「農民ブリューゲル」と呼ばれたブリューゲルが描いた「世界風景」とは?貴族は描かれず、自然と人間が共鳴する傑作
2024年7月25日(木)8時0分 JBpress
晩年の作品では飲んだり踊ったりする農民の姿を生き生きと表現したブリューゲル。斬新な構図を用いて無名の民衆を描いたことは、ブリューゲルの大きな特徴のひとつでした。
文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)
農村を描いた「季節画」にみる世界風景
ブリューゲルといえば農村風景や、お祭りや結婚式など、農民の風俗を描いた作品を思い起こす人が多いかもしれません。ブリュッセルに移り住んでから、ブリューゲルは度々村に農民の姿で出かけ、お祭りや結婚式に紛れ込んでは彼らのありのままの姿を描いたといわれています。
1565年にハプスブルク家に仕えた関税官で、裕福な金融業者のニクラース・ヨンゲリンクのために、農村の農作業を描いた風景画の連作「季節画」と呼ばれる6点を制作しました。ちなみにヨンゲリンクはこのほか《バベルの塔》(1563年・1568年頃)や《十字架を担うキリスト》(1564年)など、ブリューゲルの作品16点を所有していたというパトロンです。
6点のうち薪集めをする農民を描いた早春の《暗い日》、初夏の《干草の収穫》(第1回参照)、盛夏の《穀物の収穫》、放牧から畜舎へ帰る様子を描いた晩秋の《牛群の帰り》、得意とした冬の風景《雪中の狩人》の5点が現存しています。
中世にもランブール兄弟による《ベリー公のいとも華なる時禱書》のように、月毎の行事が描かれた、キリスト教徒が用いる貴族のための時禱書がありました。しかし、ブリューゲルの「季節画」では貴族は描かれず、農民だけです。どの絵も季節感のある色のトーンが素晴らしく、自然と人間と共鳴している傑作です。
また「季節画」は、《ネーデルラントの諺》をはじめとする初期の作品に見られた俯瞰的な構図と違って、視点を下げています。そして前景を大きく表現し、遠くの風景までを描くという、パースペクティブ(近くを大きく、遠くを小さく描いて遠近感を表現する技法)を用いています。
初期フランドルの画家ヨアヒム・パティニール(1480年頃〜1524年)の打ち立てた、俯瞰した視点の中に川や山、海、陸となどを描いて世界全体を表した「世界風景」と呼ばれる作品は、空想的な世界でした。
当初ブリューゲルも版画でパティニールのような風景画を描いていましたが、ブリューゲルの農民に対する愛情や関心が風景と結びついた「季節画」が生まれます。パティニールの空想的な世界とは違う、そこにあるはずのないアルプス風景を描き入れていても、日々目の前で展開しているような現実の風景が表現されています。
とくに《牛群の帰り》、《雪中の狩人》に描かれたアルプスの切り立つ山、果てしなく広がるパノラマに季節や農民を入れ込んだ表現こそ、ブリューゲルが確立したこれまでにない新しい世界風景です。そこで描かれるのは神々ではなく、名もない人々です。そこがイタリア絵画とは全く違う点だと思います。ブリューゲルはこのような世界風景の中に聖書の物語を描いた宗教画も残しています。これについては次回紹介します。
農民たちの豊かな表情と動きを表現
「季節画」では農村の自然とそこで生きる人々を描きましたが、この後、農民の風俗を描いた作品を残しています。《農民の婚宴》(1568年頃)は、大きな納屋で開かれている婚宴の様子を描いた作品です。第1回で紹介した《農民の踊り》(1568年頃)と対(つい)になっていたとも考えられています。
扉に乗せて運んでいる浅いお皿に入っているのは蜂蜜が入った麦で作った「ブレイ」というお粥、大きな壺から男が注いでいるビールなど、ご馳走とお酒を前にした農民ひとりひとりの表情と動きを豊かに描いています。
また、踊っている農民の姿からあたかも音楽も聞こえてくるような《野外での農民の婚礼の踊り》(1566年)は、見ている私たちもその中にいるように感じられる躍動感のある作品です。
後世、ブリューゲルが「農民ブリューゲル」と呼ばれるようになったのは、長男ピーテルが成長して画家となり、亡き父の作品を模写した際にこの《野外での農民の婚礼の踊り》をたくさん制作し、それが広く流通したためだという説もあります。
しかし、農民をここまで生き生きと描写し、彼らの一瞬の動きや表情を捉えたことは、ブリューゲルの突出した才能にほかなりません。
参考文献:
『ブリューゲルの世界』森洋子/著(新潮社)
『ブリューゲルとネーデルラント絵画の変革者たち』幸福輝/著(東京美術)
『ピーテル・ブリューゲル ロマニズムとの共生』幸福輝/著(ありな書房)
『図説 ブリューゲル 風景と民衆の画家』岡部紘三/著(河出書房新社)『東京藝大で教わる西洋美術の見かた』佐藤直樹/著(世界文化社)
『ブリューゲル(新潮美術文庫8)』宮川淳/著(新潮社)
『ブリューゲルへの招待』小池寿子・廣川暁生/監修(朝日新聞出版)
『芸術新潮』2013年3月号・2017年5月号(新潮社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝—ボスを超えて—』図録(朝日新聞社)
『ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展公式ガイドブック(AERA Mook)』(朝日新聞出版)
『ブリューゲル展 画家一族150年の系譜』図録(日本テレビ放送網@2018) 他
筆者:田中 久美子