これはパート主婦の兵糧攻めだ…働かない主婦の"3号年金"温存のまま「年収の壁70万円へ引き下げ」案の奇っ怪
2024年5月13日(月)11時15分 プレジデント社
■いっそのこと年収の壁を70万円程度に引き下げよう、という案
昨年度に大きな話題を呼んだ「年収の壁」について、岸田文雄政権は、一時的とはいえ、個人の義務である社会保険料支払いを、企業への補助金で、事実上、政府が肩代わりするという前代未聞の愚策を行った。
厚生年金などに加入する世帯主に扶養される配偶者は、みずから社会保険料を負担せずに、基礎年金や保険診療を受けられる。このため主婦パートタイマーが一定の年収額を超えると、自ら社会保険料を支払わなければならなくなることを防ぐため、年末にかけて働くことを止めてしまう。その結果、パート主婦に大きく依存する中小企業が岸田政権に圧力をかけたことから、年金制度の改革を公約したものだ。
この問題について、仮にパート主婦が年収の壁で一時的に損をしたように見えても、それ以上に働ければ、長期的に年金も増えて有利になるという「お説教」をする有識者もいる。しかし、子育てなどで十分に働けないパート主婦にとっては、現行制度の枠内で働くしかなく、多く働くと損するという不公平な制度の改革を怠る理由にはならない。
この長年の課題の解決のためには、年金制度自体の抜本的な改革が必要となる。しかし、少子化対策をはじめとして、もっぱら補助金のばらまきで対応してきた岸田政権が、どこまで抜本改革に踏み込めるのだろうか。
すでに公表されている社会保障審議会年金部会の報告書にある案として、これを最小限の制度改正で済ませる「社会保険の適用拡大」がある。
現行制度では一定規模以上の事業所で、所定の賃金を超えれば、厚生年金などの適用対象となる。
従業員が50人以下の企業(2023年10月以降)で、年収106万円(月収8.8万円)以上の賃金収入があれば、厚生年金や健康保険料を負担しなければならない。
出所=首相官邸ホームページ
年金部会では、この賃金要件が年収100万円台前半の中途半端な高さのために就業抑制が生じると考えて、その水準を年収70万円(月収5.5万円)まで、思い切って引き下げれば、さすがにその壁を越えて働かざるを得ないだろうという作戦である。
苦しい家計を補助するために働くパート主婦に対する、いわば「兵糧攻め」である。
報告書の中には3つのケースが挙げられているが、もっとも厳しい場合には、現行で適用除外となっている、学生、雇用契約期間1年未満、非適用事業所の雇用者についてもすべて対象となり、合わせて1000万人超の被保険者(保険料負担者)の増加が見込まれている。
しかし、アルバイトで生計を立てている大学生のように、収入が乏しく、就職するまでの一時的な期間しか働かない者にまで、安定した雇用のサラリーマンを対象とした厚生年金などの保険料支払いを求めることは論外といえる。また、転職率の高いアルバイトなどについて、わずかな保険料徴収のための企業の事務負担増は、かなりのものとなるであろう。
出所=厚生労働省ホームページ
■厚生年金保険料の未徴収問題
年金部会では無視されているが、現行制度の下でも厚生年金の被保険者の適用漏れ問題がある。今後、より徴収が困難な零細企業や個人事務所にまで適用を拡大することが、どこまで現実的に可能なのか。
社会保険料の適用漏れ問題については、2006年に会計検査院で指摘されて以来、厚労省でも継続調査をしている。最新の「国民年金被保険者実態調査」による推計では、適用対象であるにもかかわらず加入漏れとなっている可能性がある人が2020年で105万人程度、うち短時間労働者が13万人という。
保険料未納付者に対して、安易に免除者を増やせば済む国民年金の保険料未納付問題と異なり、企業が社会保険料を払わなければならない雇用者数を意図的に過小申告することへの対応はより困難である。
企業の収益に課税される法人税などと異なり、社会保険料は赤字でも支払わなければならない。しかし、企業が倒産すればそもそも徴収できないため、強制的な手段は困難となる。2021年度についての会計検査院の決算検査報告によれば、全国の年金事務所の約半分の所管する1100の事業所で、徴収に不備があったとした。
