「給料はみんなで使うもの」“所有しない”ピグミー族の驚くべき知恵とは? 山極寿一と内田樹が“サル化”する現代社会を斬る

2025年5月10日(土)11時0分 文春オンライン

 新著『 老いの思考法 』が話題を呼ぶ霊長類学者・山極寿一さんと、『 サル化する世界 』などの名著で知られる思想家・内田樹さんの初対談が実現。人類の進化から、“サル化する”現代社会での老い方まで縦横無尽に語り合った。


◆◆◆◆



山極寿一氏(左)、内田樹氏(右)


共同体と家族は編成原理がまったく違う


内田 山極さんの新著を読んで共感する部分がたいへん多かったのですが、老いの本質を考えるうえでは「共同体において老人がどんなポジションを持つか、何をするか」という問題が大きいと感じました。


 とくに興味深かったのが、共同体と家族は編成原理がまったく違うという指摘で、まずはそのあたりからお話しいただけますか。


山極 長年ゴリラなどの類人猿やサルを研究しながら、人間の過去を考えてきましたが、“進化の隣人”ゴリラは家族的な集団だけを持っていて、片やチンパンジーは共同体的な集団しか持っていません。つまり、動物の世界において、家族と共同体の2つは両立させることができないんです。


 家族は「見返りを求めずに」互いに奉仕し合うもので、親が子どもに何かしてあげたからといって見返りは求めませんよね。一方、チンパンジーは、メスだけが自分の子どもを育てます。乱交社会で父親は誰か分からない子なので、オスはほとんど子育てをしません。ただし、複数のオスがメスたちと様々な連携をし、「何かしてもらったら御返しをする」という「互酬性」が共同体の編成原理なんですね。


内田 つまり、見返りを期待しない家族と、見返りを期待する共同体は、どこかで相反してしまう、と。


「共感力」をはぐくんだ人類


山極 そうです。この両立が難しいものを、人間だけが同時に成立できたのは「共感力」があったからだと僕は考えています。


 人間の祖先が熱帯雨林からサバンナに出て行ったとき、肉食動物に襲われないよう弱い者たちの安全を確保しつつ、屈強な者が狩りに出て持ち帰った獲物を、みんなで安全な場所で分け合って食べる。この食物の分配行動が、家族と共同体を両立させ、サバンナで生き残ることを可能にしました。


 これは人間に埋め込まれた最も古い文化で、食べ物をケチる人はどんな文化圏でも「吝嗇家」と言われて馬鹿にされるでしょう? 他者への共感力で血縁関係のない人にも食べ物を分かち合う、仲間のために尽くす——それによってサルや類人猿にはない社会性が人間には芽生えた。そこで高齢者は、仲裁したり融和に導くような知恵を発揮したりして、集団が円滑に成り立つように寄与してきたんですね。


内田 いま山極さんの説明を聞いていて気づいたのですが、山極さんは分配について語る際に経済の用語を使われないんですね。ふつうはこういう営みについては「贈与」、「交換」、あるいは「反対給付義務」といった言葉で説明するんですけれど、そういう言葉は出てきませんね。


 僕は十代の終わり頃にレヴィ=ストロースの構造人類学に出会って、「女の交換」「言葉の交換」「財貨の交換」の3つが人間の人間性を基礎づけるという知見に触れて衝撃を受けたことがありました。人間の感情は、多くが社会制度によって規定されるものだという構造主義の考え方はまさに目からウロコでした。


 山極さんのご説明だと、交換を起動したのは、人間の中に「共感力」という資質があるためだということになります。これも目からウロコのご指摘でした。山極さんは、もともと我々人間は原初においてほとんど戦争をしないで平和に暮らしていた狩猟採集民であって、そのマインドに立ち返るべきだという性善説をとられていますよね。


給料は“みんなで使う”ピグミー族


山極 僕はずっと人間以前の世界から人間を捉えようとしてきたから、言葉が成立してから生まれた経済の用語を自ずと使わないのかもしれません(笑)。人類の進化の歴史は約700万年ありますが、言語が誕生したのは7万〜10万年前で、農耕牧畜が始まったのは約1万年前です。


