愛する人と国家への忠誠、どちらをとるべきか…文豪・森鷗外とドイツ人女性との小説よりも切ない恋の結末
2025年2月15日(土)17時15分 プレジデント社
国立国会図書館 近代日本人の肖像(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/342)より
※本稿は、野口武則『宮内官僚 森鷗外 「昭和」改元 影の立役者』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
国立国会図書館 近代日本人の肖像(https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/342)より
■『舞姫』から読み解く青年・森鷗外の心境
1890(明治23)年1月、28歳になる鷗外が初めて発表した小説『舞姫』は、ドイツ留学から帰国途上の若い官僚が、ドイツで交際した女性・エリスとの別れを回想する手記である。主人公・太田豊太郎のモデルは、鷗外が留学先のドイツで出会った別の軍医とされるが、鷗外の実体験と重なる部分も多い。豊太郎を通じ、自身の心境を小説の形を借りて表現したと言える。
現地で過ごすうち新たな価値観に触れ、自由な精神とエリスとの恋愛を手に入れたと思ったのもつかの間、豊太郎は国家から逃れられない運命にあった。近代国家建設を担うことが期待された国費留学生は、国家と運命を共にすることが要請された。
嗚呼(ああ)、独逸(ドイツ)に来し初(はじめ)に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。曩(さき)にこれを繰(あや)つりしは、我某省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯(あまがたはく)の手中に在り。
■「一点の憎むこころ」の意味
天方伯は当時伯爵だった山県有朋、官長は上官の石黒忠悳(ただのり)、天方伯と豊太郎を取り持つ友人の相沢謙吉は賀古と重なる。芽生え始めた自由の精神も確固たるものではなく、天方伯に従わず、ドイツに残ればどうなるか。不安がこう記される。
本国をも失ひ、名誉を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝(つい)て起れり。
日本という後ろ盾も、官僚としての名誉も失えば、個人として残るものがあるのか。エリスとの愛に生きたとしても、広々として果てしない大都会に集まる「群衆」の一人として埋もれるだけだ。根無し草の人間となりかねない実在的な不安、自己喪失感を言い表している。豊太郎は自らの意思にかかわらず、時代や社会の要請として、再び国家に仕える道を選ばざるを得なかった。
ただ、物語はこう締めくくられる。
嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころは今日までも残れりけり。
■エリスのモデルになった女性
実際の鷗外もドイツで交際した女性と別れ、官僚として生きていくことになる。
留学を終えた鷗外が横浜に帰港してから4日後の1888(明治21)年9月12日、この女性が横浜港に到着した。エリスのモデルとされるが、鷗外の日記や書簡に彼女の名前や素性は記されていない。多くの研究者らがエリス探索を長年続けて来たが、ドイツ在住の作家・六草(ろくそう)いちか氏によって特定された(六草、2011年)。
ベルリンの州公文書館や教会公文書館に残る当時の文書を調査した結果、1866年生まれで現・ポーランド領のシュチェチン出身のエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトと判明したのだ。
エリーゼは1カ月間、東京の築地精養軒ホテルに滞在した。その間、鷗外の家族は、結婚を断念するよう説得を続けた。鷗外は10月14日、賀古に書簡を送っている。エリーゼに関して鷗外自身が残した唯一の記録である。
彼件(かのけん)は左顧右盻〔左右を見回しためらうこと〕に遑(いとま)なく断行仕候(つかまつりそうろう)(中略)其源(そのみなもと)の清からざること故どちらにも満足致候様(いたしそうろうよう)には収まり難く、其間(そのかん)軽重する所は明白にて人に議(はか)る迠(まで)も無御座候(ござなくそうろう)
家族や周囲の反対に遭い、「遂にエリーゼと別れることを決心し、それを賀古に伝えた手紙」(山崎國紀、1999年)とされる。その3日後、エリーゼは横浜港から帰国し、鷗外は埠頭から見送った。
森鷗外記念館(写真=Tischbeinahe/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
■女性と国家の狭間で煩悶
