島崎今日子「富岡多惠子の革命」【14】『男流文学論』誕生

2025年4月22日(火)6時0分 婦人公論.jp


「男流文学論」を出したころ(中央公論新社、1993年撮影)

戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

* * * * * * *

ウーマンリブからフェミニズムへ


 1980年代は、ウーマンリブに代わってフェミニズムという言葉が流通した時代である。86年に男女雇用機会均等法が施行され、87年にはそれを背景に、林真理子と中野翠が週刊誌のコラムで子どもをテレビ局に同伴するアグネス・チャンへの違和感を表明したところ、働く母親の子連れ出勤をめぐる議論「アグネス論争」が勃発した。フェミニズム本も次々と出版され、88年暮れには、JICC出版局(現・宝島社)から『わかりたいあなたのためのフェミニズム・入門』なるムック本が発売される。
 そうした動きのなかで昭和から平成になったころ、筑摩書房にいた藤本由香里(現・明治大学教授)は、先輩編集者の間宮幹彦から声をかけられた。
「これ、藤本さんがやってくれないか」
 それは間宮が担当する作家、富岡多惠子から男性作家の作品を読み直す読書会をやりたいと打診された企画だった。間宮は、82年の『室生犀星』を編集して以来、富岡が全幅の信頼を寄せる編集者だが、企画意図を踏まえて藤本に託したのだ。文壇に石を投げることになる『男流文学論』のはじまりである。
〈これによって、いよいよ、この巧妙な文学的性差別表現(注・女流)が、日本における一般的討論の場へ「引きずり出された」のである〉(『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』2018年)
 発刊から35年後に、そう『男流文学論』を位置づけたのは、イルメラ日地谷キルシュネライト。86年9月2日の朝日新聞夕刊に、「正統に扱われぬ現状」という見出しがついた「“女流文学”が文学になる日」を寄稿し、「女流」という表現が内包する問題を鋭く喚起していたドイツ人の日本文学研究者である。
 キルシュネライトは、82年から88年にかけて日本の14人の女性作家へインタビューしており、36年後にそれをまとめて、『〈女流放談〉昭和を生きた女性作家たち』を出版している。佐多稲子、円地文子、河野多惠子、石牟礼道子、田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島祐子、金井美恵子、中山千夏、そして出版時にインタビューしたという瀬戸内寂聴が「女性作家として書き続けること」を忌憚なく語って、すこぶる面白い。インタビューには応じたが収録されなかった作家もいて、なかに他界していた森茉莉や有吉佐和子と並んで、富岡多惠子もいた。なぜ存命だった富岡が収録を断ったかは不明だが、キルシュネライトによる巻末のエッセイにはこうあった。
〈作家たちのほとんどが、「女流文学」という表現に対しては不快感をあらわしていた。彼女たちは、言葉自体がすでに偏見を含んでいるこの表現によって、自動的に狭いコルセットに押し込まれてしまうことを嫌っていた〉(同)
 無論、富岡はその筆頭であったろう。インタビューから2年後に刊行された著書に書いている。

〈わたしは「女流」というコトバを「ごく自然に」使っているひとを、男女に限らずあまり信用していない。「女流」の「流」とは「類」の意味であり、「女流」は意味的には「女類」であるが、もちろんそれが「女流」となって通用していることには社会的意味が付帯している〉(『藤の衣に麻の衾』1984年)

女の芸術家を入れるゲットー


 作家は、その社会的意味を、88年1月から12月までの1年間担当した朝日新聞の文芸時評で、定義する。

〈「女流」という言葉は女の芸術家を入れるゲットー(収容所)として用いられてきた〉(「朝日新聞」1988年3月28日夕刊)