 つまり、進化史の99%以上において人は食糧生産をせず、自然の恵みに従って生きていた。しかし、農耕牧畜が始まってから、土地と所有をめぐって人は争うようになりました。土地に価値ができ、所有によって人間の価値が決まるようになった世界で、ほとんどの暴力と戦争はこの二つに起因して生じています。


 でも、狩猟採集民が戦争をしたという歴史上の事実はほとんどない。僕はフィールドワークでピグミーの人たちと生活して驚いたことがあります。例えば、私たちは能力ややった仕事に応じて給料を払うのが当たり前ですが、ピグミーは誰かが仕事を休むと代わりの人が来るので、給料日になって働いた日数に応じて差をつけて払おうとすると、みんな首を横に振るんです。「そんなんじゃだめだ」「みんな平等に払え」と。


 彼らの考えでは、休んだのは事情があったからで、でも私の仕事に協力する心を持っていたから代わりの人を送った。しかも、彼らの給料は自分だけで使うんじゃなくて、みんなで使うもの。だから、差をつけて給料を払うことを許さなかったんです。


内田 それを聞いて村上龍のエッセイを思い出しました。彼がダカール・ラリーの取材に行ったときのエピソードなんですが、砂漠をひたすら走るこの過酷なモータースポーツ競技で、同行のテレビマンが自分のミネラルウォーターにマジックで名前を書いた。すると現地のクルーが「こんなやつとは働けない」と言い出した。砂漠で水は貴重だという前提から、日本人のこのスタッフは「貴重なものは私有する」という判断をし、砂漠で暮らす人たちは、「貴重なものは絶対に私有しない」と判断した。砂漠の共同体原理は資本主義とは違うということなんですね。


山極 全くその通りで、所有を許さない社会なんですね。ピグミーの人たちがさらに興味深いのは、自分の槍や弓を「自分では使わず、友達に貸す」。貸すことによって友達が獲ってきた獲物をみんなで分かち合う場をつくるんです。


 自分の所有物で自らの労働で得た成果は、どうしたって人は独占したくなるもの。でもそれを避けて、皆で分けるためにどうしたらいいかを考え抜いた結果の慣習なんだと思います。


 しかもそのとき、獲物は特定の誰かに手渡さず、ただ食べ物を置く。誰かに与えるという行為だと〈与える者・与えられる者〉という優劣が生じてしまうから、「所有から所有へ」という現象が起こるのを避けているんです。


内田 なるほど。贈与や交換という言葉ではたしかに説明ができませんね。「みんなで分ける」ための知恵ということなんでしょう。獲物を獲ってきた人は、それを自分の手柄にしない。集団内で力の差や嫉妬心が生まれるのを避ける気遣いが興味深いですね。こうやって考えてみると、僕らが「人間性」だと思っているものはけっこう日付の新しいものなのかも知れませんね。


「サル化」する社会の問題点


山極 そう思います。ところで内田さんの『サル化する世界』を面白く読ませてもらいましたが、「そうだよな」と思えるところが沢山ありました。と同時に、サルの側から見たちがう視点も今日は語りたくて。


内田 あの本で扱ったトピックの一つは、時間意識の問題でした。僕があそこで「サル化」と呼んだのは「朝三暮四」の逸話から来ている時間意識の縮減のことです。朝四粒で、夕方三粒の配分に喜ぶサルは、朝の自分と夕方の自分の間に自己同一性を維持できない。ということは、自己同一性がある時間を維持できる能力というのは、割と最近人類が獲得したものだということになります。だから、それほど深く身に浸み込んでいるわけではない。


 現代人の時間意識が縮減して「今さえよければ、自分さえよければそれでいい」となっているのは、「朝三暮四」のサルに退化しているのではないかと問題提起しました。サルの側からの視点もぜひ(笑)。


