NHK大河の道長像はリアルとはいえない…道長がまだ幼い長女を一条天皇に入内させた本当の理由

2024年6月30日(日)18時15分 プレジデント社

映画『衝動』の舞台あいさつに登壇した見上愛=2021年12月、東京都豊島区 - 写真=共同通信社

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藤原道長とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「自分自身とその家の繁栄のためなら手段を選ばない人物だった。自分の娘であっても彼にとっては『権力を握るためのコマ』だった」という――。
写真=共同通信社
映画『衝動』の舞台あいさつに登壇した見上愛=2021年12月、東京都豊島区 - 写真=共同通信社

■安倍晴明が発した「よいもの」「お宝」の意味


一条天皇(塩野瑛久)の身勝手な行動が目に余るようになってきた。NHK大河ドラマ「光る君へ」である。第25回「決意」(6月23日放送)では、一条は寵愛する中宮定子(高畑充希)がいる「職の御曹司」に入り浸って、藤原道長(柄本佑)が進言しても政務を顧みず、そうこうするうちに、鴨川の堤が決壊して人的被害が出る始末だった。


時は長徳4年(998)。少し前の場面で、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)が一条天皇に新年のあいさつをし、その際、道長に気になることを告げていた。「災いの根本を取り除かねば、なにをやっても無駄にございます」「帝をいさめ奉り、国が傾くことを防げるお方は、左大臣様しかおられませぬ」「よいものをお持ちではございませぬか。お宝をお使いなされませ」。


晴明のいう「災い」のひとつが、鴨川の堤の決壊だというわけだが、気になるのは「よいもの」「お宝」とはなにか、であろう。それは6月30日放送の第26回「いけにえの姫」で明らかになる。


都は洪水に続いて大地震に襲われる。そこで安倍晴明は、今度は具体的に説く。続く天変地異を収めるためには、道長の長女である彰子(見上愛)を一条天皇のもとに入内させるしかない、と進言するのである。


■道長は「立派な人」として描かれているが


「光る君へ」では、道長は政権のトップの座に就いて以降も、相変わらず「立派な人」として描かれている。そして、脚本家は当面、その路線を維持するつもりなのだろう。道長は天変地異を収束させるための「いけにえ」として、愛する長女をやむなく、一条天皇のもとに差し出す――。そんなふうに描写されるようだ。


だが、道長が彰子を差し出そうと考えたのは、天変地異云々が原因ではない。あくまでも自分のためであり、家のためであった。


一条天皇は、「光る君へ」で描かれているように、定子を寵愛していた。しかし、それは当時の宮廷社会においては、きわめて常識外れのことだった。定子の父の藤原道隆は、関白にまで上り詰めたとはいえ、すでに病死していた。兄弟も流罪となり、赦免されて都に戻ったものの、かつてのような地位にはなかった。


つまり、定子には後ろ盾がなく、そのうえ彼女自身が出家してしまっていた。出家した以上、一条天皇とは離別したものとみなされるのが当時の常識で、すでに定子は一条天皇が目を向けるべき対象ではなくなっていた。


ところが、一条天皇は常識などお構いなしに、定子を寵愛し続けたのである。長徳3年(997)6月には、定子を内裏に近接した職の御曹司に戻していた。


もし、このまま一条天皇が定子に皇子を産ませれば、皇子の外戚になる甥の伊周や隆家が権勢を取り戻し、自分は追い払われてしまうかもしれない――。道長はそんな焦りに駆られたと思われる。だから、彰子の入内を急いだのである。


■一条天皇の焦り


永延2年(988)に生まれた彰子は、道長が、「光る君へ」で黒木華が演じる正室の源倫子とのあいだにもうけた第一子であった。


「光る君へ」の第25回では、道長が一条天皇に辞表を提出したが、これは長徳4年(998)3月のこと。年が明けて長保元年(999)になると、道長は2月に、数え12歳(満年齢は10歳)にすぎない彰子の裳着(女子の成人式)を行った。


むろん、そのスケジュールは事前に組まれていただろう。そして、彰子の裳着が、彼女を入内させるための準備であることは、だれの目にも明らかだった。一条天皇とすれば、最高権力者である道長の娘が入内すれば、尊重しないわけにはいかない。とはいえ、数え12歳の少女が懐妊し、出産するとは思えない。


この時点で一条天皇には、まだ皇子がいなかった。従兄で春宮(皇太子)の居貞親王(のちの三条天皇)には、すでに皇子がおり、このまま自分に男子が生まれないままだと、自分の皇統は途絶えてしまいかねない――。それが一条天皇の立場だった。


男子がほしい一条天皇だが、近く入内するであろう彰子には、まだ懐妊する力がない。一方、貞観元年(976)の生まれで、彰子より一回り年長の定子は非常にいとおしい。彼女は貴族社会からは総スカン状態だったが、女子を産んだ実績はある。


一条天皇なりに逡巡したと思われるが、結局、彰子の裳着が行われる前後に、定子を一時的に内裏に戻した。むろん、目的は「妊活」だったと思われる。人目を忍んで職の御曹司に通うだけでは、十分な「妊活」はできなかったということだろう。


