タイトル「無題」の現代アートはどう鑑賞すればいいのか…美術のプロが教える「難解な作品」の楽しみ方

2024年5月25日(土)9時15分 プレジデント社

2006年11月30日、オーストリアのブレゲンツ美術館にて、米国人アーティスト、シンディ・シャーマンの「Untitled Film Stills」シリーズの作品を鑑賞する来場者たち。 - 写真=EPA/時事通信フォト

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現代アートはどのように鑑賞すれば楽しめるのか。『「わからない」人のための現代アート入門』(大和書房)を書いた藤田令伊さんは「その作品が発している『問い』に注目するといい。その意味をあれこれ考え、自分なりの発見や解釈を見つけることは現代アート鑑賞の醍醐味といえる」という――。

※本稿は、藤田令伊『「わからない」人のための現代アート入門』(大和書房)の一部を再編集したものです。


■現代アートを見るときの最初のポイント


私の場合、高く評価している作品は「見た目だけ」というものはほとんどありません。何かしらの意味や思想、メッセージが込められているもののほうに見応えを感じていることが多いです。


意味や思想、メッセージを内包している作品は、見る者に向かって「問い」を発してきます。たとえば、シンディ・シャーマンの《アンタイトルド・フィルム・スチル》がその一例です。


写真=EPA/時事通信フォト
2006年11月30日、オーストリアのブレゲンツ美術館にて、米国人アーティスト、シンディ・シャーマンの「Untitled Film Stills」シリーズの作品を鑑賞する来場者たち。 - 写真=EPA/時事通信フォト

ありとあらゆる自分が撮影されているさまは、無言のうちにも、見た者に「どうしてこんなものを撮影したと思いますか?」と問いかけてきます。見る者はその答えを考えないではいられません。つまり、鑑賞者は作品に引っかかりを覚え、考えを探してしまうのです。それが、作品が「問い」を発するということです。


そんなふうに「問い」の有無が一つのポイントになります。たとえ作品が何を伝えようとしているのかすぐにはわからなくても、何かを問いかけてきていることがわかれば、鑑賞者はその問いを詮索したくなり、それが作品の引力というべきものにつながります。それに対して、問いのない見た目だけの作品は、いわば、ただ独白しているだけです。


■作品からコミュニケーションを求められる


「問い」と「独白」は、情報を発信しているということでは同じですが、相手とのコミュニケーションを求めているかどうかという点では違います。「問い」が相手の答えを期待しているのに対して、「独白」は自分の世界はこうなのよと、一方的にただ語っているのみです。


その場合、「独白」の内容が見ている側にも響くものがあれば、鑑賞者は共振したり共感したりできます。しかし、そうでなければ空振りに終わります。したがって、「独白」タイプの作品は鑑賞者にアピールするのが難しいです。


「問い」は、ただ問えばよいというものでもありません。いかにもというわざとらしい問いかけや、教条的すぎる問いかけでは見る側は白け、共感にはつながりません。かといって、言葉不足では、問いとは感じてもらえなくなります。つまり「問い」にもほどよい加減というものがあります。どれくらい、どういう問い方をすればよいかということは、アーティストのセンスが問われる重要なポイントであり、作品のカンドコロになります。


また、問いの内容、つまりテーマもポイントです。環境問題を問うているのか、人間の業を問うているのか、戦争と平和について問うているのか、社会の矛盾を問うているのか、宗教的な意識を問うているのか、あるいは形而上のテーマを問うているのか、問いの内容次第でやはり鑑賞者の共感あるいは共鳴は大きく変わります。


■「わかりやすい」作品は面白くない


問いの内容によっては作品が陳腐に見えたり、アナクロに感じられたりすることもあるので、問いのテーマはやはり作品性の大きな要素です。ただし、どういうテーマで作品をつくるかはアーティストの問題意識の発露なので、あまりに鑑賞者に媚びて構想するとアーティストは自分を見失う危険があります。


何らかのテーマが設定されてあったとしても、それをストレートに表現していいとも限りません。たとえば、ウクライナ戦争に問題意識を抱き、戦争と平和というテーマをアーティストが選んだとしましょう。そして、反戦メッセージをストレートに表現する作品をつくったとします。するとどうなるか。


アート作品としては案外面白くないものに感じられてしまう恐れがあります。「戦争はやめよう、平和が大切」というメッセージはその通りなのですが、それだけでは文章で訴えているのと変わらず、アート作品である必然性は必ずしもありません。また、あまりにも説明的すぎると鑑賞者は単純すぎる印象を抱きかねません。


アート作品の場合、やはり適切な問い方というものが必要になってきます。そして、鑑賞する側は無意識のうちにも「問い」の訴求力を見きわめているのです。


写真=iStock.com/SeventyFour
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SeventyFour

■なぜか心惹かれたインスタレーション作品


そのように、ひと口に「問い」を含んだ作品といっても、なかなか奥深いものがあります。私にとって忘れ難いのは、もう20年以上も前の話になりますが、塩田千春が2002年9月に西新宿のケンジタキギャラリーで展示していた作品です。


ギャラリーの空間を大きく改装して、その作品は設置してありました。ギャラリーのなかに入ると、ムッとした異常な湿気がまとわりついてきました。


室内には4〜5メートル四方ぐらいだったでしょうか、白いタイルでできた浅いプールが設(しつら)えてあり、そこに朽ちて汚れたベッドが一台置かれていました。ベッドは錆びてボロボロで、スプリングもむき出しでした。ベッドのちょうど頭の位置の上にはシャワーが設けられてあり、水が出しっぱなしになっていました。


