「刀伊の入寇」とはどんな事件だった?大宰権帥・藤原隆家が活躍した平安時代の未曾有の危機を、時系列で徹底解説
2024年12月2日(月)8時0分 JBpress
大河ドラマ『光る君へ』第46回「刀伊の入寇」で、大宰府を訪れた紫式部(まひろ)が巻き込まれた刀伊の入寇は、どのような事件だったのだろうか。
文=鷹橋 忍
大宰権帥・「さがな者」藤原隆家
刀伊の入寇とは、寛仁3年(1019)3月末〜4月にかけて、刀伊(東女真族)が対馬・壱岐、および北九州方面に攻め込み、甚大な被害を与えたという大事件を指す。
この未曾有の危機に、九州統治の最高責任者として大宰権帥(大宰府の次官だが、実質上の長官)の任についていたのは、竜星涼が演じる藤原隆家だった。
隆家は、歴史物語『大鏡』第四巻「内大臣道隆」に、「世の中(天下)のさがな者」と世間から称されたとある。
さがな者は「規格外の乱暴者・無鉄砲者」(関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』)、「やんちゃ坊主」(石川徹校注『新潮日本古典集成 大鏡』)、「がむしゃら男」(保坂弘司『大鏡 全現代語訳』)などと訳される。
隆家は長和3年(1014)11月7日に大宰権帥に任じられ、翌長和4年(1015)4月21日に赴任した。
『大鏡』によれば、隆家が善政を敷いたため、九州の人々は彼に心酔したという。
大宰権帥の任期は5年である。任期終了まであと少しとなった寛仁3年に勃発したのが、刀伊の入寇だ。
隆家が41歳、藤原道長が54歳、秋山竜次が演じる藤原実資が63歳の時のことである。
刀伊の入寇、はじまる 【3月28日】
刀伊の入寇の推移は、倉本一宏『藤原伊周・隆家 ——禍福は糾へる纏のごとし——』、関幸彦『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』などによれば、以下の通りである。
まず、3月28日、刀伊の兵船50余艘が対馬島を襲来し、殺人、拉致、放火の蛮行に及んだ。
対馬島では18人が殺害され、116人が捕虜となっている。
同日、壱岐島も蹂躙されている。壱岐守の藤原理忠を中心に防戦するも、148人が殺害、239人が捕虜となる大打撃を蒙った。藤原理忠も殺されている。
「賊徒」の来襲は対馬島から逃れた対馬守遠晴により、4月7日に大宰府に伝えられた。
また、壱岐島で賊徒を三度も撃退したとされる壱岐島分寺講師(国分寺に置かれた僧侶)常覚も、同日に大宰府に着き、壱岐守藤原理忠をはじめ、多くの島民が殺害されたことを告げた。
怡土郡、志摩郡、早良郡、蹂躙される【4月7日】
大宰府に、刀伊の来襲の報が伝えられた4月7日、刀伊の兵船は筑前国怡土郡に上陸。怡土郡は殺害49人、拉致216人、馬牛33疋頭という被害を受けた。
同日、志摩郡と早良郡にも攻め入り、それぞれ殺害112人と19人、拉致435人と44人、馬牛74疋頭の被害が出ている。
突然の出来事ゆえに日本側は迎撃の体制は整っていなかったが、志摩郡の文室忠光が急ぎ派遣された大宰府の兵と共に防戦。賊徒数十人を倒し、撃退したという。
この日、大宰府は状況を朝廷に伝えるため、解文(報告書)を作成し、飛駅使(早馬)を都へ送った。
隆家も親しい間柄の実資に、「刀伊国の者50余艘が対馬島の来着し、殺人・放火しています。要害を警固し、兵船を差し遣わします。大宰府は飛駅で言上します(倉本一宏『現代語訳 小右記10』)」としたためた私信を送っている。
これらと、翌4月8日に送った飛駅使が都に到着するのは、4月17日のことである。
隆家、自ら最前線で指揮を執ることに【4月8日】
4月8日、刀伊の兵船が筑前国那賀郡能古島(現福岡市西区)に来着した。
