23歳で相撲部屋に入門→30歳で弟が突然「プロレスをやらないか」“最強の双子レスラー”が相撲引退からアラスカでのトラック運転手を経て、無謀なチャレンジを決意するまで
2025年4月27日(日)12時0分 文春オンライン
〈 ともに身長190cm超、合計体重約250kg…父はアメリカ海軍で身体もルーツも「ビッグスケール」だけど中身はキュート? 双子プロレスラー・斉藤ブラザーズの“波乱万丈な子ども時代” 〉から続く
全日本プロレスで活躍する史上最強の双子プロレスラー、斉藤ジュン(兄)と斉藤レイ(弟)によるユニット“斉藤ブラザーズ”を知っているだろうか?
ともに身長190cm超、合計体重約250kgの圧倒的なフィジカルを武器に、2021年のデビュー直後から頭角を現し、世界タッグ王座戴冠、プロレス大賞新人賞・最優秀タッグ賞受賞など、マット界を席巻している。
だが、その道のりは順風満帆ではない。大相撲出羽海部屋の力士として入門するも夢破れ、30歳で廃業。兄・ジュンはアラスカでトラック運転手を目指し、弟・レイは自分たちの生きるべき道を模索していた。“斉藤ブラザーズ”の夜明け前。決してそれは明るいものではなかった。(全3回の2回目/ 続き を読む)

◆◆◆
今度は兄弟で出羽海部屋の門を叩いた
——レイ選手が一旦後にした出羽海部屋に、どうして2人揃って入門することになったのか教えてください。
ジュン アメリカから帰国後、自分は埼玉の川越の方にあるK-1選手を輩出しているムエタイ式のキックボクシングジムの寮生としてトレーニングをしていました。練習に食らいつくことはできたんですけど、自分は体が大きかったので減量がとにかくきつかった。トレーニングをするにしても、食べないで続けることに限界を感じていて。そんなときに弟から、2人で相撲をやってみないかと誘われたんですね。母親が相撲好きだったこともあり、自分も相撲が好きでした。おまけに、相撲なら強くなるために過度な減量をすることはない。気持ちをゼロにして、イチからやってみようと思ったんですよね。
レイ 一度実家に帰ってきたものの、やっぱり相撲をやりたいという気持ちが強くて。最初から、そのまま続けてろよって話なんですけど、ジュンを誘ってもう一度正式に入門しようと。先輩力士には驚かれました。一度帰った奴が、2人になって戻ってきたぞって(笑)。
——相撲部屋は関取(十両以上)にならないと、プライベートな時間や空間が限られます。大部屋で共同生活を送ることが基本ですが、そうした環境は苦ではなかったのですか?
ジュン プライベートはもちろんなかったですけど、全然苦ではなかったですね。
レイ 言葉が通じない中でもコミュニケーションを取る必要があったハイスクール時代の経験が生きているというか。団体の中で生活することはアメリカでもやっていたことなので、自分も嫌ではなかったですね。
——普通、ずっと一緒にいると嫌気がさしたりしそうなものですが、お二人は本当に仲が良いですよね? レギュラー出演されている『OH!バンデス』(ミヤギテレビ)内の一コーナー「TAXIめしリターンズ」を見ていても阿吽の呼吸です。
ジュン いや〜ケンカばっかですよ(笑)。
レイ ずっと一緒だったんで仲がいいっていうよりは、協力してやっていこうみたいな感覚に近いのかな。
ジュン だな。一緒にいる方が頑張れるかなっていうのはあったかもしれない。
レイ 一緒に稽古して強くなった方が面白いっていうか、がんばれるんじゃないかっていうのはあったと思います。
ジュン 他の兄弟や双子がどうかは分かんないですけど、自分たちはそうでしたね。
「自分たちはやっぱり努力が足りなかったし、考えが甘かったなと思います」
——お二人は2009年9月場所から、ジュン選手は2017年5月場所まで、レイ選手は同年9月場所まで出羽海部屋の力士として在籍します。約8年の相撲人生を振り返ったとき、どんなことを思われるでしょうか。
