三島由紀夫の“静かな死” 「死ぬ当日、楯の会の一人に託して私に渡した手紙には…」

2025年5月4日(日)7時10分 文春オンライン

 戦後を代表する作家として活躍した三島由紀夫(1925〜1970)は、自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促す演説をした後に割腹自殺した。三島と親交のあったジャーナリストの徳岡孝夫氏が綴る。


◆ ◆ ◆


あの「三島事件」で、もし自衛隊か警察が銃を使っていたら…


 殺意をもって法の執行官を襲う者は、射殺されても当たり前。それが世界の常識である。ひとり日本は、身の危険を感じた警察官が発砲して犯人に当たると、マスコミは警察を咎(とが)めてきた。現実に合わなくなって、最近ようやく銃の使用規制を緩め、マスコミも前ほど警官を責めなくなった。


 あの「三島事件」で、もし自衛隊か警察が銃を使っていたら、事件は実際とは全く異なる終わり方をしていただろう。現場は陸上自衛隊駐屯地内、飛び道具には事欠かない。人質も犯人5人も全員が至近距離にいて、丸見えである。威嚇射撃も急所を外して撃つことも、造作なくできた。また、もし銃弾が誤って人質になった益田(ました)兼利総監に当たっても……バルコニーからの演説や野次、まして切腹は、あったかどうか分らない。


 昭和45年(1970年)の11月25日、市ヶ谷で自決した三島由紀夫と彼の行動を、私は三十余年を経てなお、鮮明に憶えている。


 小説・戯曲・評論に跨(またが)って縦横に活躍した人だったから、彼のいわゆる「最後の演出」は、さまざまに批評された。なかには三島さんの45年の生涯を、幕切れの自決へ向かって高まりゆく「計算し尽くしたドラマ」だという評もあった。文学的には面白いかもしれないが、本当にそうだろうか。



三島由紀夫氏 ©文藝春秋


 三島さんはかなり前から、自衛隊に奮起を促すため自決する覚悟をしていた。注意深く準備し、同志を選び、日を決め、総監と面会の約束を取り、前の日にはパレスホテルの一室で、人質を縛る予行演習までした。鋭い頭脳をもって組み立てた、なるほど緻密な筋書だった。


 だが私が記憶する三島さんの最期は、ドラマに付き物の興奮からは程遠い、むしろ静けさに満ちたものである。いや実はあらゆるドラマは、興奮の極より静かに終わる方が理想ではないだろうか。『人形の家』は、ノラがバタンとドアを閉めて家を出ていく音で終わる。劇場を出た観客は、その音が胸の底に静かに沈むのを感じながら歩み去る。劇とは、そんなものではないか。


 日本刀を振り回して自衛官を総監室から追い出した。バルコニーから声張り上げて演説した。自衛隊員も怒号で応えた。取材ヘリの轟音がする。大声を発して腹の中の空気を抜いてから刀を突き立てた。血がほとばしった。そういうアクションを考えると、三島さんはハデに死を演出したように見える。しかし事実は逆で、彼は無事に、静かに切腹して介錯(かいしゃく)されることのみを願っていたのではないか。


 本人の死後にニューヨークのドナルド・キーン氏に届いた手紙の中で、三島さんは絶筆『豊饒の海』4巻の翻訳のことを「ぜひぜひ、よろしくお願ひします」と書いた。翻訳さえ出れば、世界のどこかに必ず自分を正しく評価してくれる人がいる。三島さんは、左翼偏向した当時の日本文壇の尺度を信じなかった。


 死ぬ当日、楯の会の一人に託して私に渡した手紙の中にも「(同封の)檄(げき)は何卒、何卒、ノーカットで御発表いただきたく存じます」と反復・懇請があった。


 三島さんの文学と行動については、多種多様な解釈がある。だが本人が最も強く望んだのは二つ。一つは誰かが自作を正当に認めてくれること、もう一つは自衛隊員へのメッセージが、広く日本人に誤りない形で聞かれることだった、と私は見ている。


 手紙の残り大半は、事が計画通り進まなかった場合に備える予防線だと言っていい。「小生の意図のみ報道関係に伝はつたら、大変なことになります」「万一、思ひもかけぬ事前の蹉跌により……その節は、この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切をお忘れいただくことを、虫の好(よ)いお願ひ乍(なが)らお願ひ申し上げます」等々。


 文面から察するに、三島さんはまさか自衛隊がすぐ警察を呼び、事件の処理をすべて任せてしまうとは予想しなかったようである。ふんだんに武器を持つ自衛隊は、おそらく自力で彼のシナリオを妨害しようと図る。三島さんらを惨殺しておいて、隊外には真相を隠して発表する。それが三島さんの最も恐れた「蹉跌」であった、と私は思う。


 あれほど自衛隊を信じようとした人が、最後の瞬間に警察に引き渡され、止(とど)めを刺されたかと思うと、哀れでならない。


 静けさを感じると私が言うのは、彼の死に方に『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』の最後の場面が重なるからである。門跡(もんぜき)の老尼(ろうに)が「そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか」と言い、それまでの物語を全否定する。庭は蝉鳴のみして、しんとしている。あの月修寺のモデルになった奈良・帯解(おびとけ)の円照寺へ、彼は4度も取材に行った——寂寞(じゃくまく)の静けさを書くために。


 わずか3年半の付き合いだったが、三島さんがそれを「バンコック以来の格別の御友情」と感じてくれたのは光栄である。ここで死なねばならぬというときに立派に古式に則って死んだ日本人だと、私は彼を記憶している。


◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った 『昭和100年の100人 文化人篇』 に掲載されています。


(徳岡 孝夫/ノンフィクション出版)

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