『光る君へ』後一条天皇(敦成親王)の生涯、道長の外孫、4歳で皇太子、9歳で践祚、敦康親王の霊に悩まされた?
2024年11月18日(月)8時0分 JBpress
今回は大河ドラマ『光る君へ』第44回「望月の夜」において、数えで9歳にして践祚した、道長の外孫・後一条天皇(敦成親王)を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
栄花の初花
敦成親王は、寛弘5年(1008)9月11日に、外祖父・藤原道長の土御門第で生まれた。
塩野瑛久が演じた父・一条天皇が数えで29歳、見上愛が演じる母・彰子(道長と黒木華が演じる源倫子の長女)が21歳の時の子である。
当時、彰子に仕えていた紫式部は、敦成親王出産の一部始終を、『紫式部日記』に記している。
道長の外祖父摂政の夢を叶えることになる敦成親王の誕生を、歴史物語『栄花物語』巻第十一「つぼみ花」では、「栄花の初花」と称している。
彰子は翌寛弘6年(1009)11月25日にも、皇子を出産した。後に後朱雀天皇となる敦良親王である。
二人の皇子の誕生に道長は歓喜した。
『紫式部日記』には、「左に右に孫宮を見させて頂けるとは嬉しいこと」と言い、寝ている二人の孫の帳を何度も開けて覗いたことが記されている。
4歳で皇太子に
一条天皇には敦成親王よりも先に生まれた、片岡千之助が演じる敦康親王という第一皇子がいた。敦成親王より9歳年上だ。
敦康親王の母は、一条天皇が寵愛する高畑充希が演じた定子(父は、道長の長兄・井浦新が演じた藤原道隆)で、長保2年(1000)、この段階では唯一の皇位継承者候補であった敦康親王が2歳の時に、亡くなっている。
定子が死去した年、彰子は13歳で、すぐに一条天皇の皇子を産むことは期待できなかった。また、彰子が将来、必ず皇子を産むという保証もない。
よって、彰子が皇子を出産できず、敦康親王が皇統を継いだ時の保険として、敦康親王は彰子が養母として育てることとなった。
ドラマでも描かれていたように、彰子は敦康親王を慈しんで育てた。
一条天皇の次の天皇は、木村達成が演じる居貞親王(後の三条天皇)に決まっていたが、その次の東宮(皇太子)は定められていなかった。
一条天皇は、次の皇太子には、寵愛した定子の忘れ形見である第一皇子・敦康親王を望んでいた。
彰子も、「敦康親王の御事を、帝の在位中に帝の願い通り、実現させて差し上げたい」と思ったという(『栄花物語』巻第八「はつはな」)。
だが、当時の最高権力者である道長は、外孫である敦成親王を皇太子にしたいと考えていた。
寛弘8年(1011)5月に病を発した一条天皇は、渡辺大知が演じる藤原行成の説得を受け、敦康親王の立太子を断念。敦成親王を皇太子とする決意をした(『権記』寛弘8年5月27日条)。
同年6月13日、一条天皇は譲位し、居貞親王が践祚して三条天皇となる。皇太子には敦成親王が立った。
一条は同年6月22日に32歳で崩御する。敦成親王、4歳の時のことである。
後一条天皇の誕生
ドラマでも描かれたように、道長は、眼病を患い耳にも不調を抱えた三条天皇に譲位を迫った。
三条天皇は、朝倉あきが演じる藤原娍子が産んだ、阿佐辰美が演じる敦明親王の立太子を条件に譲位を受け入れた。
長和5年(1016)正月29日、三条が皇位を退き、敦成親王が9歳で践祚し、後一条天皇となった(以下、後一条天皇と表記)。
道長は摂政に任じられる。念願の外祖父摂政となったのだ。
だが、翌長和6年(1017)には、摂政の地位を、渡邊圭祐が演じる嫡男の藤原頼通に譲っている。
11歳で叔母と婚姻
寛仁2年(1018)正月3日に後一条天皇が元服すると、同年3
威子は、後一条天皇の母・彰子の同母妹であるから、二人は甥と叔母にあたり、年齢も後一条天皇は11歳、威子は20歳と9歳離れていた。
『栄花物語』巻第十四「あさみどり」には、年齢もだいぶ離れているし、二人が並んだらどんなものかと噂されていたが、威子は小柄で美しく、後一条天皇は驚くばかりに成人しており、似合いの二人であったと記されている。
敦康親王の霊、出現?