ジュン 相撲は相撲で、人一倍以上はやったつもりではあるんですけど、結果的に関取にはなれなかった(※ジュン選手の最高位は西幕下47枚目。レイ選手の最高位は西三段目16枚目)。体力的なことで言えば、もっと続けられたと思います。自分らは仮に番付を上げることが厳しいと感じ始めたら、節目の30歳を区切りにしようとレイと話していたんですよね。
レイ 兄も言った通り、稽古はやっていたと思うんですけど、関取になって番付を上げていく人って、本当に人の何倍も稽古をしている。そう考えると、自分たちはやっぱり努力が足りなかったし、考えが甘かったなと思います。
ジュン 当時親方でいらっしゃった貴乃花さんのお話などを聞いていると、むちゃくちゃ稽古をしているんですよ。稽古のしすぎで怪我をしてしまうならその程度で、上に上がっていく人は最低でも必ずそれくらいはやっていたと。自分たちはそこまでやっていたかと言われれば足りなかったんだろうと。
レイ 自分たちは年齢制限ぎりぎりの23歳から相撲を始めました。やっぱり子どもの頃から相撲をしてたり、学生相撲出身の力士には経験値で劣ってしまう。それを埋めるには稽古をするしかなかったと、今はすごく思いますね。
夢破れ「30歳を目途に辞めよう」と決心
——ジュン選手は幕下に上がってからは勝ち越しと負け越しを繰り返しています。幕下以下は、本場所で7番の相撲を取るわけですが、4勝し続けることはやはり難しいのでしょうか?
ジュン 最初の3年ぐらいは順調に番付を上げることができたのですが、幕下に上がってから、どうしても伸び悩んでしまって。やはり……気持ちですね。初めて幕下に上がったときも、3勝1敗までいって、あともう1番勝てば勝ち越すというところで、そこから3連敗して負け越してしまった。
レイ それを何回も繰り返したもんな。
ジュン また3勝1敗までいくんですけど、そこから3連敗して三段目に落ちるっていうのを何回も繰り返したんですよ。勝たなきゃ絶対にダメだと思うと考えすぎて、体が硬くなって良い相撲が取れない。それが続くと、勝手に自分の中で“幕下の壁”みたいなものがあると思い込んでしまって、さらに悪循環になるというか。だから気持ちの面でも弱かったんだろうなって思いますね。
——レイ選手もやはり気持ちの面で勝ちきれなかった?
レイ そうですね。
ジュン 弟はケガもあったんですよ。
レイ これは言い訳ですけど、左肩の筋肉が切れて、一時期ボルトで固定していたんですね。その前までは番付も三段目の上位にいたんですけど、その怪我を機に2場所ほど休場して。以降は、元の番付まで戻すことができなかったです。その後には、目を怪我して、また休場してしまって。そこからは稽古もいまいちな感じでした。
——お二人が出羽海部屋に在籍していた時代の関取というと……。
ジュン 普天王関、出羽疾風関がいました。その後、自分らが5年目くらいのときに御嶽海関が入ってきて、これはものが違うなって。
——御嶽海関は、幕下10枚目格付出の資格を持つ学生横綱でした。
レイ 速攻で十両に上がると、いきなり十両でも優勝して。自分は付き人をやっていましたけど、強い人って当たり前のように上がっていく。それこそ横綱や大関になるような人は、さらにそこから人の何倍も努力している。そういう姿を見て、自分たちはいろいろ足りないなと気が付いたというか。
ジュン 28歳くらいのとき、弟と「30歳を目途に辞めよう」という話をするようになりました。
レイ 諦めました。28歳になって、今いる番付から逆算して関取になるのは現実的じゃないかなと思って。
30歳オーバーで未経験、なのに突然、「プロレスをやらないか」
——力士の引退は、「廃業」という言葉が使われます。ゼロに戻る——不安や恐怖もあったと思います。
レイ いざ辞めるとなったときは、やっぱり不安が大きかったですね。でも、やりたいこともたくさんあったので、違うことにトライしてみたいという気持ちもありました。自分の場合は、アウトドアや山登りのガイドのようなことをしたかったので、アメリカに戻ることにしたんですよね。
