再発見された「明智光秀寄進状」は本物か?改名の経緯からみる「明智光秀」という署名の“違和感”と“真意”

2024年12月27日(金)6時0分 JBpress

(歴史家:乃至政彦)


史料の原本発見

 令和6年(2024)12月19日、滋賀県立琵琶湖文化館は、明智光秀寄進状の原本が、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)で発見されたと公表した(参考リンク 滋賀県〜所在不明古文書の再発見〜 明智光秀の寄進状が、ゆかりの寺にあった!)

【釈文】

   当寺仏供料
   七拾八石九斗弍合
   令寄進者也 仍
   如件

   天正五    明智
    九月廿七日 光秀〈花押〉
   来迎寺

 日付は天正5年(1577)9月27日で、署名は「明智光秀」となっている。

 内容は、滋賀県の聖衆来迎寺に「仏の供養のため、これだけのお米(が取れる土地?)を寄進いたします」と書き記したものである。

 米の量は78石9斗2合で、成人男性78人が1年間食べられる量になる。光秀はなかなかの太っ腹だ。

 この古文書は明治時代に、東京大学史料編纂場が原文を確認して『大日本史料』の原稿に書き写したが、そのあと原本の所在が不明となってしまっていた。

 それが「再発見」されたわけで、まことにめでたい話である。

 ただ、この寄進状には少しだけ疑わしいところがある。

 すでに光秀に詳しい福島克彦氏(大山崎町歴史資料館館長)が指摘していることだが、当時の光秀が「明智」ではなく「惟任」を名乗っていたことに触れ、署名部分を「後世に追記したものか」と判断を保留にする姿勢を示している。

 私もこの「明智光秀」の署名に違和感を覚える。

 ほかの武将に例えるなら、晩年の徳川家康が「松平家康(家康はもと「松平」)」、上杉謙信が「長尾謙信(謙信はもと「長尾」)」と称するようなあり得なさを感じるからである。

 そこで今回は光秀の名乗りに焦点をあてて、この問題を検討してみよう。


光秀改名の経緯

 光秀が明智から惟任に改名した経緯から見ていきたい。

 光秀は、もともと将軍・足利義昭の「足軽衆」出身で、幕府の一構成員であった(それ以前の経歴は未詳)。

 当初の名乗りは「明智十兵衛尉光秀」であったが、将軍が信長と対立すると、主君を義昭から信長に切り替えた。光秀の活躍もあって義昭は信長に敗北して、京都を追放されることになった。このため、信長は天下人も同然の立場になった。

 天正3年(1575)7月、信長は、一部重臣たちの名乗りを改めさせた。ここで、光秀も「維任(後で「惟任」に変更)」の苗字と「日向守」の官名を与えられ、以後は死ぬまでこちらの新しい名乗りを使い続けた。これ以降、光秀は死ぬまで「明智」の二文字を使っていない。

 なお、光秀改名の2年前、もと幕臣・細川藤孝が自発的に「長岡藤孝」へと改名している。将軍の天下ではなく、信長の天下になったことから遠慮してのことだろう。

 すると、光秀が2度と「明智」を使わなかった気持ちも理解できる。信長に警戒されることを恐れたのである。


もしも本当に「明智」と書いていたら?

 ここで2つの可能性を考えてみよう。

 ①【実際に光秀が「明智」と書いた可能性】と、②【光秀は下の名前しか書かなかった可能性】だ。

 ①から見ていく。もし本当に光秀が「明智」と署名していたとすれば、どういう理由が考えられるだろうか?

