本郷和人 武田信玄の失敗は「北信濃10万石に10年も費やしてしまった」こと…信玄・晩年の領土規模<約60万石>を信長は20代で達成していたという事実【2025編集部セレクション】
2025年4月22日(火)12時30分 婦人公論.jp
東京大学資料編纂所・本郷和人先生が分析する「武田信玄の失敗」とはーー(写真提供:Photo AC)
2024年上半期(1月〜6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年01月31日)
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2023年に放映された大河ドラマ『どうする家康』。家康は当時としてはかなりの長寿と言える75歳でこの世を去っています。「家康が一般的な戦国武将のように50歳前後で死んでいたら、日本は大きく変わっていた」と話すのが東京大学史料編纂所・本郷和人先生です。歴史学に“もしも”がないのが常識とは言え「あの時失敗していたら」「失敗していなければ」歴史が大きく変わっていたと思われる事象は多く存在するそう。その意味で「武田信玄のとある失敗」が歴史に与えた影響は絶大だったそうで——。
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国へのこだわりに絡め取られた信玄
前回、武田信玄最大の失敗「長男・義信の自死」について触れました。
もうひとつ、これは失敗ということではないのですが、信長と比較して、信玄は「国」という単位にこだわり過ぎた気がします。
信玄は甲斐の隣の信濃を攻略した。これは先に述べたように信濃を攻略することで、甲斐本国の盾にするという意味があったのだろうと、僕は考えていますが、そこは固執しません。
「そこに信濃があるから取った」ということならばそれまでですが、ここでの問題は、信玄は「信濃国」というまとまりにこだわり過ぎたのではないかということ。
信玄は10年をかけて南信濃を支配下におく。と、そこに謙信がやってきて川中島で戦いを繰り広げます。謙信とは10年間も戦い、計20年をかけて信濃国を自分のものにします。そして信玄は、室町幕府が与えるその国のリーダーの資格、守護を手に入れ、さらに朝廷が与える資格である国司の官も入手し、信濃守になりました。
つまり信濃国を完全に自分のものにしたわけですが、はたしてこれらにそこまでの意味があったのでしょうか。信濃守護も信濃守も名前だけだと思います。
信長の場合
たとえば信長からは「国」へのこだわりがあまり見られません。
『「失敗」の日本史』(本郷和人:著/中公新書ラクレ)
信長は伊勢国に侵攻しますが、生産力の高い北伊勢だけ自分のものにすると、手強い敵がいる南伊勢は、一度、放置してしまう。そうした融通が利く。
つまり「国という枠」を完全に支配していかないと気が済まないということはなく、信長の場合、街道や、河川など地形に合わせて自分の勢力を伸ばしていったわけです。
国というものは山や川の地形に合わせて設定されていますから、結果として国単位で勢力を伸ばしていくのは効率的なのですが、それでも信長の場合、それはあくまで「見た目」であって、実態としては国にはこだわらず、必要とする「地域」を手に入れていきました。
その点、信玄は国というまとまりにこだわっていた。
信濃に20年費やして
もちろん信玄は非常に優秀な人物で、戦争もうまい。まるごと一国を切り取って領地を増やすなどという大事業は、ほかの大名にはそうそうできることではありません。
だからないものねだりのような話なのですが、信玄はクーデターを起こして父を追放した後、信濃に侵攻し、10年で信濃の半分以上、だいたい今の長野市まで(石高でいうと30万石くらい)を手に入れています。
そこに戦争マニアのような謙信がやってきて、北信濃の地を巡り、川中島で何度も戦うことになった。しかし、北信濃は山ばかりで、米が取れるような土地は少ない。だいたい10万石ぐらいなのです。この10万石のために、10年も費やしてしまった。合計で20年。
それだけの歳月をかけても一国を支配するのは立派ではあります。立派ではあるのですが、信長とくらべるとスピード感の差が出てしまう。
信玄が気の毒でもある
信濃の完全支配にはこだわらず、10万石はひとまず置いて、ほかの地域へ進出する考え方もあったのではないか。
信濃国はあれほど広いのに、山が多いために40万石しかない。甲斐本国は20万石なので、合わせて60万石。
一方で、信長はまだ20代で尾張を統一しています。今の愛知県の3分の1くらいの範囲ですが、57万石ありました。となると、信玄が晩年に差し掛かって得た領土規模を、信長は20代の若さで既に達成していたわけです。
もっともこれについては、信長が恵まれていたという面は否めません。
彼は尾張を統一した後、北の美濃に侵攻し、返す刀で北伊勢も占領します。これらがまた尾張と同じように豊かな地域で美濃だけで60万石もありました。さらに伊勢全体では60万ですが、占領できた北伊勢がその半分として30万石。つまり信長は、30代前半で既に150万石もの領土を持っていたことになります。当時の信長を足利義昭が頼ったのも必然で、ほかにこれほどの力を持つ大名はいないのですね。
しかし、こうしてまとめたうえで、あらためて信長が150万石になるためにかけた労力と、信玄が60万石になるまでの労力を比べてみると、なんだか信玄が気の毒にも感じてしまうのは僕だけでしょうか。
※本稿は『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
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