日本初の「バレンタインデーセール」は悲惨だった…1958年に新宿伊勢丹で開かれたチョコフェアの衝撃の売上額
2025年2月14日(金)9時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/digihelion
※本稿は、市川歩美『味わい深くてためになる 教養としてのチョコレート』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
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■長崎の遊女が受け取った「しょくらあと」
日本に初めてチョコレートが伝わったことがわかる、最も古い記録は長崎県にあります。
ときは江戸時代。1797年に、遊女がチョコレートを長崎の出島のオランダ人から受け取ったとする記録が残されています。それは、長崎の有名な遊郭街・丸山町の『寄合町諸事書上控帳(よりあいまちしょじかきあげひかえちょう)』で、遊女の貰い品目録に「しょくらあと六つ」と書かれていることからわかります。「しょくらあと」とは、チョコレートのこと。チョコレートを六つ、受け取ったということです。
さらに1867年、パリで開催された万国博覧会に江戸幕府の代表として赴いた、第15代将軍徳川慶喜の弟で水戸藩主の徳川昭武がフランス・シェルブールのホテルでココアを味わった記録も残っています。
つづいて明治時代。かの有名な岩倉使節団も、チョコレートと深い関わりがあります。
1873年、岩倉具視を特命全権大使とする使節団が、フランスを訪れました。このとき、使節団はパリ郊外のチョコレート工場を視察し、チョコレートを味わったとされています。この出来事は『特命全権大使 米欧回覧実記』に記録されています。
■チョコレートは「貯古齢糖」
使節団が伝えたチョコレート情報をキャッチし、日本で初めてチョコレートを作ったのは、東京の両国若松町にあった菓子店「米津凮月堂(風月堂)」(のち東京凮月堂)の米津松造さんです。
東京凮月堂の社史によると、1878年12月21日の『郵便報知新聞』に「この度、ショコラートを新製せるが、一種の雅味ありと。これも大評判」と書かれたようです。また、同年12月24日付『かなよみ新聞』の広告には、チョコレートが「貯古齢糖」と表記されています。
ただ、今では想像しづらいのですが、当時の日本ではチョコレートを、あやしげな食べ物と見なす人が多かったようです。
珍しいうえにとても高価だったので、購入するのは一部の裕福な人や居留地に住んでいた外国人などに限られていました。
■森永、明治がチョコレート製造を開始
そんな日本でチョコレート産業が芽生えたのは、1899年、アメリカで西洋菓子の製菓技術を学んだ森永製菓(以下、森永)の創業者・森永太一郎さんが帰国してからのことです。
森永太一郎さんが作った「森永西洋菓子製造所」(現在の森永製菓)は、いち早くチョコレートクリームを製造して販売し、1909年には、日本初の板チョコレート「1/4ポンド型板チョコレート」を発売しました。
さらに、森永は1918年、日本で初めてカカオ豆からチョコレートの一貫製造をスタートしました。これによって、チョコレートの大量生産が可能になったのです。
その後、明治製菓(現在の明治)が森永につづき、1926年にカカオ豆からチョコレートの一貫製造を開始しました。
両社がチョコレートの大量生産を始めたことで、多くの日本人にチョコレートが届くようになり、消費量も次第に増加していったのです。
第二次世界大戦中はチョコレートの製造がストップしたものの、戦後には再開します。
チョコレートの人気は、雑誌や新聞広告を通じて広がっただけではありません。
1951年に民放ラジオの放送が始まり、1953年にはテレビ放送もスタート。放送メディアによっても、その魅力は全国に伝わっていきました。
■「バレンタインにチョコ」はどのように始まったか
2月14日はバレンタインデーです。
日本のバレンタインデーは、昭和時代に「女性が男性にチョコレートを贈り、愛を伝える日」として定着しました。そして近年は、「チョコレートを通じて愛情や感謝を表す日」へとシフトしつつあります。
世界を見渡してみても、バレンタインがこれほどチョコレートと深く結びついている国は、じつは日本だけです。
それでは、日本のバレンタインデーがなぜチョコレートを贈る日となったのか、その歴史を振り返ってみましょう。
■欧米の習慣をチョコレートのプロモーションに
日本でバレンタインデーとチョコレートが結びついたのは昭和初期、1930年代のことです。
