島津斉彬による集成館事業の実態と、一橋派・南紀派に分かれた将軍継嗣問題との関わり

2024年6月5日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


斉彬による集成館事業

 嘉永4年(1854)、島津斉彬は鉄製砲の鋳造と洋式船の建造に着手した。西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱き、藩主就任と同時に軍備の近代化・強化にまい進した。同年に精錬所を設立し、反射炉の建造を始めとする集成館事業を展開したのだ。

 集成館事業の施設概要であるが、なんと言ってもその中心は、大砲の一貫生産のための反射炉2基・溶鉱炉1基・鑽開台1基であり、すなわち、鉄の生産を推進した。また、領民のために耕作用具・大工道具を製造するため、製鉄所・農具工場・工作機具工場・刀剣工場(製)を設置した。

 さらに、ガラス工場・陶器工場・製紙工場・胡粉工場・鉛粉工場・膠工場・皮工場・氷砂糖工場・地雷水雷製造所なども設置した。その他、桜島の瀬戸村・有村、牛根(垂水)に造船所、郡元に船の帆布を生産する機械紡績、田上の水力を利用した水車機織工場など、極めて多角的な殖産興業・富国強兵のための産業勃興に意を用いた。

 ユニークなのは、輸出品として薩摩焼・薩摩切子を開発したことであろう。これを目撃したオランダ人医師ポンペは、「ガラス工場部門だけでも、百人以上の人が働いていました。この工場には、溶解室、吹き場、研磨室がありました。賛沢品のようなものから、日常品にいたるまで、あらゆる種類のガラス器がここで作られていました。要するにそれは、かなり整備されたガラス工場でありました」(「ポンペ日本滞在見聞記」)と述べている。

 また、視察に訪れた佐賀藩士千住大之介らに対し、斉彬は「焼き物は、日常使用する必需品なので、なにも美麗に作る必要はないが、外国との貿易も追々開始される今日、外国人が誉める陶磁器は日本の輸出品として最適なので、薩摩藩でも、佐賀藩の有田焼同様美麗な陶磁器の開発・生産し、輸出品にする積りである」(「島津斉彬言行録」)と、その生産に意欲を示している。

 ちなみに、富国強兵・殖産興業・専守防衛を目指した集成館事業跡は、平成27年(2015)に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産登録された。


将軍継嗣問題と一橋派・南紀派

 将軍継嗣問題とは、13代将軍徳川家定の継嗣決定をめぐって、一橋慶喜(17歳)を推す一橋派と紀州徳川慶福(家茂、8歳)を推す南紀派による派閥抗争である。家定は暗愚・病弱とされ、12代家慶時代から憂慮されていた。しかも、ペリー来航時、衆望を集めた水戸斉昭が期待外れであったため、将軍継嗣問題が俄然クローズアップされたのだ。

 南紀派の推進者は、紀州藩附家老の水野忠央(ただなか)とされ、大奥工作が大々的になされ、水野自身の妹を家慶の側室にしている。また、彦根藩主井伊直弼もコアメンバーとされており、安政元年(1854)5月および翌2年(1855)1月に、老中松平乗全(のりやす)に継嗣(名前は挙げず)の必要性を伝達した。血統の重視、外部意見の拒否、斉昭への嫌悪の3要素によって、南紀派は結束を固めていた。

 一橋派の推進者は、斉彬・徳川斉昭・松平春嶽ら有司大名が中心であり、そこに水戸藩関係者(安島帯刀・平岡円四郎ら)、老中阿部正弘、岩瀬忠震らの海防掛らが加わった。一橋派は、英明・年長・人望ある将軍(=慶喜)のもとで、幕権の再強化を図りながら、自己の幕政参画を期待していた。


斉彬による慶喜面談と斉昭という爆弾

 嘉永6年(1853)8月10日、松平春嶽が老中阿部正弘に初めて一橋慶喜の擁立について入説した。しかし、阿部は同意をしたものの時期尚早と判断し、春嶽にまだ胸に留めるよう釘を刺した。なお、この頃から斉彬は春嶽と連携を開始したと考える。

 安政3年(1856)11月、斉彬は養女篤姫を実子として13代将軍徳川家定へ入輿させた。これは幕府からの要請であり、よく誤解されるような、将軍継嗣問題に絡む権謀術数ではなかった。しかし、斉彬は篤姫の地位の利用を画策するようになり、西郷隆盛に命じて大奥工作を図ることを企図した。しかし、篤姫は斉彬の期待に応えようと努めたものの、そう簡単に首尾よくは運ばなかったのだ。

 安政4年(1857)3月27日、斉彬は慶喜と初対面を果たした。一橋派を代表して、斉彬による採用の最終面接のようなイメージである。斉彬は、「実に早く西城に奉仰候御人物」(春嶽宛書簡、4月2日)と、将軍継嗣に相応しい人物と評価している。その一方で、「御慢心之処を折角御つゝしみ御座候様、被仰上候て可然と奉存候」と、慶喜の自信過剰な態度を戒める必要性を助言することも忘れなかった。

 また、斉彬は春嶽に対し、この段階で慶喜継嗣のことを申し出て、万が一不都合になった場合は、かえってそれ以降の差し障りになるだろうと考えており、伊達宗城も賛同していると付言した。さらに、斉昭の評判が芳しくないため、慶喜推薦を控えることを助言し、斉昭と距離を置くことまで勧告している。一橋派にとって、慶喜実父の斉昭の存在が大きな障害となっていたのだ。

 次回は、斉彬による西郷隆盛を起用した、将軍継嗣問題を有利に運ぶための工作とその帰結について、真相に鋭く追ってみたい。

筆者:町田 明広

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