■公卿たちが彰子に期待した理由


ここからは定子と彰子、事実上は一条天皇と道長の駆け引き合戦が熾烈化する。とはいえ、道長のほうが応援団は分厚かった。そもそも、2月9日の彰子の裳着には、右大臣の藤原顕光をはじめ多くの公卿が参列した。倉本一宏氏は、その理由をこう記す。


「後見のいない、しかも出家している定子から皇子が生まれでもしたら、道長と定子の関係、また道長とその皇子との関係、さらには道長と一条天皇の関係がうまくいくとは思えず、政権、ひいては公卿社会が不安定になるという事態は、大方の貴族層にとっては望ましいことではなかったはずである」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)


その後、懐妊した定子は8月9日、出産場所となる平生昌邸に引っ越した。このとき一条天皇は、公卿たちに手伝うように命じたが、ほとんどだれも従わなかった。催促され、藤原時光と実資がやってきただけだった。


道長がわざと同じ日に、宇治への遊覧を企画して公卿たちに誘いかけ、みな、そちらに参加したのである。道長の定子への露骨な嫌がらせだが、公卿たちが道長に従った理由もまた、上記した倉本氏の見解のとおりだと思われる。


そして、いよいよ11月1日、彰子は入内し、多くの公卿が付き従った。7日には彰子を女御にするという宣旨(天皇の意向の下達)が下った。ところが、奇しくも同じ日、定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産したのである。


その11日後、藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』によれば、道長は霍乱(現在の急性胃腸炎)で倒れている。


写真=iStock.com/Hannizhong
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hannizhong

■前代未聞の「一帝二后」制度


この当時、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭は、「光る君へ」で渡辺大知が演じる藤原行成だった。行成によれば、敦康親王の誕生に、一条天皇はよろこびを隠さなかった。一方、道長はみずからの日記である『御堂関白記』で、一条の皇子誕生について一切触れていない。


触れたくない事実だったのだと思われるが、道長としては手をこまねいているわけにはいかない。まだしばらく懐妊の可能性がない彰子の立場が、後宮のなかで低下しないように策を講じる必要があった。


ちょうど12月1日、太皇太后昌子が亡くなった。当時、后は太皇太后、皇太后、皇后の3枠で、空席がなければあらたにその地位には就けなかった。だが、席がひとつできた。そこで道長が考えたのは、その空席に彰子を入れ、皇后の別称である中宮とし、一条天皇という一人の天皇のもとで、前代未聞の「一帝二后」を実現することだった。


それにあたって道長が頼ったのは、姉で一条天皇の母である東三条院詮子と、藤原行成だった。まず、詮子が一条天皇に手紙を書き、それを行成が一条に届ける。一条はどうしたものかと行成に尋ね、行成が進言する、という手順だった。


「一帝二后」が必要だという理屈は、次のようなものだった。日本は神国なので、天皇もその后も神事を務める必要がある。ところが、定子は出家して仏教における尼になっているので、神事を務めることができない。だから、彰子を中宮にして、神事を務めさせる必要がある――。


道長に義理堅い行成の説得もあって、一条天皇はこの進言を受け入れるしかなかった。彰子の立后の儀が行われたのは、長保2年(1000)2月25日のことだった。


■大人に翻弄された「争い」の結末


そもそも道長は、「一帝二后」を実現する以前から、一条天皇が彰子に少しでも惹かれるようにと必死だった。『栄花物語』によれば、女房40人、童女6人、下仕え6人を、容姿や人柄のほか出自や育ちのよさにこだわって選りすぐったという。


また、山本淳子氏は「道長は財力で天皇を娘・彰子にひきつけようと工夫した」と書き、こう具体的に記す。「部屋の外まで香り立つ香、何気ない理髪の具や硯箱の中身にまで施された細工。天皇の文学好きを知る道長は和歌の冊子もととのえ、当代一の絵師・巨勢弘高に歌絵を描かせ、文字はまたも行成に筆を執らせた」(『道長ものがたり』朝日選書)。


しかし、彰子がまだ「子供」だということもあったのだろう。一条天皇の定子への寵愛は冷めることがなかった。そして、彰子が立后の儀を前にして、内裏から道長の屋敷である土御門邸に移ったタイミングで、定子を内裏に呼び寄せた。


道長は『御堂関白記』に、一条が定子を参内させたことについて、露骨な不快感を記しているが、道長の心配をよそに、3月に定子はふたたび懐妊した。


もっとも、こうして定子と争っていた彰子は、現代でいえばまだ小学校高学年という年齢であった。この争いも彼女の意志とは無関係で、彼女は大人たちの事情によって、翻弄されているにすぎなかった。その意味では、「光る君へ」のタイトルのとおり、「いけにえ」そのものだった。


しかし、定子との争い自体は、さほど長くは続かなかった。懐妊した定子は、この年の12月15日、第二皇女の媄子を出産したものの、後産が下りず、翌日早朝に亡くなってしまったからである。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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