シャワーは循環式のようで際限なく水が流れ落ちており、そのため室内中に水蒸気が充満しているのでした。白タイルのプールも泥にまみれ、部屋全体に不穏で退廃的なムードが漂っていました。それが《不確かな日常 死の床》と題された作品でした。


いったい、これは何なのだ、と思いました。決してきれいではなく、洗練されているわけでもないインスタレーション。ですが、不快ではない。むしろ、不思議に心が引っ張られるものがありました。


■朽ち果てたベッドが意味するもの


作品は明らかに何かを見る者に語り、問いかけているのですが、それが何なのかははっきりとはわからない。しかし、作者が理由もなくこのような装置をこしらえるとは思われないので、何らかの考えがあってのことに違いないとは察せられます。


作品はそれを洞察してほしいと静かに訴えかけているようでした。旧来的なアートの概念からは大きく逸脱したものだけに、強いインプレッションを覚えました。


塩田はこの個展の開催に当たって、「私は、とくに幸福でも不幸でもない毎日を送っている。そんな、うつうつとした日々を送っていると、ほかの人と会話さえも持ちたくなくなってくる。そして、うっくつがこうじてくると、ついには自分と日常を壊したくなってくる。作品のアイデアが動き始めるのは、そんなときだ」という文章を寄せ、その文章が「今回の展覧会に関連しているような気がする」としていました(個展資料より)。


落ち続ける水は、ベッドを洗い流しています。つまり「洗浄」作業を続けています。「洗浄」とは、汚れを取り去って汚れる前の状態に戻す作業です。いつ終わるともなくシャワーの水がベッドを洗い続けるのを見るうちに、ふと、この「洗浄」とは「再生」ではないのかという気がしてきました。


■独自の発見や解釈は、鑑賞者にとっての作品


どんなものでも初めは新品です。それが時間の経過とともにいつしか汚れ、古びてくる。やがては朽ち果てる。図式的に表記すれば、


新品⇐汚れる⇐中古品⇐さらに汚れる⇐廃棄物

というルートがふつうの進行です。


それに対して「洗浄」は、


廃棄物⇐洗浄⇐汚れが落ちる⇐再生

というリバースルートとなります(この二つのルートをつなげれば循環ルートとなります)。


ふいに、塩田は自分を「廃棄物」寸前のように感じているのではないか、と思いました。つまり、錆びだらけの朽ち果てたベッドは塩田自身なのです。


とするならば、この「洗浄」は、自分が再び蘇るための、塩田にとっては切実な祈りと希望を秘めたものではないのか。とはいえ、その祈りあるいは希望が叶うかどうかは保証の限りではない。「洗浄」は「再生」が約束されたものではない。もし叶ったとしても、気の遠くなるような時間がかかるかもしれない。また、まったき「新品」に戻ることもない。


そういった文脈でインスタレーションを眺め直すとき、永遠とも思えてくるシャワーの放水に深い瞑想のようなイメージが想起させられてくるのでした。


ただし、塩田本人がそう考えていたかどうかはわかりません。前掲の文章を見ても、抑的な自分についてしか語られていません。しかし、アート鑑賞は、(作者の発信を含めて)さまざまな情報に沿ってのみ行われなければならないというものではありません。鑑賞者自身が独自の発見や解釈を行って何ら問題ありません。その独自の発見や解釈は、いわば、鑑賞者にとっての作品であり、ほかの誰でもない自分なりのオリジナリティの発露です。とくに現代アートの場合、そのことが当てはまります。


■なぜ「無題」というタイトルの作品が多いのか


ちなみに、現代アートでは「無題」というタイトルの作品が多いですが、それはアーティストが自身の思惑を超えた見方を鑑賞者に期待して、鑑賞の制約となり得る意味を含んだタイトルを避けて、あえて「無題」という題なき題としているのです(すべてではないでしょうが)。そこにこそアートの可能性があるとさえいえます。



藤田令伊『「わからない」人のための現代アート入門』(大和書房)

《不確かな日常》が伝えてきたものは、鑑賞者にとっても多かれ少なかれ、イメージを共有できるものだったでしょう。誰しも抑うつ的な精神を多少なりとも抱えていますし、年ごとの加齢に伴って自分が古びてきたと感じていることでしょう。そのことが作品あるいは作者と鑑賞者の接点となり、何かが共有できたことによって、鑑賞者は作品の発する未詳のメッセージを「問い」として感じ取ることができるわけです。作品に内包するものが何もなければ、こうした鑑賞メカニズムは起こりません。


作品の発する「問い」に応えるべく、あれこれと感じ、考えることは現代アート鑑賞の醍醐味です。たとえ「答え」がすぐにはわからずとも、そうしている時間そのものが作品と対話していることになります。


このときの鑑賞経験は、「問い」を発してくる作品の面白さを強烈に私に刷り込むことになりました。塩田千春がいまほど著名ではなかった時代です。そのときは30分以上もギャラリーで釘付けになっていたかと思いますが、ほかには誰もきませんでした。いまでは信じられないことですが。


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藤田 令伊(ふじた・れい)
アートライター、大正大学非常勤講師
単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる鑑賞のあり方を探っている。主な著書に『アート鑑賞、超入門!』『現代アート、超入門!』(ともに集英社新書)、『企画展がなくても楽しめるすごい美術館』(ベストセラーズ)などがある。
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(アートライター、大正大学非常勤講師 藤田 令伊)

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