ジュン 自分は元々、トラック運転手をしていたので、引退したらアメリカに戻ってトラック運転手をやろうと決めていました。ただ、普通のトラック運転手ではなくて、アラスカなどの寒冷地で、凍った湖や川の上を走る特別なルート「アイスロード」を利用して物資を輸送する、専門のトラック運転手になりたいと思ったんですよね。
レイ 過酷で危険な仕事だったよな。
ジュン ちょっと危ないとは聞いていたんですけど、普通のトラック運転手じゃなくてアイスロードトラック運転手になりたくてアラスカまで行ったんですよ。
——メジャーデビューシングル『どっち?』のカップリング曲のタイトルは、『アラスカの空』。「夢の途中で躊躇うなら アラスカの山を見に行こう」という歌詞は、当時のジュン選手の心境だったんですね。
ジュン ところがその当時、アメリカ国内でそんな危険な職業の必要性があるのかと議論になって、需要そのものが減ってしまうんですよ。
レイ 普通の人はそんなことを思い立たないからな(笑)。
ジュン 結局、アイスロードトラック運転手になることができず、アメリカ本土に戻って仕事をしていたんですけど、自分らの母親が独り身で日本にいるじゃないですか。いろいろ考え直して、一度日本に戻ろうと決めたんです。
レイ 自分はアメリカで林業のお手伝いみたいなことをしていたんですけど、兄が日本に戻るというので、とりあえず一旦協力しようと。一緒に住めばお金も節約できるからということで、角田市からそんなに遠くない仙台市で暮らすことにしました。
ジュン そこを拠点に、各々が住み込みの仕事やアルバイトをしていたんですよ。レイは山小屋に行ったり、自分は自分で北海道洞爺湖の温泉旅館に住み込みで働いたりしていた。それで仙台に戻ってきたら、ある日突然、「プロレスをやらないか」って誘われて。
「弟は頭がおかしくなった」と冗談抜きで思ったが…
——久しぶりに会ったら、何の前触れもなく誘われたと。
ジュン はい。「観に行かないか」ならまだ分かるんですけど、いきなり「やろう」って誘われましたね。
レイ これには理由があって、山小屋で住み込みをしている最中にYouTubeで、九州プロレスの新人がデビューするまでのドキュメントを見たんですよ。それを見たら、熱いものが込み上げてきて、「これだ」って。
ジュン 相撲もそうだったけど、YouTubeに影響されすぎだろ、おまえ(笑)。
レイ ハッハッハッ! そうかもしれないな!
ジュン プロレスなんてもちろんやったことないじゃないですか。ただ、厳しい世界であることはイメージできる。しかも、自分たちは30歳を超えている。そこからプロレスを始めるなんて、「弟は頭がおかしくなった」と冗談抜きで思ったくらいです。
レイ 兄を誘ったのは、タッグチームとして自分たちのイメージができたこと。あと、兄は仙台に帰ってきてからも、毎日身体を鍛えていたんですよね。自分もトレーニングはしてましたけど、自分の2倍3倍くらいやっていた。
ジュン 相撲がダメだったじゃないですか。それなのに、体を鍛えることまでやめてしまったら、本当にダメになってしまうような気がして。住み込みの仕事をしているときも、空き時間があればずっとトレーニングをしていたんですよ。
レイ 自分が家で普通にテレビを見ていても、兄は鏡に向かってシャドウボクシングとかをやっているんです(笑)。2時間くらいずっと動いていて、汗だくになりながらやっている。そんな姿も見ていたら……自分もそうでしたけど、兄は絶対にそういった世界に身を置いた方がいいって思ったんです。あまりやりたくないことをやるよりも、自分たちが前のめりになれるものをやった方がいい。プロレスだったらきっとそれが叶うと思って、首を縦に振るまで誘い続けたんです。
撮影=杉山秀樹/文藝春秋
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(我妻 弘崇)
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