本郷和人『べらぼう』本草学に医学、絵や鉱山開発まで手掛けた<山師>平賀源内。稀代の天才が幕府や藩への仕官を許されなくなった深いワケとは…
2025年2月12日(水)11時30分 婦人公論.jp
(写真:stock.adobe.com)
日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物“蔦重”こと蔦屋重三郎の生涯を描く大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ドラマが展開していく中、江戸時代の暮らしや社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「平賀源内」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!
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稀代の天才・平賀源内
ドラマでは安田顕さんが演じている平賀源内。
「山師」とそしられつつも、幕府の絶対的権力者・田沼意次に目をかけられ、その一方で、ジャンルを問わず、蔦重に対して各所で適切なヒントやアドバイスを伝える様子はまさに「稀代の天才」。
今回はその源内について記してみようと思います。
長崎へ遊学
源内は享保13年(1728年)に、現在の香川県さぬき市志度の白石家の三男として生まれました。
本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)
白石家は讃岐高松藩の足軽相当の身分の家で、源内自身は信濃・佐久の平賀氏(鎌倉時代初めに、源氏一門筆頭として大いに栄えた)の末裔と称しました。
子どもの頃から神童として知られ、13歳から本草学(薬用とする植物・動物・鉱物の、形態や効能を研究する学問)や儒学を学びました。俳諧など、文学にも親しんだようです。
父の死により22歳で藩の下級役人となり、25才頃には1年間長崎へ遊学しました。この地でオランダ語、本草学、医学、油絵等を学んだと推測されています。遊学を終えると藩に引退を願い出て許されました。
学者というより、優秀なプロモーター
大坂、京都で学んだのちに宝暦6年(1756年)には江戸に下り、本草学者の田村藍水に弟子入りし、儒学の総本家、林家にも入門しました。
ただし、当時の学問の基礎言語である漢文の読解力はたいしたことが無かった、とする見方もあります。それどころか、実はオランダ語の方もはかばかしくなかったようです。
才気煥発タイプには言語の習得は向いてない、というのは、箕作阮甫と勝海舟のエピソードではありませんが、あるあるなのかもしれません。
宝暦7年(1757年)、日本最初の薬品会(薬種・物産を展示する会)を発案し、その後も江戸で何度も物産会を開催しました。やっぱり学者というより、本質的には優秀なプロモーターなんですかね。
スタートアップ的な活動へ
ただし触れ込みはあくまで、新進の本草学者。その名が世間で知られるようになると、高松藩は彼の抱え込みを目論みます。
でも源内は「おれの望みはもっと大きい」と行動したため、やがて両者の関係はこじれることに。これが原因で、彼は幕府や他の雄藩への仕官が不可能になりました。
物産博覧会の開催が回を重ねるにつれ、彼の知名度は上がって幕府老中の田沼意次にも知られるようになり、杉田玄白や中川淳庵ら一流の学者とも交遊を持つようになりました。
明和年間になると、ベンチャーというかスタートアップ的な活動が盛んになります。
たとえば秩父や秋田では鉱山開発を行いました。秩父の開発については、既にドラマでも放送されましたが、そこで石綿を発見し、炭焼や通船工事の指導も行っています。
秋田藩士の小田野直武に蘭画の技法を伝えた(小田野は『解体新書』の図を描き、秋田蘭画を形成した)のもこの頃です。
高級見せ物となった「エレキテル」
安永5年(1776年)、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元することに成功しました。バチバチッと電気を発するエレキテルは話題を呼んで高級見せ物となり、その謝礼金は彼の生活費になりました。
ベンジャミン・フランクリンが凧を上げて雷が電気であることを突き止めたのが1752年。当時、世界的な水準からして、電気はようやく学問的な解明が始まったところでした。
ですので、この器械を用いて源内が何らかの研究を行ったというのなら大きな意味があるのですが…結局はバチバチッ、で終わり。
人々も源内自身も飽きて忘れていったようです。
実際、日本で電気学が始まるのは、大坂の橋本宗吉(1763〜1836)の登場によって、ということになります。
その生活は徐々に荒れるように
源内は色々なことに手を出したけれども、どれも大成功、にはたどり着けなかったのかもしれません。うーん、これも才気煥発タイプあるある、ですね。
そのため、彼の生活は徐々に荒れるようになります。鉱山開発は行き詰まり、心ならずも書き飛ばした戯作・浄瑠璃も大当たりをとれず、「憤激と自棄」に支配された日々を送るようになったようです。
その後、いろいろあってその生涯を終えることになりますが、ドラマではこれから放送されると思いますので、ここには記しません。ただし、そこでの何ともあっけないというか、不思議な最期については、諸説があります。
なお、「土用の丑の日」というコンセプトを作成したのは源内、文章の起承転結を説明するのに「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」という名文を作成したのも源内といいますが、いずれも確証はありません。
たくさんの才能を抱え、その人生を駆け抜けた人だとは思いますが、「結局は何したの?」と尋ねられると困ります。
「ウサギとカメ」ならカメの歩みが結局は勝つし、人は夏目漱石先生が仰るように、牛のように進んでいくべきなのかもしれません。
いろいろと考えさせられる人生を送った人、それが平賀源内なのかもしれません。
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