児童2人を殺害した少年Aは本当に“怪物“だったのか? 「萎びた野菜のようだった」と語る関係者も…小さな実像を「肥大化」させたマスコミ、世間のあやまち

2025年5月27日(火)18時0分 文春オンライン

〈 《事件から28年》14歳の中学生が児童2人を殺害、切断した11歳の子どもの頭を使って犯行声明…神戸連続児童殺傷事件「少年A」のその後の人生 〉から続く


「さあゲームの始まりです」「殺しが愉快でたまらない」——まだ14歳の中学3年生が残忍な方法で児童2名を殺害したことで、世間を驚かせた1997年の酒鬼薔薇事件こと神戸連続児童殺傷事件。当時のメディアや世間は「Aをまるで人知を超えた怪物」のように扱っていたが、その評価は本当に正しかったのか?


 長年、少年犯罪を追い続ける毎日新聞の川名壮志氏の新刊 『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか:不確かな境界』 (新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/ 最初から読む )



被害者の少年の首が置かれていた神戸市立友が丘中学校の校門(画像:時事通信社)


◆◆◆


「さあゲームの始まりです」


 それにしても、神戸の事件が起きたのは1997年のこと。四半世紀以上もすぎた事件が、ともすれば、いまだに世間の話題になるのは、なぜだろう。


 たしかに、事件は衝撃的だった。


「さあゲームの始まりです」


「殺しが愉快でたまらない」


 中学校の校門に放置された小6男児の頭部の口元には、無差別殺人を示唆するような紙片がはさまれていた。Aはみずからを酒鬼薔薇聖斗と称して、「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない」と地元の新聞社に声明文を送りつけてもいた。


 いわゆる劇場型犯罪だった。


 Aが逮捕されるまでの1カ月のあいだ、報道機関だけでなく、世間も、知識人も踊らされた。ミステリーまがいの「犯人」探しがあり、声明文の文面を、名だたる識者が文才があると絶賛した。あの当時、Aはまるで人知を超えた怪物(モンスター)のようなあつかいを受けていた。


 しかし、である。


 本当に、Aは世間が畏怖するような怪物だったのか。今から考えると、そこに違和感を覚える。


 たとえば、識者が舌を巻いた声明文。よくよく読んでみると、じつは当時のマンガや映画で使われたセリフと似通ったものが多く、そこに純粋なオリジナリティーは見いだせない。


「ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている」


 そんなふうに自分を特別視し、いたずらに自意識過剰で誇張された文言を使いたがるのは、思春期ならではの傾向で、今では中二病(厨2病)と呼ばれるたぐいのものだ。ちなみに、この言葉がはやったのは、Aの事件の後だ。ネット掲示板「2ちゃんねる」が開設された後、2000年以後とされている。


 自己愛と、それに伴う自己肥大や憐憫がにじむ表現は、今では「イタい(痛々しい)」とくくられてしまうにちがいない。


 そう考えると、Aの文章が優れていたというより、むしろ当時の知識人が「本物」を見極めることができなかった、というのが実態に近いのではないか。


 ただ、少年事件では、少年の実名は明かされないし、大人の刑事裁判にあたる少年審判は非公開だ。本人の実像がわからないだけに、報道も、世間も、見たい怪物像を、Aに投影していたきらいがある。いつの時代でも、肥大化されたイメージに振り回されるのが、少年事件の特徴なのだ。


 だが、実際はどうか。


 Aとじかに会った関係者が抱いた印象は、むしろ貧弱さだ。


「初めて会った少年Aは華奢な少年というだけの印象だった」


「萎びた野菜のようだった」


 これは、少年審判を担当した井垣康弘裁判官が見たAの姿だ。


 少年院にいたAとかかわった複数の更生関係者から私は話を聞いたが、Aのを怪物というよりも、情緒不安定な「子供」ととらえる人が多い。


太田光「ダサダサじゃない、こんなの」


 Aは『絶歌』の出版とほぼ同時期の2015年にウェブサイトを開設し、自らが描いたグロテスクなイラストをアップしている(既に閉鎖)。


 意外なことに、それを見て鋭い批評をしたのは、爆笑問題・太田光氏だった。


「自分が特別だと思っているんだろ。この表現がいかに平凡かってことがわかってないんだよね。ダサダサじゃない、こんなの」


 下手な評論家よりも、市井の教養人のほうが、ずっと本質を突いていたといっていい。


「非社会」の子供


 それでも、Aの行動そのものが、常に私たちを動揺させているのは事実だ。1997年の事件もそうだし、2015年の『絶歌』出版もそうだ。


 その理由は、どこにあるのか。


 Aの行動が、「反社会」型ではなく「非社会」型であることが大きいだろう。


 たとえば、昔ながらのヤンキーや不良少年の行動パターンは、じつは私たち一般人でも、想像がつく。ツッパリ。チンピラ。ヤクザ。彼らの行為がどんなに粗暴でも、「反社会」という機軸で、社会と結びついているからだ。更生関係者や専門家ではない一般人にとって、「反社会」型の犯罪については、その思考回路じたいには納得がいくのだ。


