を鑑賞できる(撮影:本社写真部)

私が大相撲を知ったのは、栃錦(第44代)と若乃花が活躍した大相撲の黄金期。母は若乃花のファンで父は栃錦のファン。栃錦と若乃花の対戦の時は、父は友人の家とかに行ってしまい、母と一緒にテレビを見ることがなかった。気まずくなるのが嫌だったのだろう。父が帰ってくると、勝敗に関わらず、お互いに無言で、兄も私も子ども心に「離婚だな」と思った。母は栃錦に限らず、若乃花が負けると夕食を作る気力がなくなり、蕎麦屋に電話をしていた。

昭和の横綱たちの人生


私は、小学校も中学校も自宅の近くだったので、大相撲のテレビ放送の時間に間に合った。子どもが好きなのは「巨人、大鵬、卵焼き」と言われていたが、巨人のことは兄にまかせて、母には「卵焼きよりも目玉焼きが好きだ」と言い、大鵬(第48代)とライバルの柏戸(第47代)の相撲に集中、腕組みをして偉そうに観ていた。

玉の海(第51代)と北の富士(第52代)もライバル。私は玉の海のファンだったので、27歳という若さで亡くなった時は、悲しくて普段からしない勉強がさらにできなくなった。雲龍型の土俵入りをしていた北の富士が、巡業で、亡くなった玉の海の代わりに不知火型の土俵入りをした話には、激涙した。

千代の富士(第58代)が連勝をしている時は、私は百貨店の担当記者だったので、広報室に資料をもらいに行くのは自宅への帰りがけと決め、百貨店内の家電売場でテレビを見ていた。そこには、千代の富士の連勝を祈る人たちが集まっていた。連勝は大乃国により53で止まり、ドラマチック過ぎた。その千代の富士は61歳で亡くなった。

昭和の横綱たちの人生を想うと、この貴重なポスターは、壁に貼らずに、私の財産である千代の富士や横綱になれなかった角界のプリンスと呼ばれた大関・貴ノ花様(崇拝の最高ランクなので「様」をつけている)などの特集雑誌や書籍が入った『相撲箱』に保存することにした。

令和の第74代横綱・豊昇龍はどんな相撲人生を歩むのだろうか?その次の横綱はどんなドラマを繰り広げるのだろうか?平和な世の中で、横綱の堂々たる姿を見たいものだ。

※「しろぼしマーサ」誕生のきっかけとなった読者体験手記「初代若乃花に魅せられ相撲ファン歴60年。来世こそ男に生まれ変わって大横綱になりたい」はこちら

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