■第3号被保険者問題の放置
この厚生年金などの適用拡大には、政府にとって、反発の大きな第3号被保険者問題(会社員や公務員など厚生年金の加入者=第2号被保険者に扶養されている配偶者)に手を付けなくても良いという、隠れた意図もある。
もともと主婦パートの内、106万円の壁をすり抜けた者にとっては、被扶養者要件が外れる年収130万円の壁がある。従って社会保険適用の事業者や賃金水準などの要件を70万円へ引き下げれば、それだけすり抜けが困難になる。
社会保険の適用対象の賃金が月収5.8万円以下に引き下げられた後でも、就業調整を行う可能性があるパート主婦は、現行の雇用者として働く第3号被保険者370万人(2019年)の内18%に過ぎない(図表1参照)ことから、それ以上、とくに新たな対応策は不要になる。
しかし、これは中小企業のために、パート主婦の就業抑制を防ぐための観点だけで、肝心の働かない者も含めた、830万人もの第3号被保険者全体への対応にはなっていない。
この問題は根が深く、もともとサラリーマンの配偶者には自営業などの国民年金に任意加入できる制度があった。これに大部分の被用者世帯主が、配偶者のために追加的な保険料を自発的に負担することで老後の生活に備えていた。これは現在のNISAのような無税の個人年金の購入と同じことである。
それを当時の厚生省が、1985年に、せっかく任意の保険料負担をしていた世帯も含めて、扶養されている配偶者全員に無料の国民年金をプレゼントしてしまった。
こうしたバブル期の大盤振る舞いを、今からでも一定の経過措置の下で元の制度に戻すべきだろう。低所得で保険料を払えない家計には、免除制度を適用すればいい。
■基礎年金に固有の財源を
他の先進国では、国民全員に確実に給付すべき基礎年金は、本来は税で賄うのが当然だ。そうでない日本では、零細な企業や低所得の雇用者にも無理に厚生年金保険を適用しなければならず、保険適用漏れで無年金者が生じる可能性が大きい。
また、国民年金の保険料納付率が「8割」と比較的高い数字でなのは、保険料免除者を乱発しているためで、きちんと納付している者は5割以下に過ぎない。結局、その穴埋めは厚生年金などの被保険者に知らない内に、実質的につけ回しされている。
現行の基礎年金(国民年金)給付額の半分は税で負担されている。残りの半分も年金目的消費税で賄えば、長期的な年金財源は堅実なものとなる。仮に厚生年金の適用漏れがあっても、基礎年金だけは、すべての国民に確実に保障される。既存の国民年金保険料負担がなくなるため、その未納付者や免除者の第3号問題も一挙に解決できる。この年金目的消費税の賦課は、従来、保険料を負担していた被保険者にとっては、基礎年金保険料の引き下げと相殺されるため、「負担増」にならない。
実は、これに近い構想は、福田康夫内閣時に、厚労省ではなく、官邸に設置された社会保障国民会議で提言されており、決して非現実的な内容ではない。あと一歩で実現可能であったが、組織防衛を図る厚労省官僚によって阻止されてしまった。歴代総理の内には、目先の人気に囚われず、年金制度改革に真剣に取り組んだ人物もいたことの一例である。
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八代 尚宏(やしろ・なおひろ)
経済学者/昭和女子大学特命教授
経済企画庁、日本経済研究センター理事長、国際基督教大学教授、昭和女子大学副学長等を経て現職。最近の著書に、『脱ポピュリズム国家』(日本経済新聞社)、『働き方改革の経済学』(日本評論社)、『シルバー民主主義』(中公新書)がある。
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(経済学者/昭和女子大学特命教授 八代 尚宏)
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