威子は同年(寛仁2年)4月28日に女御宣旨を受け、10月16日に立后して、中宮となった。
これに伴い、三条天皇の中宮であった倉沢杏菜が演じる姸子(道長の二女 母は源倫子)が皇太后となり、太皇太后である彰子と合わせ、娘三人が后となる「一家三后」が現出する。
道長の栄華は、ここに頂点に達した。
道長は威子の立后の儀の後に土御門第で催された本宮の儀の穏座(二次会の宴席)で、有名な「望月の歌」を詠んでいる。
道長の栄華が極まる中、この年の12月17日には、敦康親王が20歳で亡くなっている。
皇太子になれないまま死去した敦康親王は、
寛仁4年(1020)、13歳の後一条天皇は重く病悩していた。
秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』
さらに、同年10月2日条には、
威子を気遣う
万寿3年(1026)4月、威子はついに懐妊し、12月9日に章子内親王を出産した。
皇子誕生とはならなったが、『栄花物語』巻二十八「わかみづ」によれば、道長は安産であったことを喜んだ。
一方、後一条天皇は、「皇子であったなら」という思いもあったようだ。
だが、天皇付の女房などが、「姫君で残念」などと話しているのを耳にすると、「何ということを。安産であっただけでも、じゅうぶん過ぎることではないか。女だったと残念がるのも愚かしい。いにしえの聖帝がたが女帝をお立てにならなかったとでもいうのか」と言って、黙らせている。
威子への気遣いだろう。
皇子誕生ならず
翌万寿4年(1027)には、道長が死去した。
威子は再び懐妊するも、皇子誕生とはならず、長元2年(1029)2月2日に生まれたのは馨子内親王だった。
後一条天皇は威子以外に、后や女御を迎えていない。
ただ一人の后である威子が皇子を産めずに苦悩する中、威子の兄たちの娘が入内するとの噂が相次いだ。
『栄花物語』巻第三十一「殿上の花見」によれば、すでに30歳を過ぎていた威子は、「若く、咲き出す花のような方々と争うことはすまい」と深く思っていたが、後一条天皇は、「あなたをこれまでよりも、大切に思い申し上げるつもりです」と言ったという。
けっきょく、威子の兄たちの娘が入内することはなかった。
威子を大切に思う後一条天皇が拒んだと推測されている (服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』所収 伴瀬明美「第九章 三女威子と四女嬉子 ●それでも望月は輝き続ける」)。
大中宮・威子
長元9年(1036)3月頃から、後一条天皇は病に冒された。
『栄花物語』巻三十二「謌合」には、「水ばかり飲み、面やつれした」とあり、飲水病(糖尿病)に罹っていたとされる(服藤早苗『人物叢書 藤原彰子』)。
治療や祈祷が行なわれたが、その甲斐もなく、同年4月17日に、在位のまま、29歳で崩御した。
威子の悲しみは深く、食欲も落ち、流行していた裳瘡に罹ってしまう。
威子は同年9月4日に出家し、二日後に、38歳でこの世を去った。
後一条の崩御から半年も経っておらず、まるで後を追ったかのようである。
後一条のいないこの世に、未練はなかったのかもしれない。
『扶桑略記』同年9月6日条によれば、後一条の唯一の后であった威子を、世間では「大中宮」と称したという。
【後一条天皇ゆかりの地】
●菩提樹院陵
後一条天皇と、後冷泉天皇中宮章子内親王(後一条天皇の皇女)が
筆者:鷹橋 忍