転校先で涙が止まらなかった…福島県伊達市を離れた15歳の少女が感じた「原発事故なんてなかった」という空気
2025年3月31日(月)16時16分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/piyato
■知らぬ間に実験道具とされていた伊達市民
(前編からつづく)
2011年5月、わかなさん一家は山形県へ自主避難した。伊達市を離れたことは、結果的によかったことだと私は思う。伊達市が辿る「その後」を見れば、伊達市に残ることは、より苦しい現実を味わうことになったと思われるからだ。
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ここで、伊達市の「その後」を、かいつまんで説明したい。
2011年7月、伊達市は他の自治体に先駆け、市内全ての小中学生と幼稚園児に個人線量計(ガラスバッジ)を配った。そして翌年には全市民に、ガラスバッジを装着させた。わかなさんも伊達市にいたなら、ガラスバッジを付ける日常を強いられたはずだ。
一体、何のために? 後に明らかになったのは、全市民のガラスバッジデータをもとに、「被曝の心配はそんなにはない」「除染もそれほど必要ではない」という趣旨の学術論文が、東大教授の早野龍五氏、福島県立医科大学助手の宮崎真氏(肩書は当時)により作成されたということだ。伊達市は、全市民の医学的データを市民の同意なしに学者に渡すという違法行為まで行い、こうして市民は知らぬ間に実験道具とされたのだ。
論文はその後、捏造疑惑が明るみに出て、国際学術雑誌の掲載が撤回された。市民のデータがまったく市民の知らぬ間に、論文作成の材料にされていたことも、問題視された。宮崎氏は、この論文で一度博士号を取得したが、この問題が報道され、伊達市議会での追及の声があがった後に、博士号は剝奪された。しかし、論文の共同執筆者の早野龍五氏には、お咎めらしいお咎めは何もない。その後、東大を退官し、順調に同大学の名誉教授になっている。
除染に関しては、全国で伊達市だけのABCエリア方式(汚染の度合いで、市内を3つにエリア分けする方式)を採用、わかなさんの居住地を含む、市内8割を占めるCエリアは国の除染基準に該当していながら、遂に除染されることなく終わっている。
伊達市民が被った「理不尽」を、自主避難したわかなさんは味わうことはなかったわけだが、わかなさんは避難先での高校3年間を「暗黒」と表現する。
実際に、自ら死を選ぶまでに追い詰められることとなる。
■避難先は原発事故などなかったような世界
避難先に待っていたのは、放射性物質が降り注ぐことのない気持ちのいい青空ではなく、福島原発事故など対岸の火事、否、それどころか、まるで事故などなかったかのような世界だった。
写真=時事通信フォト
2011年8月24日、福島県伊達市で国の除染モデル事業を視察する細野豪志原発事故担当相(当時=左から2人目)。当初、除染に積極的だった伊達市だが、その後、除染に消極的と方針転換した。 - 写真=時事通信フォト
「編入した高校では、原発事故はまるで異国の出来事で、まだ心配しているのか、というような雰囲気を感じざるを得ない日々を送っていました。そんな状況で、周囲と仲良くなりたいなんて、思えるかどうか。誰にも、心を開けませんでした」
声をかけられるのは、こんなことばかり。「そんなこと(原発事故)より、勉強に集中しましょう」「いつ(福島に)帰るの?」「もう、大丈夫なんでしょう?」。「早く学校に慣れてくださいね」とも言われた。酷暑に「メルトダウンしそうだね」と笑いを取る教師。余震に怯えるわかなさんへの冷ややかな眼差し……。
「とはいえ、クラスで一緒にいるわけですから、友達はできました。でも、親しい仲になろうという主体性があったかと言えば、なかったです。原発事故での大人不信から始まり、もう人間不信なので、仲良くなるっていう前提が存在しない」
一方、後ろを振り返れば、罪悪感が募るばかり。
「同じ土地に住んで原発事故の被害を受けた者同士なのに、『私だけが逃げた』という罪悪感が消えることはありませんでした。友達は被曝し続けているのに、私は……っていう思いが頭から離れませんでした」
転校して2カ月、授業中、不意に涙がこぼれた。悲しい、虚しい、つらい、悔しい……、本当の感情がいつのまにか溢れ出していた。