 朝日新聞に文芸時評という欄が登場した1928(昭和3)年から女性の評者はまれではあったものの、32年1月に中條百合子(のちの宮本百合子)が4回連続で、33年5月から6月にかけては神近市子が4回連続で書いていた。ともに日本女性史に名前が刻まれる作家だが、戦後も、55年3月に平林たい子が1度書いている。以上の時期は評者が頻繁に代わっており、年間を通してひとりの評者が書くスタイルが定着していく56年以降、女性評者は83年〜84年の河野多惠子に続いて、88年の富岡がふたりめであった。
 87年には、1935年の設立以来、芥川賞・直木賞にはじめて4人の女性選考委員が誕生していたが、まだ評論は男の牙城で、出版界には朝日新聞に載れば1000部増刷が約束されたようなものだという「朝日1000部」なる言葉があった時代。朝日新聞の文芸時評はつまりは文壇注視の場所であったのだが、そこで書きはじめて3月めに、富岡は、『吉本隆明全対談集』第3巻の後書きにある「女流」という言葉を標的に、全共闘世代が崇拝する吉本を痛烈に批判したのである。そして、吉本批判の文を、88年1月に刊行された織田元子の『フェミニズム批評』と、「ユリイカ」で連載がはじまった三枝和子の「恋愛小説の陥穽」を紹介して、〈遅ればせながらこの国の文学批評に変化を予感させる〉(同)と結んだ。
 それまで漠然とあった『男流文学論』の構想が具体的になったのはこの時期ではないか。
既に、文芸誌に連載中の随筆でも考察していた。

〈文学が、人間を性的差別することに加担してきたといえば奇妙に感じられるかもしれないが、女性自身の意識をつくりあげるのに文学は大きな働きをしてきたからである。女性が文学から受けとり自己培養してきた女性像は、男性による女性像であった」(『表現の風景』1985年)

 漱石、荷風、谷崎、川端、三島など、日本の近代文学を代表する男性作家の恋愛小説をフェミニズムの視点で批評する「恋愛小説の陥穽」は連載早々から評判を呼んでおり、富岡も刺激を受けたに違いない。三枝和子は、連載がスタートした時期に富岡と顔を合わせていたことを、88年12月に行われたキルシュネライトのインタビューで語っている。
〈「あなた、やり始めたわね」と言われました。彼女は文芸時評をやっているので、かなり風当たりが強いようです。そのときは「お互い負けずに頑張ろう」と言って握手をしましたけれどね(笑)〉(『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』)
 フェミニズム批評の嚆矢は、ケイト・ミレットが『性の政治学』(1970年)で展開したD・H・ローレンス、ヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラー論。日本では78年に駒尺喜美の『魔女の論理』、83年に水田宗子(みずた・のりこ)の『ヒロインからヒーローへ 女性の自我と表現』、85年に黒澤亜里子の『女の首 逆光の「智恵子抄」』の先駆的な仕事があり、女性学の研究者たちも参入しつつあったこの時期は、いわばフェミニズム批評の勃興期であった。
 とはいえ、男性の独壇場であった文学批評の世界へ女性作家が切り込んでいく大変さは文芸時評で実感したろうに。これまでリブやフェミニズムの運動から距離を置いてきた作家が、そこへ足を踏み入れるには相当の覚悟がいったはずだ。
『富岡多惠子集6』の月報で、文芸時評の最後の原稿を渡したその日に伊東へ家を見に行き、〈こんな遠いところ絶対嫌だと思いながら見て、ここ買いますって、すぐ〉とその日に引っ越しを決めた、と語っている。作家は引っ越しや旅行を、鬱を回避するかっこうの手段としてきたが、『男流文学論』もそんな気分ではじめたのではないか。

