「いただいた仕事は、それ以上にして返す」料理研究家の母がこだわった「誰がつくっても失敗しない料理」
2025年4月12日(土)10時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/lielos
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■簡単につくれる家庭料理で人気。料理研究家の先駆者
料理研究家の草分け的存在として活躍した母・堀江泰子。実は、軍人だった父と結婚した当初は、まったく料理ができなかったそうです。母の祖父、私にとっての曽祖父は貴族院議員で、母は本家の跡継ぎとして、それはそれは大切に育てられたお姫様でした。生まれは宮崎県ですが、東京の小学校に入るためにお手伝いさんと一緒に上京。青山にある青南小学校を経て、自由学園に通いました。
そんな母が料理の道に進むことになったきっかけは、NHK『きょうの料理』の初代講師だった河野貞子先生の料理教室に通うようになったことでした。たまたま河野先生のお宅が近所で、河野先生は、母の親友のお母様。母は、迷うことなく、河野先生のお宅に、料理を習いに通うようになりました。料理教室のあとは、そのままつくったお料理をお盆に乗せ、布巾を被せて父との夕食用に持ち帰っていたそうです。「教室のあとは夕食の献立考えなくて良いから助かったのよ!」と、よく話していました。次第に河野先生の雑誌の仕事などが増えて忙しくなり、母も先生のお手伝いをするようになったのです。
『きょうの料理』が始まると、講師となった河野先生の助手として母もNHKについていくように。「本番中、先生に何かあったら私が代わりにできるように」と、先生がテレビで実践する料理を何度も練習して同行していたそうです。
その後、母もNHKの講師をするようになります。最初のテーマは、お弁当でした。私たち3人きょうだいはみんな毎日お弁当だったというのもあったのでしょう。それをきっかけに雑誌の仕事も増え、母はとても忙しくなりました。私が中学生の頃です。
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
母と同じ料理家の道を選んだ、堀江ひろ子さん。母・泰子さんと一緒に仕事をする写真が多い。 - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)
母のレシピのこだわりは「シンプルで誰もが再現できる」こと。特別な食材や調味料を使わず、家庭で簡単につくれる料理を心がけていました。仕事には熱心で、ポリシーは「いただいた仕事は、それ以上にして返す」ことでした。「いつ誰がつくっても必ず同じ味になる=失敗しない料理」が提案できるよう、計量や正確さには徹底的にこだわっていましたね。納得がいくまで何度も細かい試作を繰り返していた姿が記憶に残っています。
母のレシピで反響が大きかったもののひとつは、『きょうの料理』で、紹介した「赤飯」です。当時の『きょうの料理』は、再放送も含めて放送が3回。再放送をする度に視聴率が上がり、「とても簡単にできるお赤飯!」と話題を呼びました。
赤飯は、本来、前日の晩にもち米を水に漬けて、翌日1時間ほど蒸します。しかし、母のレシピは、もち米を1時間水に漬けて、20分蒸すだけでよいという画期的なものでした。今でもこのレシピを紹介すると、お礼を言われることがとても多いんですよ。
■料理はこだわり抜き、教育にも熱心だった母
料理研究家として最前線で活躍し、当時は珍しいワーキングマザーとしてキャリアを重ねていた母ですが、家ではとても教育熱心でした。決して経済的に余裕があったわけではないのですが、子どもたちは3人とも私立に進学。特に、兄には越境させて評判のよい区立中学に通わせ、そこから私立高校に進学させたほどで、家庭教師もつけていました。
時代的なこともあり、兄は母の実家を継ぐために養子縁組していましたから、母にとってはとにかく「特別で大事な存在」。母の言うことをよく聞いて手伝う私は、反抗期らしい反抗期もなく、叱られた記憶もほとんどありません。一方で母に反抗的な妹は、いつも叱られてばかり。同じきょうだいでも母との関係は、三者三様だったと思います。
私たちにとっては「厳しいお母さん」でもありましたね。料理を教えてくれるときも、私がやりたいことをすぐにやらせてくれるわけではなく、サラダなら野菜の洗い方や切り方から。それができるようになると、ようやくドレッシングの作り方という具合で、段階ごとにていねいに教えてくれました。
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
「母が大切にしたのは『シンプルで誰でも簡単に再現できる』レシピ。とても研究熱心でした」と懐かしそうに語る、ひろ子さん。 - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)
私は、当時では珍しい“鍵っ子”で、家に帰ると誰もいないのが当たり前。だからといって、寂しいという感覚はありませんでした。自分で言うのもなんですが、私はしっかり者で母の言うことをよく聞く良い子。仕事でいない母の代わりに、小学校低学年から近所に買い物に行ったり、文化鍋でご飯を炊いたり。テーブルに食器を並べて準備するのも、私の役目です。忙しい母の代わりに、ごく自然に手伝えることは手伝っていました。
ワーキングマザーといっても、母の仕事は夕方5時までに終わらせて、夕食は家族全員でとるのがわが家のルール。父は小遣いが少なかったせいか、外で会食するよりも、お客様を家に招くことが多かったです。あの時代の人にしては珍しく、父は「仕事するなら、しっかり責任を持ってやりなさい」と母の仕事を理解し応援。母の仕事と子どもの学校のことを考え、父ひとりで単身赴任することも多かったです。おかげで、母も好きな料理の仕事を思い切りやれたのだと思います。