「3・11から泣いたり怒ったりすることすら、まともにしてこなかったことに、そのとき、初めて気づきました」
避難後、伊達の友人に連絡を取ることは一切なく、山形にも心を開いて話せる人はいない。孤独だった。そして、心にあるのは強固な人間不信。だけどそれも、当然のことだった。
15歳の少女が見せられたものは、「子どもを守らない」大人たちの偽善に満ちた顔だった。社会も大人も正しいと思い込んでいたかつての中学生は、以前と同じ地平に立ち戻れない。歴然とした大人への不信、社会への大きな疑問が、わかなさんの心に渦巻いていた。
■「文句があるなら、食べなくてもいい」
では、家は安心できる場所だったかと言えば、わかなさん自身を損なうという意味で、危険な場所となっていた。
「両親は福島にいるよりは大丈夫だと、普通に生活するようになりました。母は私からしたら、『ないだろう』っていう、地域の食品をよく買ってくるようになりました。茨城県産のレタス、群馬県産のナスなど、当時はまだ放射能汚染があった地域の野菜や、汚染水が流れている海を泳いでいる魚とか」
せっかく避難したのだから、食べるものにも気をつけてほしいと懇願しても、母親は「文句があるなら、食べなくてもいい」の一点張り。
「おそらく、意識が向く方向性が私と母では違っていたのだと思います。母からすると、『もう、普通に暮らしていくしかないのよ』という意識だったんだと思います」
原発事故への不安な気持ちや怒りを、家族と共有したくてニュースを見て呟けば、「お前は黙っていろ」「子どものくせに」と遮られる。そんな両親の様子に、弟もまた、姉を攻撃する。
「弟の方がある意味残酷ですよ、子どもだから。親よりも容赦ない。『姉ちゃん、うるせえ』、『いつまでも、そんなこと言ってんじゃねえ』って、食卓で言ってくる。だから、何も言わないように私はする。本音を言えない。家族には」
精神的にも身体的にも非常に調子が悪いのに、親からは「怠けているんじゃないの?」の一言。
原因不明の体調不良に加えて、学校でも家でも孤立し、生きる希望も見つからない。自室で泣いているとき、母親が突然入ってきて、こう言った。
「まだ泣いているの! いい加減にしなさい! 避難するって、あなた、あのとき言ったじゃない!」
避難させてあげた、選ばせてあげたんだという強いメッセージは、わかなさんを打ちのめす。「だから、文句を言うな」と言わんばかりに。
■北海道の人たちは原発を問題視している
苦しくて、いつも涙がこぼれた。それは、「理不尽」に対しての涙だったと今、思う。
「悔しかったのかな。そして、罪悪感。私はある意味、強烈に正義感が強かったので、自分がこの国のお金が使えるんだったら、みんなのこと逃がしたのにって、ずっと思っていました。そうしない国への怒りとか、悔しさとか。国は命より、お金とか立場とか、肩書とかを優先したわけです。国がやっていることへの怒りが、大きかったと思います。なんで? せめて子どもを守ろうよって」
命より大切なものはない。これが今も変わらない、わかなさんの信条だ。命より優先されるものがあることが、理解できなかった。でも、事故後2カ月、福島で何が行われたかをその身で知っている。
「一度、自殺しようと思いました。でも、できなかった。それより少し前、高校2年生の時の12月からTwitterという、拠りどころができたんです。福島にいたときのことを呟いたら、『そんなことがあったの?』『知らなかった』『大丈夫?』という、見ず知らずのいろいろな人からあたたかなメッセージがきました」
メッセージを送って来る人たちのプロフィールを見ると、なぜか、北海道の人たちが多いことに、わかなさんは気がついた。
「どうやら、北海道の人たちは原発を問題視している人たちが多いようだって。だから、私が北海道に行ったら、きっと過ごしやすくなるだろうと、高校生のときに感じました。もっと、生きやすくなるんじゃないかって思いました」
高校卒業後、わかなさんは山形で短大に進学した。その頃から既に、心は決まっていた。
「短大の単位をできるだけ多く、1年生のうちにほぼ取ってしまって、19歳のとき、親にバレないように準備して、家を出ました。もちろん、行き先は北海道です。迷いはありませんでした。家を出ることしか、考えていなかったから。このまま家にいたら、私はどうなるんだろうって、そのことばかり、思っていました」
このまま家にいたら、未来は何も見えない。だから一人で周到に準備をした。