ふたりの伴走者


 富岡は、この危険な試みの伴走者にふたりのフェミニストを選ぶ。作家が担当する文芸時評の最後の月、12月の文章にそのふたりの名前があった。 
 ひとりは、社会学者の上野千鶴子である。
『藤の衣に麻の衾』執筆のきっかけのひとつが、まだ出版デビュー間もない上野が書いた『主婦論争を読むⅡ』に触発されたからで、大学院時代に俳句をやって富岡の詩のファンだったという学者と、このときに知り合っていた。85年の三枝を交えた文芸誌の鼎談(「男が変るとき」「新潮」12月号)で文学とフェミニズムを語り合い、親しくなったのは89年3月開催の水田宗子が主宰する環太平洋女性学会議シンポジウムにともに登壇し、そのあと水田の家に一緒に招かれたころからだ。
 上野が担当編集者だった藤本から読書会の話を打診されたのは、それから間もなくのこと。話を聞いて思わず電話口で「本当か」と藤本に質した、と記憶を辿る。
「なんと無謀な、蛮勇ではないかと思いました。女の評者が男の書いたものを『この作品はつまらない』と言った瞬間に、『君には文学がわからない』と言われた時代です。私は門外漢だから『上野千鶴子は文学がわからない』と言われても痛くも痒くもないけれど、文学というのは富岡さんの主戦場、瞬間的に彼女は業界的になかなか厳しいところに立つと思った。本人の口から聞くまでは判断できないので、すぐに電話をかけて、『本気ですか。これは富岡さんにとってかなりリスクを冒すことになりますよ』と聞きました。そうしたら、本気だっておっしゃった。私が彼女の盾にならなきゃと、引き受けたんです」
 もうひとりの伴走者は、宝島のムック「わかりたいあなたのためにフェミニズム・入門」で上野と「日本のフェミニズムはいま、どうなっているのか?」を議論した心理学者の小倉千加子である。富岡は、小倉が『松田聖子論』(1989年)を出すと文芸誌の対談に招き、そこで、これまで損だと思い、恥ずかしくもあって距離をとってきたフェミニズムとようやく向かい合うときがきた、と語った。

〈敵をやっつけるにはどうしたらいいかとは考えます〉〈ひっくり返すにはどうしたらいいかとは思います。それは「あっち側の人」の人たちもですが、むしろその人たちが慣れ親しみ安住し、それが多くのひとを苦しめている考えやシステムに対してです〉(「文学界」1989年5月号)

 箕面(みのお)という同じ土地、しかもごく近所で育った大阪人同士ということもあり、ふたりはすぐに打ち解けたが、対談後、富岡から小倉にある電話がかかってきた。
「富岡さんとは電話でおしゃべりすることも多かったんですが、それがいただいた最初の電話ですね。突然、『あんた、三島由紀夫、どう思う?』と聞かれて。『どう思うもこう思うも、ほとんど読んだことありませんもん』と言うと、『ほんなら、読んだらよろし』と言われてしまいました。はぁ〜、読書会なんて面倒なことになったなというのが正直なところでしたが、富岡さんに言われたからにはやらないわけにはいかない。そうしたら、毎回毎回、藤本さんから段ボール2個ぐらいの資料が届いて、その量に押しつぶされそうでした」
 上野も、編集者の周到な準備に言及した。
「文芸評論家の斎藤美奈子さんに『女の井戸端会議』なんて言われて軽く見られましたが、どれだけの準備をしたか。藤本さんが徹底的に資料を蒐集して、その量に富岡さんも小倉さんも、ちょっと読めないと言っていたくらいです。全部読んだのは、3人のなかでは私だけじゃないかな」