刀伊軍に対応するため、能古島の南方に位置する博多警固所(防衛施設)に、神尾佑が演じる平為賢らが派遣され、防衛にあたった。
大宰府はこの日も解文を作成し、飛駅使を都へ送っているが、それによれば、隆家が自ら軍を率いて警固所に至り、合戦することになったという(『小右記』寛仁3年4月18日条)。
心酔する隆家が最前線で指揮を執る——大宰府軍の士気は、さぞかし上がったことだろう。
平為賢の活躍【4月9日】
4月9日早朝、刀伊軍は博多田(現福岡市博多区)に来襲し、警固所を攻撃した。
この時、平為賢とおそらく彼の一族と思われる平為忠が、「帥首(指揮官)」として敵軍に馳せ向かい、多くの敵を射殺した。刀伊との戦いにおいて、為賢はめざましい活躍をみせたといわれる(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』)。
また、藤原実資の日記『小右記』寛仁3年4月25日条には、刀伊人は筥崎宮(現福岡市東区箱崎)を焼こうとしたが、大宰府兵が前行する兵を一人射殺したところ、船に乗って逃げ出したことが記されている。
未曾有の危機、去る【4月10日〜4月13日】
その後の二日間は、「神明ノ所為(神仏の加護)」
そのため大宰府側では、兵船38艘の急造がかない、
刀伊軍が4月11日未明に筑前国志摩郡船越津(
4月12日の酉剋(午後5時〜7時)、刀伊軍は上陸し、
その結果、40余人の刀伊軍の兵が矢に当たって死去し、2人が捕虜となった。
勝ちに乗じて大宰府軍は、平致行や平為賢らが、船数十艘で追撃す
すると隆家は、「先ず、壱岐・対馬等の島に至るように。日本国境に限って襲撃するように。新羅(高麗)国境に入ることのないように」と誡めたという(『小右記』寛仁3年4月25日条)。
翌4月13日、刀伊人は肥前国松浦郡に出没し、沿岸の村々で劫掠を行なった。
これを前肥前介(さきのひぜんのすけ)源知が、郡内の兵を率いて退却させた。ついに刀伊軍は海の向こうに帰っていったという。
こうして、隆家らは刀伊軍の撃退に成功し、危機は去ったのだ。
隆家は実資に、「異国人は去りました」としたためた書状を送ったという。
行賞はなし?
未曾有の危機を救ったのだ。隆家らは、さぞかし膨大な行賞が貰えるだろうと思いきや、そうではなかったようである。
都から届いた同年4月18日付の勅符(諸国に勅命を下すための公文書)には、「勲功者には行賞を与える」とあったため、隆家は11人の勲功者の名を連ねた注進状(報告書)を送っている。
勲功者のトップに名が記されたのは平為賢で、隆家は入っていない。
同年6月29日には陣定が開かれ、勲功者の処遇が議論された。
意外なことに議論されたのは、勲功者にどのような行賞を与えるかではなく、行賞を与える必要があるか、否かであった。
刀伊との戦闘は4月13日に終わっており、勅符が到着する前に勲功を挙げているのだから、行賞は不要ではないかというのが、その理由だった。
渡辺大知が演じる藤原行成と町田啓太が演じる藤原公任は、「行賞は不要」と主張したが、藤原実資は「行賞を与えなければ、今後、奮戦する者がいなくなる」と意見し、最終的には行賞が認められた(『小右記』同日条)。
だが、隆家も為賢も、何も貰えなかったのかもしれない。
史料に残る限り、行賞を得たのは、大蔵種材と藤原蔵規の二人のみだという(倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』)。
この結末を、隆家がどう感じたのかはわかっていない。
ドラマの隆家なら、自分はともかく、配下の者には報いて欲しかったと思ったのではないだろうか。
筆者:鷹橋 忍