■幸せの光の中にいるから、より闇が深く見える
「最後の最後に、親に通告して家を出ました。前もって言うと、絶対に足止めされることはわかっていたので。親の性格は、よくわかっていますから」
自分が自分として生きるための、19歳の新たな旅立ちだった。短大時代に貯めたバイト代でアパートを借り、仕事を探した。食品通販の仕事を経て、スーパーでのレジ打ちなど派遣社員として働いた。短期間だったが、カメラマンの仕事もした。保育園にいって、子ども達の写真を撮ったりした。また、障害者の介助の仕事にも就いた。
「ギリギリの生活でしたが、自由になった喜びの方が大きかったですね」
黒川祥子『心の除染 原発推進派の実験都市・福島県伊達市』(集英社文庫)
北海道へ渡ってほどなく、わかなさんは請われるまま講演活動を行うようになった。
「Twitterで出会った人たちは、チェルノブイリのときから反原発の活動をしていて、北海道はそういう人たちが多いことを知りました。私も当時のことを伝えたいという気持ちがありましたし、福島での体験を話してほしいと言われ、いろいろな場所で話しました。正直、誰かのためにではなく、自分自身に対して話していたという面が大きかったですね」
2021年の3・11に自著を出したことが、一つの大きな転機になった。
「本を書いたことで、私はすごく楽になったし、講演はもういいかなって思えたんです。やり切った感があって、私が伝えるべきことは、ここに全部、書いてあるから」
今が一番幸せだとわかなさんは心から感じている。もちろん、罪悪感は残っているし、過去をなかったことにすることは、決してできない。
「事故当時のことが記憶として遠ざかっていくことへの複雑な思いはあるのですが、日々、幸せを感じながらも、当時のことを思い出したとき、何か、強いギャップを感じるんです。幸せな日々の光の中にいるから、より闇が深く見えるような。……当時は逆でした。闇の中にいて光が眩しかった。幸せになる、ということについて、拒否感や罪悪感が強かったと思います」
それは拙著『心の除染』を読んだときにも、わかなさんが強く感じたことだった。
「もちろん、ABCエリアのことは知っていましたけど、当時の私が知らない事実が書いてあって、15歳の私が理解したことと、今、大人になった私が理解することって別のことだと思いました。当時は子どもという立場で、ものすごくダークなものを抱えていたけれど、大人になってこの本を読んだ時、現実の闇の深さにたじろいだというか、この闇はどこまで深いんだろうって、重たいものがのしかかってくるような感じがありました」
■今も付いて回る「甲状腺エコー検査」
今でも年に2回、北海道に住むわかなさんの元に、福島県立医大から甲状腺がんについて検査結果などの情報が封書で送られてくる。
わかなさんはしばらく前から福島県の「県民健康調査」は受けずに、通常の健康診断時に甲状腺のエコー検査を行うことにした。
「年2回の封書が、その1回分が葉書になったんです。おそらく経費節減のための、簡略化でしょうね。私は県立医大からこれが届くたびに、毎回腹が立って、くしゃくしゃにして破り捨てたくなる。なんで、こんなのが必要なんだ。私の人生になんで、こんなもの(甲状腺エコー検査)が付いて回るようになったのかって」
わかな『わかな十五歳 中学生の瞳に映った3・11』(ミツイパブリッシング)
その感情が少し、別のものに変わった。
「今回、お知らせが届いて、ようやく自然と思えたんです。『ああ、私、被曝者なのね』って。突然、何の前触れもなく腑に落ちて、『あっ、被曝者なんだね』って」
ようやく客観的に、状況を見られるようになったと、わかなさんは自然に思う。
伊達市の事例からもわかるように、今後も、日本のどこであっても、原発事故が起きれば優先されるのは経済であって、命ではないことがよくわかる。
15歳で体験したその事実は、決して消えるものではない。そのこと全てを受け止めて、北海道の大地で、わかなさんは溌剌と、元気いっぱいの笑顔で、今、この時を生きている。
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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待——その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)