山極 サル化って「効率化」だと思うんですよ。実はサルの行動を見ていると、彼らは本当に時間を効率的に使います。我々なら何かトラブルがあれば、その原因を確かめて、双方の主張を聞きながら仲裁するでしょう。でも、サルは仲裁なんかせずに、「勝ち負けを決める」だけ。例えば、食物を巡って2頭のサルが争っていれば周囲は強そうな奴に味方するので、すぐ弱い者が引き下がってケンカになりません。


 しかも、負かされた側は敵意を抱くものですが、両者が次に再び出会ったとき、勝った側は何事もなかったような顔をする。前のことを蒸し返したりせず、なかったことにする。すると相手も気勢を削がれて争わない。これが、効率的にトラブルを回避する“サル知恵”(笑)。これが「サル化する社会」の僕のイメージですね。


内田 なるほどね。効率を求めていくと、権力差をあらわに可視化しておいて、「強いものが総取りする」のが一番簡単で、しかもその事実を忘れたふりをするのがサル、というわけですね。


 トラブルが起きたときの仲裁できる力というのは、共同体をつくる上で非常に大切なものだと思いますが、和解や仲裁はけっこう技術が要る。両方の言い分を聞いて、どっちの言い分にもそれぞれ一理ある、ならば中とってこの辺でどうです、と落とし所を見つける技術は、かなり高度な知性を要求するものですが、これが昨今とても衰えている気がします。


山極 なるほど。


仲裁する人が身銭を切るという知恵


内田 川島武宜の『日本人の法意識』という名著がありますが、その中に仲裁の例として、歌舞伎の「三人吉三廓初買」の話が出てきます。お嬢吉三という悪者がいて、夜鷹から百両を奪う。それを見てたお坊吉三という新たな悪者が出てきて「俺によこせ」と言って、二人が殺し合いになりそうになったところで、三人目の和尚吉三が出てきて、百両を二つ割って、五十両ずつ二人に分ける。「だが、五十両じゃ不満だろうから、俺の両手を切って、これで納めてくれ」と提案する。その和尚吉三の男気に感じて、三人は義兄弟の契りを結ぶ…という話なんですけど、これは日本的な仲裁方法のひとつの究極の形だと思います。


 つまり、仲裁者はただ「合理的な落としどころ」を提案するだけではなくて、双方の不満を収めるために、自分も犠牲を払う。この戦いを止めるためには、自分を犠牲にするという決断を下せる人間だけが仲裁を果たし、かつ対立した人たちを含めて集団的な結束を打ち固める。


山極 ケンカを仲裁する人が身銭を切る必要があるんですよね。ちなみにゴリラの仲裁は、双方が「負けない」形でメンツを保たせます。そして仲裁者は、ケンカをする連中よりもよっぽど弱い奴という特徴もあります。大きなオスのシルバーバック同士が戦おうとしていたら、すーっとメスが入ってきて止める。それでおさまるんですよ。


 人間の常識では仲裁者は双方より強くなきゃいけないと思っているけど、本来はそうでない。「互いが負けない」というのが仲裁の本質だから。友人の探検家・関野吉晴さんによると、南米のアチェとかの狩猟採集民は、妻を盗まれた男が争いになったときに、儀礼的な叩き合いをして勝ち負けを決めます。仲裁者は強いやつとかではなく、双方のメンツを保たせるための喧嘩両成敗をする。


内田 遺恨を残さないことがとにかく大事なんですね。ハワイでもそうらしいですね。前日に殴り合った相手と翌日道で会うと、「ちょっと遺恨消してくるわ」と近づいて握手して帰ってくる習慣があるという話を聞いたことがあります。


山極 やっぱり「根にもつ」って人間として恥ずかしいこと。人間に近い霊長類のケンカも、観察しているとだいたい和解のあと以前よりも良い状態になります。遺恨を消し去るさまざまな工夫が共同体のなかで脈々と行われてきたのが、今や国家間の争いをみていてもすっかり無くなってしまったのが現代社会の大きな問題だと思うんですね。


( その2へ続く )


〈 みなが“自分のパイ”を奪い合うのに必死な社会でどう生きるか? 隠居制度という日本の知恵に学ぶ 〉へ続く


(山極 壽一,内田 樹/ライフスタイル出版)

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