母はとてもおしゃれな人でした。私の小学校の入学式には、赤紫色のニットのスーツで参加。参観日もほかのお母さんとは違う洗練されたスタイルで目立っていて、子ども心にも自慢の母でした。紫がとても好きで、服はもちろん、靴もメガネもバッグも紫。母へのプレゼントは、とにかく紫色のものを探して選ぶようにしていました。娘のさわこがそんな母を「紫姫」と言い出して、家族の間では母のことをそう呼ぶようになっていきました。
■好奇心旺盛、いいものはすぐに取り入れる柔軟さも
母の手伝いをしているうちに、私も自然と料理に興味を持つようになりました。小学6年生のときに、母が雑誌で紹介するピクニック弁当を試作していたことがあります。具が多く、油を使っているチキンライスがうまくおにぎりにまとまらず苦戦していた母を見て、ふと私が「ラップを使ってみたらいいんじゃない?」と提案してみたんです。
母は子どものアイデアだからとバカにせず、早速試してくれました。すると「これはいいわね! 熱くないし形もくずれないわ」と、「ラップおにぎり」としてレシピに採用。私も、自分のアイデアが使われたことがとてもうれしかったのをよく覚えています。
好奇心旺盛な母は、それまでのやり方にこだわらず「いいものはすぐ取り入れる」という柔軟性も持ち合わせていました。調理具や調理家電も、新しいものはどんどん試したいタイプ。電子レンジが普及する前から、家庭料理で電子レンジを使うレシピを熱心に研究したり、フードプロセッサーもいち早く取り入れたり。わが家には今でもパナソニックがナショナルだった時代の古いフードプロセッサーがあり、現役で使っています。
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
右=ナショナルとパナソニックのフードプロセッサー。ブランド名は変わっても、母の時代から同じ型番を愛用。左=母・泰子さんの先駆的な著書。「冷凍・かんづめ」「レンジ」を使うレシピ本を昭和40年代に出版。 - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)
研究熱心な母に連れられて、食べ歩きに行くこともよくありました。「家庭でつくるドリア」のレシピ依頼がきたとき、一緒に東京會舘に食べに行ったところ、出てきた料理が想像と全然違ってびっくり。ドリアのソースが別添えだったんです。でも、母はそのときの体験をもとにして、家庭用にアレンジしたレシピを考案していましたね。私が大学生の時には、月に1回フランス料理のシェフを呼んで料理教室で講習をしてもらい、それを家庭でつくりやすくアレンジ。海外旅行に行っても、現地のガイドから料理を教えてもらい、母流に取り入れた家庭料理のレシピをたくさんつくっていました。
■母が教えてくれた、“人を幸せにする”料理の世界を
高校生になると、母の料理教室に生徒として2年間通い、その後はアシスタントとして手伝うように。レシピの準備や調理補助、片付けなどしながら母の背中を見て、料理研究家としての基礎を学びました。料理の仕事に役立つようにと、大学は日本女子大学で栄養学を専攻。週に一度、午後の授業を友だちに代返を頼んで欠席し、母の雑誌などの撮影の手伝いをしていました。大学でその授業を受けるより、母の教室で現場を手伝うほうが、はるかに学びになると思っていたんです。今、思い返すと申し訳ないですね。
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
ひろ子さんも「電子レンジ」を使ったレシピ本を出版した(1990年) - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)
私は大学卒業してすぐ料理研究家としてデビューしますが、母が現役の間は、母の仕事では必ず私が助手を務めるなど、母娘で活動することが多かったですね。若い頃は反抗することがなかった私ですが、母が歳を重ね、私の仕事のほうが忙しくなってからは、仕事中に親子喧嘩することも増えました。遅れてきた反抗期、とでもいうのでしょうか(笑)。母も年をとって、昔と違うことを言い出したりするんです。「きっちり細かくやって」と教わったのに、「そこは適当でいい」とか。そうすると、「違うじゃない」と、つい文句を言ったりしていました(笑)。
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
母の背中を追いかけて、当たり前のように料理の世界に進みましたが、この仕事に就けて本当によかったと思っています。料理を教えていると、自然とみなさんが笑顔になってくれます。さらに、その人がおいしい料理をつくれば、その人の周りも自然と笑顔になります。そんなふうに人を幸せにできる仕事ができるのも、母のおかげです。「親の七光り」と言われたこともありますが、私はまったく気になりませんでしたね。私は生来プラス思考なんです。「親のおかげで素敵な仕事に就けて、たくさんチャンスをもらえて、いいでしょ」って。そんな母は8年前の2017年、94歳で大往生しました。母は、家族やたくさんの人たちに慕われながら、料理研究家として、姫として、充実した人生を送れたと思っています。
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堀江 ひろ子(ほりえ・ひろこ)
料理研究家・栄養士
宮崎県出身。日本女子大学食物学科卒。母の故・泰子さん、娘のさわこさんと、母娘三代で料理研究家として活躍。長年の経験に基づく、合理的でつくりやすいレシピが人気。身近な材料で手早くできる料理を数多く紹介している。
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(料理研究家・栄養士 堀江 ひろ子 構成・文=工藤千秋)