 ところが、「非社会」型の行動は、社会そのものとのつながりが切れている。社会や世間、他人への共感性が乏しい「非社会」型の人間は、私たちの想像がおよばない思考回路で、とんでもないことをしでかす。


 まさか、そんなことしないよな——。


 私たちが、思いもよらぬような突飛な行動に出てしまう。


 Aがおこした事件も、手記の出版も、そもそも予想だにしなかったから、私たちは度肝を抜かれたのだ。


 Aは再犯こそしていないけれど、更生していない。そんな疑念が払拭できないのは、更生には私たちの生きる社会とつながりを保ち、そこに根ざした生活をすることが不可欠だと私たちが考えているからだろう。


 だからこそ、自己顕示欲のために手記を出版する、というようなAの「非社会」的な行動に、私たちは決定的なズレを感じ、得体のしれなさを嗅ぎとるのだ。


 やはりAは、まだ何かが欠落しているのではないか——と。


 もし、Aが自分の心情をノートに書き付け、胸の苦しみを吐き出すだけなら、それは彼の自由だ。あえて世間に公表しようとする、その行為が「非社会」的なのだ。


 大事なことが、ひとつある。


 こうした突飛な行動をするのは、Aの想像力や才気があふれるからでも、彼が怪物だからでもない。


 それは、むしろ、彼の想像力の乏しさが引き起こしているということだ。


 自分の行動が、遺族をどれだけ傷つけるか。更生に携わった関係者をどれだけ裏切るか。そして、A本人の両親や兄弟をどれだけ苦しめるか。その振る舞いがいかに残酷なものであるかを理解する想像力を、彼は欠いていた。


 ちなみに、こうした「非社会」的なことが平気でできる存在は、私たちの社会にもいる。


 それは、子供だ。


 子供は、「社会」化されていないからこそ、なによりも自己愛を優先する。そして、他者の痛みを実感する共感力も育っていないから、たわむれに虫を殺すような残酷なことができる。


 長らく怪物あつかいされたAだが、じつは怪物というよりも、大人になりきれない子供、といったほうが実像に近いはずだ。


消えた少年A 不惑のA


 大人になることは、必ずしも成熟することではない。Aが手記を出版したとき、彼の社会復帰は、本人が想像した以上に、くすぶり、つらいものだったのかもしれない。少なくとも彼が夢想する世界と、目の前にある現実とのギャップは大きかったのだろう。


 だが、自分の非才や非力、そして取り巻く環境を受け入れ、凡庸を生きることも、大人になるための方策だ。


 じっさい、一般社会に生きる成人の多くは、そうやって大人を演じている。


 結局、大人と少年の境界など、みずから乗り越えていくしかないのだ。


 それなのにAは、成人Aになること、あるいは凡人Aとして、人波にまぎれることを受け入れられなかった。


 社会は成人Aが目立つことなく暮らすことを望んでいたのに、肝心のA自身が、手記で「元少年A」を自称し、過去の残像にすがりついてしまった。


 Aが本当に更生したのかは、だれにもわからない。だが、少なくとも、A本人が、少年Aの幻影にこだわる時期は、とうに去っている。


 彼もすでに42歳(2025年5月現在)。今、私たちと同じ社会に生きているのは、中年Aにすぎない。月日はうつろい、私たちは新しい時代を生きている。


 人波にまぎれて、目立つことなく、凡庸を生きること。


 これはAに科せられた罰の一部であり、受け入れるべき代償でもある。


 おかした罪に比べれば、それはけっして重い罰とはいえないだろう。


 ただ、それでも。


 私たちの社会が、他者との共生を前提に成熟するならば、Aの存在をみだりに拒絶するわけにはいかないのだろう。事件から時がたち、今や問われているのは、Aのありかたではない。私たちの社会のありかたへと局面が転じている。


(川名 壮志/Webオリジナル(外部転載))

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