結局、鷗外はエリーゼとの愛を捨て、海軍中将だった赤松則良・男爵の長女・としこと結婚する。鷗外の帰国前から森家と赤松家で縁談を進めており、その道筋に乗らざるを得なかった。
『舞姫』には登場しないが、鷗外は留学出発前の1884年7月28日と、帰国後の88年9月27日、明治天皇に拝謁している。国家が国費留学生にかける期待の表れだ。鷗外の自筆年譜『自紀材料』と、天皇の正史『明治天皇紀』に記される。しかも、帰国後の拝謁は、エリーゼが日本滞在中のことだ。
エリーゼと国家の狭間で煩悶(はんもん)していたドイツからの帰途、漢文の日記『還東日乗(かんとうにちじょう)』に記した88年8月9日作の漢詩で「何を以(もつ)てか天恩(てんおん)に報いん」と詠じている。「天皇の官吏」という意識を拭(ぬぐ)い去ることができず、拝謁を終えた以上、もはや逃れられない運命だったに違いない。
『舞姫』で太田豊太郎という創作の人物を通じて国費留学生の苦悩が描かれたが、実際の鷗外も留学で得た自由の精神は捨てがたかったはずだ。エリーゼとの結婚を断念せざるを得ない状況に追い込んだ国家、官僚機構に対し、「一点の憎むこころ」も残したことだろう。
石黒忠悳著『石黒忠悳懐舊九十年』博文館、1936年。前列右から3番目が石黒、2列目左端が森鷗外。2列目右から2番目には北里柴三郎の姿も。(写真=懐舊九十年 - 国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
■官僚の傍ら文筆業を始めたワケ
官として生きることになった鷗外にとって、自由の精神との二律背反をどう解消すればよいのか。それを昇華できる活動が文筆業だった。鷗外研究者の山崎一穎は「鷗外にとって表現することは、己れを客観化し、組織から個を奪い返し、浄化する行為であった」(山崎、2022年)と指摘する。
陸軍医として本格的に歩み始めた鷗外は、昼に公務、夜や休日に文筆という二重生活を続けた。昼は私を捨てて国家に尽くしつつ、夜の文筆で抑圧された鬱憤(うっぷん)を解き放ち、精神を浄化させる。内面の自由を得るために必要なことだった。官僚にもかかわらず、小説を書いたのではない。官僚として生きるために、小説を書き続けなければならなかったのだ。
『舞姫』を書き上げ、個人と国家の間での葛藤や矛盾の均衡を保てるようになったことで、鷗外は天皇を中心とした国家に仕える「近代官僚=近代日本人」になることができたといえる。業務に差し障ると上官から注意されても筆を折らなかったのは、官僚・森林太郎のアイデンティティーを保つために文学が必要だったからだろう。
野口武則『宮内官僚 森鷗外 「昭和」改元 影の立役者』(KADOKAWA)
当然の帰結として、小説には、自由を求めながら実現できなかった後悔やエリーゼの影がちらつく。明治天皇の逝去と乃木希典の殉死に触発され歴史小説を書き始めた大正期は、組織と個人の関係を問うテーマがより強くなる。官僚組織の中でも最も規律が厳しい軍の内部で鷗外は生きた。個人との矛盾や対立が深まれば深まるほど、作品を通じての解放も大きくなる。
これに先立ち、自らの経験を題材に青年の性欲史を描いた『ヰタ・セクスアリス』(1909(明治42)年)は、過激な性描写や思想を描いていないにもかかわらず発禁とされ、石本新六陸軍次官から厳重注意を受ける。
現職の高級官僚の身で、社会や国家への批判や皮肉を現代小説の形で書くのは差し障りがある。武家社会という歴史の舞台を借りることで、官僚組織への批判を作品に込めることが可能となったのだろう。
(参照)
山崎一穎『森鷗外論攷完』翰林書房、2022年
山崎國紀『森鷗外の手紙』大修館書店、1999年
六草いちか『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』講談社、2011年
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野口 武則(のぐち・たけのり)
新聞記者
1976年埼玉県生まれ。中央大学法学部卒。2000年毎日新聞社に入社し、秋田支局、政治部、大阪社会部を経て、令和の代替わりで各部横断の取材班キャップ。20年3月末まで政治部官邸キャップを務めた後、政治部副部長、論説委員。小泉、野田、第2次安倍政権で官邸の皇室問題を担当し、令和改元の約7年半前から元号取材に取り組み、舞台裏を最も深く知る記者の一人。森鷗外記念会会員でもあり、公文書を基に宮内官僚としての森鷗外の公務について独自の研究を続けている。著書に『元号戦記 近代日本、改元の深層』(角川新書)。共著に『靖国戦後秘史 A級戦犯を合祀した男』(角川ソフィア文庫)、『令和 改元の舞台裏』(毎日新聞出版)がある。
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(新聞記者 野口 武則)