1932年、神戸でチョコレートを製造・販売していた神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ。以下、モロゾフ)が、自社のカタログにバレンタインギフト向けのチョコレートを掲載しました。モロゾフがバレンタインデーとチョコレートを結びつけたきっかけは、当時の創業者が、欧米には2月14日に愛する人に贈り物をする「バレンタインデー」という習慣があると知ったことでした。
さらにモロゾフは、1935年2月、英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』にバレンタインチョコレートの広告を掲載しました。広告には英語で「バレンタインデーには、愛する人にチョコレートを贈って愛を伝えましょう」というメッセージが添えられていました。
しかし、この広告は在日外国人向けの英字新聞に掲載されたため、反響は限られたものでした。
ちなみに、1956年には、不二家がバレンタインセールを行なった記録があります。こちらは、愛する人にハート型のお菓子やチョコレートを贈ることが提案されていました。
■3日間のセールの売り上げはわずか170円
つづいて1958年、メリーチョコレートカムパニー(メリーチョコレート。以下、メリー)は、東京・新宿にある百貨店「伊勢丹」で初めてバレンタインセールを開きました。ただ、セールといっても、手描きの看板を掲げただけの小さな売り場だったようです。
写真=iStock.com/winhorse
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きっかけは、当時の社員が「パリには2月14日に花やカード、そしてチョコレートを贈るバレンタインデーという習慣がある」と知ったこと。
自社のチョコレートと結びつけて、3日間のセールを行ったものの、売上はわずか170円……。当時はバレンタインデーという習慣自体、ほとんど誰も知らない時代でしたから、無理もない結果だったかもしれません。
しかし、メリーは翌1959年にも、バレンタインセールを実施。その年はハート型のチョコレートに名前を彫って贈るという斬新な企画が注目を集め、前年よりも話題になりました。
メリーはこの年に、「年に一度、女性がチョコを贈って愛を伝える日」という習慣を、百貨店を訪れる女性たちに提案したのです。
■女性の社会進出がバレンタイン文化を後押しした
昭和30年代(1955〜1964年)に入ると、日本は高度成長期を迎えます。新しい商品が次々と生まれ、チョコレートの人気が高まっていったこの時代に、バレンタインデーのプロモーションに力を入れたのが森永です。
市川歩美『味わい深くてためになる 教養としてのチョコレート』(三笠書房)
先ほども触れましたが、森永の功績は、民放ラジオやテレビなどのメディアを活用してチョコレートの魅力を伝えたことです。バレンタインギフトの広告は、1958年に創刊された週刊誌『女性自身』(光文社)をはじめ、新聞や雑誌など多くのメディアに掲載されました。
当時の広告を見ると、今でもワクワクした気持ちになります。バレンタインデーにチョコレートを購入した人だけが応募できるプレゼント企画などがあり、女性たちが夢中になった様子がうかがえます。日本で一部の人しか知らなかったバレンタインデーは、少しずつメジャーな存在になっていきました。
バレンタインデーが日本で知られはじめたのは、女性の自立や社会進出が注目されはじめた時期と重なります。「女性が自分の意思で行動する」ことを前提としたバレンタインデーのコンセプトは、そんな時代の流れにマッチしていました。
時代の機運も、バレンタインの広がりを後押ししたのでしょう。
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市川 歩美(いちかわ・あゆみ)
チョコレートジャーナリスト
大学卒業後、民間放送局に入社し、長年ラジオディレクターとして多数の番組企画・制作を行う。5歳頃から筋金入りのチョコレート好き。90年代にフランス・パリのチョコレートの美味しさに衝撃を受け、本格的なチョコレート愛好家となる。放送局の仕事を離れた後、メディアや企業のオファーをきっかけにチョコレート関連のコーディネーター、ジャーナリストとしての活動をスタート。現在は、日本唯一のプロのチョコレートを主なテーマに掲げるジャーナリスト・コーディネーターとして各種メディアに情報を発信。チョコレートのトレンドと情報の源流を作っている。チョコレート関連イベントへの出演、記事の監修、商品企画、コンサルティングなどチョコレートに関連する幅広い分野で活動中。著書に『チョコレートと日本人』(早川書房)がある。
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(チョコレートジャーナリスト 市川 歩美)