『光る君へ』「四納言」にして「三蹟」藤原行成の生涯、一条天皇の蔵人頭に抜擢、道長の信頼も厚く右腕として支える

2024年7月29日(月)8時0分 JBpress

今回は大河ドラマ『光る君へ』では、渡辺大知が演じる藤原行成を取り上げたい。意外に苦労人でもある行成の人生とは、どのようなものだったのだろうか。

文=鷹橋 忍 


祖父と父を失う

 藤原行成は、天禄3年(972)に生まれた。藤原道長よりも6歳年下となる。

 父は、摂政の藤原伊尹(段田安則が演じた藤原兼家の兄)と恵子女王(醍醐天皇の皇子・代明親王の娘)の間に生まれた藤原義孝。

 母は、源保光(代明親王の皇子/醍醐源氏)の娘である。

 本郷奏多が演じる花山天皇の母・藤原懐子は叔母で、高橋光臣が演じる藤原義懐は、叔父にあたる。

 輝かしい家系に生まれた行成であるが、祖父の伊尹は行成が生まれた年に49歳で、父の義孝は天延2年(974)に21歳の若さで没してしまう。

 僅か数え3歳で父を亡くした行成は、外祖父・源保光の庇護を受けて育った。

 保光は漢学に造詣が深かく、故実先例の分野でも一流であったと思われ、行成は祖父から充分な教育を受けたと推定される(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)。


つかのまの栄光

 神武天皇(第一代と伝えられる天皇)の代から明治元年(1868)までを記録した朝廷の歴代の職員録『公卿補任』によれば、行成は永観2年(984)正月7日、13歳で従五位下に叙せられた。

 同年8月、坂東巳之助が演じた円融天皇の譲位により、皇太子の師貞が即位し、花山天皇となると、行成の一家は天皇の外戚の地位を得た。

 行成の叔父・藤原義懐は、花山天皇が即位するや蔵人頭となり、翌寛和元年(985)には権中納言に昇進するなど、めざましい躍進を遂げていく。

 行成も寛和元年12月に侍従に任じられ、翌寛和2年(986)2月には、昇殿(花山朝)を許されている。

 ところが、寛和2年6月、行成一家の頼みの綱である花山天皇が出家・退位し、皇太子・懐仁が7歳で即位し、一条天皇となった(寛和の変)。叔父の義懐も出家してしまった。

 一条天皇の外祖父・藤原兼家(伊尹の弟)が摂政となり、政権は兼家の一家に推移した。


祖母・恵子女王

 花山天皇と叔父・義懐という有力な後見を失ってからも、行成は、それなりに立身している。

 同年(寛和2年)8月には、左兵衛権佐に任じられた。これは当時の若年の公達としては、順当な任官だという(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)。

 翌永延元年(987)正月には、祖母・恵子女王の年給により従五位上に叙せられ、同年9月には、再び昇殿(一条期)が許された。

 この背景には、行成の資質や努力のみならず、外祖父・源保光の庇護や(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)、行成の立身のために尽力したであろう祖母・恵子女王の存在があったとみられている(『群馬女子短期大学紀要』第十二号所収 北村章「一条朝四納言の研究ノート(三)-藤原行成の結婚とその周辺-」)。

 恵子女王は正暦3年(992)9月、行成が21歳の時に没した。

 行成は正暦4年(993)正月に従四位下に叙せられているが、任官での不遇は否めなかったという(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)。


悲嘆のなか、一条天皇の蔵人頭に抜擢

 疫病が大流行した長徳元年(995)は、井浦新が演じる藤原道隆、玉置玲央が演じる藤原道兼が死去し、内覧に任じられた道長の政権が誕生している。

 この年、正月には行成の母(源保光の娘)が、5月には外祖父・源保光が、この世を去っている。行成、24歳のときのことである。

 母と祖父の相次ぐ死に、行成は出家を考えたともいわれる(山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』)。

 悲嘆にくれた行成だが、大出世を遂げることになる。同年8月、一条天皇の蔵人頭に抜擢されたのだ。

 歴史物語『大鏡』第三巻「太政大臣伊尹 謙徳公」によれば、蔵人頭であった本田大輔が演じる源俊賢(道長の妻・瀧内公美が演じる源明子の兄弟)が公卿に昇進するにあたり、後任に行成を推薦したという。

 蔵人頭は、天皇の秘書官である蔵人が働く蔵人所の長官で、大変な激務である。

 通常は、蔵人頭を2〜3年務めると、参議(大・中納言に次ぐ要職)に昇進する。

 ところが、行成はなかなか参議に昇進できず、蔵人頭を7年もの間、務めることになる。

 その理由は、行成があまりにも有能で、実直であるがゆえ、一条天皇が手放したくないと思ったからだという(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。


亡妻の妹を後妻に

 蔵人頭を7年務めた行成は、長保3年(1001)8月、30歳のとき、待望の参議となった。

 行成は18歳のときに、当時14歳であった左京大夫源泰清の娘を妻としているが、その妻が翌長保4年(1002)10月16日に死去している。

 行成は妻の死からまもなくして、亡妻の妹を後妻とした。

 行成は参議になって以降は順調に昇進し、寛仁4年(1020)11月には、権大納言に至った。これが行成の極官であり、行成の日記『権記』の名は、この権大納言からきている。


恪勤の上達部

 一条天皇から厚く信任されていた行成であるが、長保2年(1000)、一条天皇の中宮・高畑充希が演じた定子を皇后にし、道長の娘・見上愛が演じる彰子を中宮とする、前代未聞の「一帝二后」を躊躇う一条天皇を説得したり、寛弘8年(1011)5月、一条天皇の譲位にあたり、皇太子には一条天皇が望む定子が産んだ敦康親王ではなく、彰子が産んだ敦成親王(後の後一条天皇)を立てるように進言したりするなど、道長が有利になる行動をとっている。

 秋山竜次が演じる藤原実資は、彼の日記『小右記』寛弘2年(1005)5月14日条において、行成ら数人の公卿を「恪勤の上達部」(道長への追従に励む公卿)と揶揄している。

 揶揄されようとも、有力な血縁を失っている行成にとって、けっきょくのところ頼れるのは、道長だったと思われる(黒板伸夫『人物叢書 藤原行成』)。


「四納言」にして、「三蹟」

 道長は、万寿4年(1027)12月4日、62歳で死去した。行成も奇しくも同じ日に、56歳で、この世を去っている。

 行成は町田啓太が演じる藤原公任、金田哲が演じる藤原斉信、源俊賢と並んで、一条朝の「四納言(しなごん)」の一人に数えられる。

 さらに、能筆家としても著名で、後に、小野道風・藤原佐理とともに、「三蹟」と称された。行成の書は、多くの人々が欲しがったという(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

 一代の栄華を極めた道長の影に隠れがちだが、行成の人生も充分に輝かしいものであったといっていいのではないだろうか。


【藤原行成ゆかりの地】

●霊麀山 革堂行願寺

 京都市中京区にある天台宗の寺院。寛弘元年(1004)、行円上人が創建した。

 創建当初は一条小川(京都市上京区)にあった。

 藤原行成は、この行願寺の寺額を書いた。行成の日記『権記』寛弘元年(1004)12月11日条には、「皮聖寺額行願寺書(行円の寺の額に行願寺と書いた)」という記述がみられる。

筆者:鷹橋 忍

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