 この寄進状が作られた天正5年9月、織田信長はとても深刻な状況に置かれていた。

 本願寺攻めが長期化する中、雑賀衆が挙兵、しかも本願寺攻めに参戦していた松永久秀が裏切って反織田派に回ってしまった。

 畿内諸国が大変な事態になっていたわけだが、北陸情勢も激変の様相を呈していた。

 越後国の上杉謙信が西上作戦を開始したのである。しかも越中・能登両国を短期間で平定し、さらに加賀国の織田勢力圏へと侵攻を開始していた。

 信長は重臣・柴田勝家を大将とする大軍を差し向けたが、天正5年9月23日の手取川合戦で撃退されてしまう。

 しかも謙信はこれを得意げにあちこちに触れ回っていたらしい。謙信の狙いは、京都を追放された将軍・足利義昭の帰京で、これを阻害する信長を打倒する気でいた。「天下が大きく変わるかもしれない」と思う人は少なくなかっただろう。

 そこで光秀の寄進状だが、これは9月27日付で、手取川合戦からたった4日後の文書である。

 謙信勝利に、本願寺、一向一揆、毛利方に勢いがついていく。

 こんなデリケートな時期に、光秀が信長からもらった苗字「惟任」ではなく、将軍様の足軽衆だった時代の苗字「明智」を名乗り出したら、大変なことである。

 信長の耳に入ったら、「あのハゲ、まさか!」と激怒するに違いない。

 そしてそれを光秀が予想した上でやっていたとすれば、とんでもない食わせものだ。

「ほら、オレここで明智を名乗ったよ〜。みんなも状況をよく見ておけよ〜」とチラチラ周囲を眺めて、「うわー、バスに乗り遅れたらまずいぜー、俺も俺も!」を待っていたのかもしれない。

 ところが信長もうかつには口出しできない。厳しく叱って、「じゃあ今すぐ裏切りますね」と返されたら、取り返しがつかなくなるからだ。実際、松永久秀が離反したときも最初は「どうしたんですか、話を聞きますよ」と低姿勢な対応をしている。

 ひょっとしたら光秀が信長の叱責を待っていて、それを口実に反逆する恐れだってあるのだから、信長としては黙ってスルーする以外に手はないのだ。


光秀の真意は、離反防止対策か?

 次に②の【光秀は下の名前しか書かなかった可能性】を考えてみよう。

 実は、信長と光秀が亡くなった翌年の天正11年3月、織田家臣・惟住(これずみ)長秀が、この聖衆来迎寺に「前々からの比叡辻の78石9斗の所領を認めます」という内容の安堵状を発している(来迎寺文書)。

    七拾八石九斗者、坂本比叡辻分内、
    右如先々、令寄進候様之条、無相違、全可有寺納者也、仍如件、

              五郎左衛門尉
天正拾一年三月二日     長秀〈花押〉
来迎寺参

 惟住長秀が安堵した「78石9斗」は、光秀が寄進した「78石9斗2合」とほぼ一致する。すると光秀の寄進状は、「寺領寄進状」と見ていいだろう。米そのものではなく、それだけの米が取れる寺領を寄進したのだ。

 光秀の真意はこういうものだろう。もし謙信がこのまま畿内に接近してきた時、聖衆来迎寺が上杉軍に味方するかもしれない。光秀はこれを防ごうとして、比叡辻の所領を寄進したのではなかろうか?

 惟住長秀の安堵状を見返してみよう。ここには、苗字が付されていない。

 すると、光秀の寄進状も初めは苗字が書かれていなかったのではないかと思う。


昔の名前で出ている不思議さ

 こういう事情を踏まえて原本の写真を見てみると、「天正五    明智」の部分だけ墨が薄いのが気になる。

 戦国時代の古文書は、年次や苗字を省いて書かれていることが多い。

 しかも始末の悪いことに、古文書を保管する江戸時代の人々が「あとから誰が見ても間違えないようにしよう」と考えて、ご親切にも年次や苗字を加筆していることがある。

 ①【実際に光秀が「明智」と書いた可能性】と、②【光秀は下の名前しか書かなかった可能性】のどちらが正しいだろうか。みなさんも考えてみてほしい。

【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。

筆者:乃至 政彦

JBpress

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