忘れられない三島の姿


 企画がスタートした当初、富岡は54歳で、上野は41歳、小倉は37歳、藤本は筑摩に入社して6、7年目で、まだ20代だった。87年に上野の『〈私〉探しゲーム』をつくってヒットさせていた藤本だが、『男流文学論』ほど面白くて大変な仕事はなかなかないと、振り返った。
「男性作家の誰を取り上げるか。今からの言い方になりますが、評論家が男性ばかりだから男性作家の小説が男性の目から見た評価になってしまっていた。そうした語られ方に異議を唱えたいということで始まったわけですが、最初に名前が挙がったのが、評論家がこぞって讃える吉行淳之介でした。その他に誰を選ぶか、どの作品を取り上げるかは、私も含めて4人が候補を出し合い、話し合って決めていきました。取り上げる作家と作品が決まると、筑摩の先輩に教えてもらった文学研究の目録や、大宅文庫の総目録などをあたって資料をピックアップして、私は毎日のように国会図書館に通い、資料をコピーしました。あのころの国会図書館は、本当に待ち時間が長くて。でも、めちゃくちゃ面白かった。面白くないはずがないじゃないですか」
 筑摩の会議室からはじまり、ときには京都や伊東に出かけて、ひとりの作家につき3時間は費やした。そこで藤本が印象に残った富岡の姿がある。
「誰のときだったか。上野さんが最初に核心を指摘する発言をすると、富岡さんは『あんたなぁ、そんなに最初に核心から入ったらあかんのや。こういうのは徐々に徐々に積み重ねていってそこに迫るようにするもんなんや』とおっしゃったんです。富岡さんは魅力的で、懐が広くて深い方でした」
 もうひとつ忘れられないのは、三島由紀夫を語って、〈かわいそう〉と繰り返したことだ。
『男流文学論』で富岡が話したエピソードは、みんなが軍歌を歌って盛り上がっているところに三島由紀夫が来て、めでたい謡曲を歌ってひとり運転手つきの車で東京へ帰っていったという昔の思い出話。これは、64年か65年の正月、鎌倉の澁澤龍彦の家での出来事である。澁澤の妻であった矢川澄子が、「三島由紀夫何者ぞ」という富岡や池田満寿夫たちの前に三島が現れて、そこに馴染むために涙ぐましい努力をしたこと、富岡がひどく酔っていたことを記している。どんなに酔っていても、富岡には忘れられない三島の姿だったのである。


1990年ころ、出身校の箕面中学校(現・箕面市立第一中学校)の前で(写真提供:菅木志雄氏)
戦後の文壇史的事件

 89年11月、読書会がはじまった。小倉は気が重たかったものの、はじまってみればそれは楽しい時間となった。
「富岡さんや上野さんとのかけあいは面白かったし、論じた内容もタブーに斬り込んでいくから刺激的だった。でも、最初から核心をついて、速射砲のようにしゃべりまくる上野さんと富岡さんの作家ならではの見解の前にはなにも言うことはなく、富岡さんに『私は、これでいいでしょうか』と聞いたことがありました。そうしたら、富岡さんは『いいんです、いいんです。なんせかしまし娘やから、3人いる』って」
 上野も、読書会は楽しかった。
「3人で話すのは、本当に面白かった。島尾敏雄のところで、私と小倉さんがロールプレイやってるでしょ。ああいうところは、とても笑えますよね。男がやっている対談や座談会となにが違うかというと、ひとりひとりの発言が短くて、しっかり対話になっているところです。男のはモノローグでしょ。3人が関西のノリでちゃんとかみあった女のトークをやった。今でもいい組み合わせだったと思いますよ」
 この時期、まだパソコンは普及しておらず、藤本はワープロも使っていなかった。対談を文字に起こして印刷したものを短冊にして切り貼りし、まとめていった。そのうえで取り上げられた作品の梗概を書き、詳細な脚注を付けた。
「あらすじを書くのは大変でした。語られていることにちゃんと届くように書かなければならないし、しかも長く書くわけにはいかない。あんなに難しいとは思ってませんでした」
 最初の読書会から3年が過ぎた92年1月、『男流文学論』は、世に放たれた。この間、富岡は引っ越しの大変さもあってひどい鬱になっていた。
 文芸評論家の斎藤美奈子は、5年後に出た文庫版の解説で、その朝、新聞広告を見て、10時の開店時間を待って本屋に走ったと綴った。
『男流文学論』の刊行は戦後文壇史的事件になったと、上野は言う。『恋愛小説の陥穽』は物故者の男性作家を対象にしていたが、こちらは現存する作家、しかも文壇の中心にいた吉行淳之介や、ミリオン作家の村上春樹も論じたからだ。
「でも、私と小倉さんのふたりだけなら、決して事件にならなかった。なったのは、富岡多惠子が入っていたからです」
『男流文学論』の刊行と同時に、文壇は騒然となった。

※次回は5月1日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

婦人公論.jp

「文学」をもっと詳しく

「文学」のニュース

「文学」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